第8話◆新生活初日の夜
「ふいぃ、やっと着いた」
扉を開け靴を脱いで玄関から上がり、玄関入ってすぐの狭い廊下のようなスペースに倒れ込むと、フローリングの床からはワックスのような香りがした。
くそぉ、大家が魔王のくせに手入れの行き届いている物件だぜ。
俺が借りた部屋はベランダ付き1Kで風呂とトイレは別。洗濯機スペース有の洗面所付き。そしてエアコンとインターネットも完備。
玄関の土間の横には靴箱。
玄関短い廊下を挟んでキッチン。廊下の壁には小さなクローゼットがある。
キッチンはややゆとりがある広さだが、ダイニングキッチンというほどでもない。
そのキッチンと背中合わせになる場所の洗面所に繋がる扉があり、洗面所の向かって右には風呂、左にはトイレへと繋がっている。
そのキッチンの奥には八畳より少し広いくらいの洋間があり、その一番奥の掃き出し窓からベランダに出られる構造になっている。
大学生の一人暮らしには勿体ない広さと設備なのだが、都心からは少し外れており最寄りの駅から少々離れた場所のため家賃もお手頃。
ま、大学まではそんなに遠くないし自転車で通う予定なので、場所的な不便さはあまり気にならない。
それにこの広さなら友達や彼女を呼ぶこともできるし、彼女ができたら半同棲なんかもできちゃったりして。
友達も彼女もまだいないけど。
それに何よりも"見えざる者"に怯えなくていいということが最大の理由で契約した。
確かに魔王が大家で、その部下が住んでいるようなアパートならその辺を徘徊しているような幽霊や妖怪くらい何とでもしてくれそうなのだが、元勇者の俺としてはかなり複雑な気分である。
廊下に倒れ込み瞼が重くなるのを感じながら、こちらに到着からのことを思い返す。
いきなりバタバタと逃げ回る羽目になり、更に衝撃の事実を色々と聞くことになり、思えばすごく非現実的な出来事が怒濤のように起こっていた。
それに気付くとぐんにょりとした疲れと、ほどよくなってきた満腹感で更に瞼が重くなった。
引っ越しの荷物はキッチンに運び込んで置いてあると、魔王が言っていたな。
荷物はあまり多くないので整理は明日以降にして、このまま床で眠ってしまいたい。
床も綺麗だしここで寝ても大丈夫な気がする。
ああ~、ちょっとだけ~。
ヒヤッ!
春になったばかりで日没後はまだ寒い時期、床で一瞬ウトッとした俺の足先が一気に冷えた気がして意識が戻った。
足の先は玄関の土間に投げ出したような体勢。そりゃ足の先が冷えるわ。
……そういえば、住人が見える方の奴らばかりだから、見えざる奴らが寄って来やすいとか言っていたな。
やっぱ、ちゃんと部屋に布団敷いて寝よ。
ついでに寝る前に変な者が入って来ないように対策をしてから寝よ。
入って来た時の対策もしておこ。
……実家にいる時と変わんねーじゃねーか!!
やはりそのまま寝るのはやめて体を起こし、すぐ横に投げ出していたスポーツバッグの中から塩と盛り塩セットを取り出した。
塩はどの家庭にもほぼ置いて、あるお手軽魔除けアイテムなのだ。
そして盛り塩セットとは、その名の通り盛り塩を作るための八角錐状のカップと、盛り塩を乗せるための小皿である。
百円ショップで買えるため、安くてお手軽で学生の俺に優しい魔除けグッズなのだ。
八角錐の器に塩をギュウギュウと詰めて小皿の上にパカッと伏せて器を持ち上げると、簡単に形のよい盛り塩が誰でも作れる優れものだ。
引っ越しの荷物を解くのは後でも困らないが、うっかり変な者が部屋に入ってきたら困るので、侵入者対策の盛り塩最優先。
とりあえず、玄関。
人が出入りする場所のため、ここから招かれざる者も入って来やすい。
土間の横にある靴箱の上に置いておこう。
それから、トイレ。
ここは悪い者が入ってくるというよりも、穢れや悪い運気が溜まり安い場所なので、どちらかというと浄化の意味合いだ。
うっかり踏んだり蹴ったりしないようにトイレの隅っこに置いておこう。
あとはキッチン。
水回りが運気が澱みやすい、そして火もある場所なのでなおさら。
同じ理由で風呂も。当然のように水回りだし給湯器が火属性になる。
水回りといえば洗面所もだな。
この辺りにちょんちょんと盛り塩を載せた小皿を置いて完成。
月に二回くらい取り替えるようにするのがいいかな。
本当は鬼門と裏鬼門という鬼や邪気が出入りするといわれる方角にも盛り塩を置くのがよいのだが、部屋の中心を正しく特定できなければ意味がないので今日のところは断念。
魔王に聞いたらわかるかな?
もしかするとこのアパート全体に魔除けの魔法か何かがかけてあったりするのかな?
