はじめての赤ちゃん、その名は紫紺。2



 赤ん坊が生まれた翌朝。

 朝陽の眩しさに重い瞼をぎゅっとしたけれど、すぐ側の小さな気配に飛び起きました。


「ああ、やっぱり夢みたいです……」


 ため息とともに呟きました。

 私の隣の布団には小さな赤ん坊が小さな寝息をたてて眠っていました。

 この子は黒緋と私の赤ん坊。その名は紫紺しこん

 昨夜、はすの花から生まれてきたのです。

 私と黒緋は赤ん坊を迎え、紫紺と名付けて育てることにしました。


「あなたは紫紺。紫紺というのですよ」


 私は眠っている紫紺にそっと囁きました。

 つややかな黒髪、愛らしいつぶらな瞳をしているけれど目尻はキリッとして利発りはつです。赤ん坊ながら綺麗な顔立ちをした男の子。きっと成長したら黒緋のような素敵な殿方になるでしょう。

 でも今は赤ん坊特有のまろい輪郭りんかくひたいが愛らしい。


「……うー……」

「あ、寝言ですね。ふふふ、赤ん坊とは寝言も可愛らしいのですね」


 なんだか不思議な感覚です。まさか私が子育てをすることになるなんて。

 伊勢の斎宮で白拍子をしていた時は想像もしたことがありませんでした。

 私は初めての赤ん坊を見学していると、少しして眠っていた紫紺が顔をくしゃりとさせました。むずむず動いたかと思うとパチリッと目を覚まします。


「おはようございます。紫紺、よい朝ですよ」


 そう言って顔を覗きこむと、つぶらな瞳と目が合いました。

 紫紺が小さな手を私に向かって伸ばしてきます。

 小さな指が愛らしい。私の指を差しだすと、紫紺の小さな手が指を握りしめてくれました。

 指に感じる甘い締めつけに思わず口元がゆるみます。

 ああなんて可愛らしいんでしょうね。くすぐったい気持ちがこみあげます。


「ふふふ、抱っこしてあげます」


 ゆっくりと小さな体を抱き上げました。

 両腕に包むように抱っこすると、ふわりと甘い赤ん坊の香り。

 昨夜生まれたばかりの紫紺はまだ片腕に収まるほど小さくて、強く抱きしめれば壊れてしまいそう。


「あうー、あー……」

「可愛らしい声ですね。もっと聞かせてください」


 そう言って頬を寄せると私の顔をぺたぺた触ってくれました。

 くすぐったさにクスクス笑っていると、今度は髪をぎゅっと握ってくいくい引っ張ってきます。


「こらこら、髪を引っ張ってはいけません」

「あーうー」

「ふふふ、仕方ないですねえ」


 紫紺のまろい頬をちょんちょんとつついてあやしました。

 紫紺を抱っこしていると今まで感じたことがない穏やかな気持ちになります。

 だって、じわりと伝わる体温がこんなに温かいのです。

 この小さなぬくもりを守り抜かなければと……、…………ん?


「……本当にぬるいような…………」


 ハッとして温もりの正体をたしかめると。

 チョロチョロ〜〜。

 紫紺の足がれていて、私の夜着までれていて……。


「お、おらししましたねっ……!」


 そう、おらしでした!

 しかも紫紺は満足そうに手足を動かします。


「あーあー」

「あーあー、ではありません。ああこんなに濡れて……」

「あうー」

「う、動いてはだめです。すぐに綺麗にしてあげますからじっとしてくださいっ……」

「あーうー」


 おらししたのに元気な声をだしてなんだかほこらしげ。

 それを見ているとらされたのに脱力して笑ってしまいそうになる。

 仕方ありませんね、だってまだ生まれたばかりの赤ん坊です。赤ん坊とはおらしするものですから。それくらい子育て初心者の私にだって分かります。


「これが赤ん坊というものなのですね、手強てごわい相手ですがお相手しましょう」

「あうあー」

「ふふふ、朝から元気でよいことです」


 私は笑って言うと紫紺を綺麗にするために湯殿ゆどのに連れていきます。

 こうして私の子育てが始まったのでした。




「子育てというのは大変なんですね……」


 昼餉が終わって私はようやくひと息つけました。

 朝から慣れない子育てで慌ただしい時間をすごしていたのです。

 朝のおらしから始まり、朝餉あさげでは用意してもらった乳を「べー」と吐き出され、着替えをさせたり、抱っこして寝かしつけたり……。朝から振り回されて大変でした。

 式神の女官たちが手伝ってくれなければ、今こうしてひと息つくことも出来なかったでしょう。


「あーうー」


 紫紺が上機嫌な声をあげています。

 座敷にいた敷物しきものに仰向けに寝転がって小さな手足をバタバタさせていました。機嫌がいいのはよいことです。

 私はその姿に目を細めると、さっそく琴の稽古けいこに励むことにしました。

 伊勢を離れたとはいえ私は斎宮の白拍子。稽古をやめてしまうことはしたくありません。

 午後の穏やかな陽ざしとゆるやかな風に乗って琴の音が寝殿に響きました。

 側の紫紺も「あー」「うー」と琴音に合わせるように声を出してくれます。

 私もそれに応えるように琴を奏でていました。


「鶯、琴の稽古か?」


 ふと黒緋が訪れました。

 私はげんはじく手を止めようとしましたが、「続けてくれ」と黒緋に稽古を続けるように言われます。

 黒緋は静かに入ってくると紫紺の側に腰を下ろして私の琴を聞いてくれました。

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