世界で一番優しくて、世界で一番ひどい男7



 翌日。

 寝殿には私一人が残っていました。

 黒緋と紫紺は朝から鍛錬で山に行き、萌黄は御所ごしょへ行ったのです。

 一人残った私は夕餉の下拵したごしらえを終えると庭園の掃除をしていました。

 庭帚にわぼうきで庭園の玉砂利を整えていると、鍛錬に行っていた黒緋と紫紺が帰ってきました。


「ただいま、ははうえ!」

「おかえりなさい、今日もお疲れさまでした」


 そう言って出迎えると紫紺が嬉しそうに駆けてきました。

 私の足にぎゅ〜っと抱きつく紫紺をなでなでしてあげます。


「おにぎりありがとう! ははうえのつくったみそのおにぎり、すっごくおいしいんだ! げんきいっぱいでる!」

「ふふふ、それは良かったです。今日も頑張ってきたんですね」

「うん。オレ、つよくなってるぞ! ははうえ、びっくりするとおもう!」

「それは楽しみですね。さあ、夕餉の前に湯浴ゆあみをしてきなさい」

「わかった! きれいにしてくる!」


 紫紺は湯浴みをするために駆けていきました。

 それを見送った私は黒緋に向き直ります。


「おかえりなさい。お疲れさまでした」

「ただいま、鶯」

「紫紺が頼もしいことを言ってくれるようになりましたね。鍛錬は順調ですか?」

「問題ない。紫紺は素晴らしい素質を持っている。神気を操る呪術はもう少し修業が必要だが、武術がそれを補っている。持って生まれた才覚に恵まれた子どもだ」

「そうですか。嬉しいことですね」


 紫紺に力が求められるのは天妃のためだと分かっています。でも、我が子である紫紺の成長は嬉しいことでした。


「鶯のおかげだ。お前との子でなければ、あのような俺の望む子にはならなかった」

「そうなんですか?」

「当たり前だろう。子作りの相手は誰でもいいわけじゃない。俺とお前だから紫紺が生まれたんだ。やはり相性がいいのだろうな」


 嬉しそうに話してくれた黒緋に顔が熱くなりました。

 黒緋は私と子どもを作ったことを喜んでいてくれるのです。たとえそれが天妃のためだったとしても、黒緋の役に立てたことが嬉しいです。


「ありがとうございます。黒緋様」

「感謝したいのは俺の方だ。俺や紫紺を支えてくれてありがとう」

「斎宮の白拍子が天帝につかえるのは当然のことですからっ」


 恥ずかしくなってぶっきら棒な口調になってしまいました。

 でも照れ隠しは見抜かれていて、黒緋は私を見て優しく笑んでくれました。

 その眼差しに耳まで熱くなってしまいましたが、ふと、門の前に牛車が停車しました。萌黄が御所から帰ってきたのです。

 牛車から降りた萌黄は黒緋と私を見つけると嬉しそうに歩いてきます。


「鶯、ただいま」

「おかえりなさい、萌黄。御所はどうでしたか? 粗相そそうのないようにご挨拶できましたか?」

「子どもじゃないんだから大丈夫よ。緊張したけどちゃんとご挨拶できたから」


 萌黄は私にそう話すと、かしこまって黒緋にお辞儀しました。


「ただいま戻りました」

「おかえり、萌黄。そんなにかしこまってもらわなくてもいいんだが」


 うやまう態度を崩さない萌黄に黒緋が苦笑して言いました。

 昨日から黒緋は気楽にしてほしいと萌黄に言っていますが、斎王の萌黄は断固として譲らないのです。


「それは許されません。あなた様は天帝です。斎王の私は天帝におつかえするのが役目です」


 やっぱり譲らない萌黄に、「強情なところは鶯と同じだな」と黒緋は肩を竦めました。

 でも黒緋は優しい眼差しで萌黄を見つめます。


「萌黄、御所の話を聞かせてくれないか? お前とゆっくり話がしたい」

「はい、喜んで」


 頷いた萌黄に黒緋も嬉しそうに頷きます。

 黒緋は「さあ中へ」と萌黄を促しながら私を振り返りました。


「鶯、お前も一緒に来い」


 黒緋は当たり前のように私を誘ってくれました。

 でも一歩も動くことはできませんでした。

 萌黄に向けられる黒緋の眼差し。そして萌黄の背中に添えられた黒緋の手。

 それを目にし、私の顔が強張っていく。

 意識していなければ汚い言葉をいてしまいそう。


「……いいえ、私は掃除が終わっていませんので」

「掃除は後でもいいだろ」

「いえ、途中で放り出すわけにはいきません」


 せっかく黒緋が誘ってくれたのに一緒に行くことができません。

 黒緋と萌黄が楽しそうに笑いあう姿など見たくなかったのです。


「お前は強情だな」


 少し呆れた口調の黒緋に胸がツキンと痛む。

 しかしいつものました表情を装いました。


「中途半端は庭園の景観けいかんそこないます。よくありません」

「……分かった。だが、終わったらお前も来い」


 黒緋はそう言うと、萌黄を連れだって寝殿へ歩いていきました。

 二人を見送って、その姿が見えなくなった頃。


「っ……」


 私の貼りつけていた表情が崩れていってしまう。

 ゆがんでいくそれを隠すようにうつむき、庭箒をぎゅっと握りしめました。







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