しかし引き寄せられてくる奴がいるって言っていたから、来る時は来るんだろうな。
ま、盛り塩みたいな魔除けも効果があるが、一番効果があるのは部屋を散らかしたり汚したりしないことだな。
盛り塩を置いて回っているうちに少し元気になったので、少し荷物を解いて布団を引っ張り出してくるくらいの気力は出てきた。
ベッドはないのでとりあえず床に布団を敷いて寝る。
家具の類いは実家にあるのを送るより引っ越し先で買った方が安上がりなので、後日買うつもりで送らなかったんだよな。
まだ何もない部屋に布団を敷いて、サッとシャワーを浴びてスウェットに着替えすぐにでも寝る体勢なのだが、その前に。
線香とライター、それから数珠、引っ越し前に神社で貰って来た厄除けのお守りに、正月に買った破魔矢。
それらを今日一日抱えていたスポーツバッグから出して枕元にずらりと並べておいた。
カーテンもまだ用意していなくて明かりを点けていると窓から部屋が丸見えになってしまうので、明かりはすぐに消してしてさっさと布団に入ってしまおう。
窓はベランダ側にある大きな窓。ベランダの手すりがやや高めでしっかりとした目隠しになっていることに加え、ちょうど部屋の前に街路樹があるので、高い場所から覗こうと思って覗かなければ部屋の中を見られることはないはずだ。しかも夜だから明かりを消していれば中は見えないだろう。
というか、ないものはない! カーテンも明日買うものリストいき!
盛り塩を置いて回っているうちに一度は目が冴えたが、やはり肉体的に精神的にもかなり疲れていたのだろう、すぐに睡魔が襲って意識が飛んでいっていた。
その夜、夢を見た。前世、勇者だった頃の夢を。
魔王城はもぬけの殻のように魔物の気配はなく、ここに本当に魔王はいるのかという思いで魔王城の中を進んだのをなんとなく覚えている。
そういえば、魔王領との国境付近は激戦区で魔王軍との戦闘は多かったが、魔王領の奥まで入れば人間の国とたいしてかわらない雰囲気だった気がする。
ただそこに住んでいるのは人間ではなく、人間とは違う姿をした異形の者達。
俺達を警戒するようにチラチラと見られていたが、攻撃をしてくる様子はなかったので俺達も関わらずに進んだ。
武装もしておらず、ただ普通に暮らしているように見えたから。
姿は人間ではなくとも人間と同じように、会話をしている仲睦まじい家族の姿も見えたから。
何もしてこないその者達をこちらから攻撃してしまうと、俺達が侵略者のようだから。
複雑な気分だったが、トップである魔王を倒せば全てが終わると自分に言い聞かせながら、魔王領に暮らす者達の生活を目に入れないように先を急いだことを思い出した。
そして辿り着いた魔王の玉座の間。
漆黒の玉座に片肘をついて足を組んだ体勢で気怠そうに座り、表情のない顔でこちらを見下ろす魔王の姿は今でも覚えている。
そこで何か言われた気がするが、何も聞かず斬りかかった。
あの時見た魔王は姿は人間と同じでも、人間とは全く違う生き物のように思えた。
心などない、感情などない存在に。
だけど今日あった魔王はあの時見た魔王と顔はそっくりでも、何故かどこかが違って見えた。
身に付けている服のせいか?
あの時のようないかにも魔王という真っ黒なローブではなく、白いYシャツにスラックスのエプロン姿だったからか?
違う。間近で見た魔王からは、あの時ともっと違う何かを感じたがそれが何かはわからない。
ただ今日チラリと見せた、遠くを見るようにスッと目を細めた魔王の表情が妙に印象的で、夢の中に出てきた前世で見た魔王もその表情をしていた。
その魔王に斬りかかった俺に向かい魔王が光を放ち、視界が真っ白になったところでハッと目が覚めた。
ああ、あれは俺が死んだ時の記憶。
そう、魔王に斬りかかり触れることもできず、そこで記憶が途切れている。
その瞬間は思い出せないが、おそらくその辺りで俺は死んだのだろう。
前世最後の記憶で目が覚め、ガバッと体を起こして周囲を見渡した。
まだ外は真っ暗。部屋の外から街灯の光だけが薄らと差し込んできている。
枕元に置いてあるスマホの画面を触ると、時間は深夜一時半が過ぎたところだった。
まだまだ夜だしもう一度寝るかと布団を被ろうとしたのだが、なんとなくトイレにいきたくなってきて、ついでに喉も渇いた。
あ……、そういえばトイレットペーパーがない。しかも、こちらに着いてからコンビニにいくつもりだったので飲み物も買っていない。
大きい方ではないので今回はトイレットペーパーがないのは別にいいけれど、朝までに急にお腹が痛くなったら困るな。
気軽に声をかけてくれと言われてはいるが、もしもの時にトイレットペーパーがなくてトイレを借りにいくのはさすがに恥ずかしい。
面倒くささとと万が一のこととで葛藤しながらトイレを済ませ、水道水をコップ一杯飲んだら少し目が冴えてきた。
うーん、近くにコンビニがあったから歩いていってみるか。
どうせそこまでだし、スウェット姿のままでいいよな。
目が冴えてきたこともあって先ほどのまでの面倒くささはなくなり、引っ越して来たばかりの場所に少しウキウキした気分になりながら、夜のコンビニへと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます