私の知らないあなた1


 紫紺が『うういしゅ』と私の名を呼んでくれてから、月の満ち欠けが二巡しました。

 今、紫紺は三歳ほどの幼子になりました。

 初めて『うういしゅ』と呼ばれた時は感動したものですが、今ではしっかり『ははうえ』と呼ぶようになりました。黒緋のことも上手に『ちちうえ』と呼んでいます。

 普通ではない成長速度には目を見張ります。最初は困惑することもありましたが、紫紺が元気に庭園を駆けまわったり、私の作った料理をたくさん食べてくれたり、すやすやお昼寝したり、そういう姿を見ているうちに気にならなくなりました。

 かわいくてかわいくて、でも。


「いいですか、紫紺。今日から鍛錬たんれんが始まります。つらいこともたくさんあると思いますがお利口に鍛錬するのですよ?」

「わかった。だいじょうぶだ、オレはできる」


 紫紺がこくりっと頷きました。

 そう、今日から紫紺の鍛錬が始まるのです。


「紫紺……」


 私は紫紺の幼い手を取り、両手で包むように握りしめました。

 そしてまだ三歳の紫紺に言い聞かせます。


「約束してください。危ないことはしないこと、黒緋様の言うことをしっかり聞くこと、わがままはしないこと」

「わかった」

「お昼のおにぎりを食べるときはよく手を洗ってくださいね。たくさん食べるんですよ」

「うん。ははうえのおにぎりだいすきだ。ぜんぶたべる」

「いい子です。他にも」

「鶯、まだか?」


 私の注意を遮るようにして黒緋が声をかけてきました。

 最初は見守ってくれていた黒緋ですがれてしまったようです。


「す、すいませんっ。初めての鍛錬ですから注意をと思いまして」

「紫紺なら大丈夫だ。必ず強くなる」

「ええ、そうですが……」


 紫紺は黒緋の血を引いた特別な子どもです。必ず強くなるでしょう。

 でもどうしても心配を隠せない。

 だって紫紺はまだ三歳の幼い子どもなのです。普通の子どもと違うと分かっていても、どうしても不安を覚えてしまいました。

 困惑でうつむいてしまう私の肩に黒緋の大きな手が乗せられました。


「……心配するな。無理はさせない」

「約束してくださいね」

「ああ。大丈夫だ」


 黒緋は私を安心させるように微笑むと、紫紺を振り返りました。


「行くぞ」

「うん!」


 紫紺は元気よく頷くと、正門に向かって一人で駆けだしました。

 初めての鍛錬を遊びの延長だと思っているのですね。


「……あれ分かっていませんよね」

「元気があっていいじゃないか。頼もしいくらいだ」

「そうかもしれませんが……」


 物言いたげな顔をしてしまう私に黒緋は苦笑すると、先に行ってしまった紫紺を追って歩きだします。


「では行ってくる。陽が沈むまでに帰ってくる」

「分かりました。夕餉の支度をして待っています。いってらっしゃい」

「ああ、頼んだ。ではな」


 私は鍛錬に行ってしまった二人を見送って、その姿が見えなくなると小さなため息をつきました。

 黒緋は大人の余裕がある鷹揚おうような男ですが、でも紫紺を強くすることに関しては強い思い入れがあります。どうしても紫紺を強くせねばならないというのです。

 私は理由を知りませんが、いつか教えてくれるでしょうか。

 教えてくれますよね。だって私は黒緋の妻で、紫紺の母親です。きっと教えてくれますよね。




 黒緋と紫紺が鍛錬に行って半日が過ぎました。

 空は夕暮れの色に染まって、西の山間やまあいに日が沈んでいく。

 私は庭園に面した渡殿で針仕事をしていました。紫紺は成長が早いので着物の裾を直してあげなければならないのです。

 針仕事をしながら正門を見つめました。

 そろそろ帰ってくると思うのですが、黒緋も紫紺もまだ帰ってきません。

 針仕事に集中しなくてはと思うのに、なにかあったのかもしれないと嫌な想像ばかりしてしまいます。

 こうして落ち着かない気持ちで過ごしていると、ふと「今帰った」と正門から黒緋の声がしました。

 私は直していた着物を置くと急いで出迎えます。


「おかえりなさい! って、紫紺!?」


 黒緋は片腕でぐったりした紫紺を抱えていたのです。

 しかも全身傷だらけで「ぐすっ、ぐすっ」と涙ぐんでいました。朝の元気な姿は欠片もありません。


「紫紺、怪我だらけじゃないですか! なにかあったんですか!?」


 こんな三歳の子が怪我だらけになるなんて……。

 私は黒緋に抱っこされていた紫紺を受け取りました。

 すると紫紺は私にぎゅっとしがみついて、肩に顔をうずめて嗚咽おえつを噛みしめています。


「どこか痛いんですか? 紫紺、顔を上げてください」


 でも紫紺は顔をうずめたまま首を横に振りました。

 なにがなんだか分かりません。

 答えてくれない紫紺におろおろしてしまいます。


「黒緋様、いったいなにがあったんですか?」

「心配するな、紫紺は鍛錬についていけなくて悔しがっているだけだ」

「こんな傷だらけになるほどの厳しい鍛錬を?」

「軽い体力作りだ。ついでに猪が出てきたから戦わせてみた」

「は!?」


 衝撃に思わず大きな声が出ました。

 いのしし? いのししってあの猪ですよね! 三歳がいのししと戦うなんて……!


「な、なに考えてるんですか! 紫紺はまだ三歳なんですよ!?」


 私は黒緋にそう声をあげると、抱っこしている紫紺の体をたしかめます。


「大丈夫ですか? 痛いところはありませんか?」

「うぅ、あしいたい。いのししがつっこんできたんだ……」

「なっ!」


 言葉を失いました。

 ああ眩暈がしそうっ……。


「今すぐ手当てしてあげますからね!」


 私は紫紺を抱っこして寝殿に駆けこんでいきます。

 でもその時。


「鶯、支度したくはできてるか? 汗を流したいんだが」

「出来てますよ! お好きにどうぞ!」


 私はそう声を上げると紫紺を連れて奥へ引っ込みました。

 後ろでは黒緋が「なにを怒ってるんだ……」と首を傾げていましたが、今は紫紺の手当てが最優先です。




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