第19話◆勝手に信じた俺が悪いのだけれど

 背後に大ツチノコの吠える声を聞きながら、あの交差点を目指し全力で自転車を漕ぐ。

 響き渡る声が途切れると、思わず体が硬直してしまいそうなくらいの激しい怒気と殺気が背後から押し寄せてきた。

 そしてそれが俺の後ろを高速で追ってくる。

 振り返ると憤怒の形相の大ツチノコが口を大きく開けて、よだれをまき散らしながら猛烈な勢いでこちらに迫ってきている。

 絶対に追いつかれてはならない。


 なんだかんだで結構な長時間全力で自転車を漕ぎ続け、息はすでにあがり、喉はカラカラ、運動量的な意味でも精神的な意味でも心臓はバクバク、太ももの筋肉もパンパン、膝もガクガク、逃げ続けるのはそろそろ限界である。

 だんだんと自転車を漕ぐ足が重くなり平地でもだんだんと速度が落ちてきて、緩い上り坂でもペダルが踏み込めなくなってきた。

 やばい、追いつかれる。


 前方にあの交差点は見えている。

 交差点まで逃げれば……いや、交差点までいったところで助けがくるというわけではない。助けが来るかわからない。

 自分が残る選択をしたことが間違いだったかもしれないと、後悔の感情が芽生え始める。

 なぜ信じようと思ったのか。

 今朝見かけただけの見えざる者を。昨日会ったばかりの前世の宿敵を。

 勝手に信じておいて、彼らを責めるような気持ちになるが、今更そんなことを思っても現状はよくならない。

 ならば自力で何とかするしかない。


 すぐ背後に突き刺すような殺気を感じながら、交差点の方向へと駆け――その手前のビルとビルの間の通路に滑り込んだ。

 人や自転車なら入ることができるほどの通路。中型トラックほどの大きさがある大ツチノコには入ることができるとは思えない通路。

 通路の上方もその幅は変わらず、ここなら先ほどのように上から奇襲される心配もない。

 ここで少し体力の回復を図り、その後この通路を奥に進み逃げるつもりだ。


 ズシンッ!


 俺がビルの隙間に逃げ込み、その奥まで移動して自転車を止めた直後、背後で重たい音がして地震のようにビルの壁が揺れた。

 振り返ると大ツチノコがビルの隙間に頭部を突っ込み、怒りの表情を浮かべてチロチロと舌を出しながらこちらに無理やり進んでこようとしていた。


 頭部はそれほど大きくはないのでビルの隙間に突っ込むことはできるが、胴体は太いためそこで引っかかり俺がいる場所にまでは入ってこられずにいる。

 ズシンという重たい音は、大ツチノコが俺を追いかけ勢いよくビルの隙間に突っ込み、胴体とビルが衝突した音。

 地震のような揺れはその衝撃。


 これだけ激しくぶつかったのなら、もしかすると現世に何らかの影響が出ているかもしれないな。

 時々に身の回りで起こる不可解な原因不明の音や不可解な出来事は、見えざる者の行動が影響していることもある。

 魔王曰く、隠世で起こったことは現世にはほとんど影響しないが、狭間で起こったことは現世に近い場所ほど、そして強い衝撃ほど現世に影響が出やすいらしい。


 あんまここにこいつを引っかけて時間稼ぎをしていると、現世でもビルに大きな被害が出るかもしれないな。

 ならばここで時間稼ぎをしすぎるのはまずいかもしれない。


 ……のだが、現世でビルにいる人、ビルのオーナーさんすみません!

 マジで体力の限界で、止まったら動けなくなっちゃいました!!

 ヒ……マジで膝がガクガクして、しばらく自転車を漕ぐのは無理ぃ。

 なので俺が回復するまでの間、大ツチノコ野郎がここに無理やり入ろうとしている影響で、現世でもビルがグラグラしたり変な音がしたりするかもしれないけれど我慢して下さい。

 わりと新しいビルみたいなので、現代建築のすっごい頑丈なビルですよね!?

 というかそういうビルの隙間を選んで逃げ込んだし。


 すみませんね、俺も自分の命は大事なんで。

 はー、ここなら水を飲む余裕もあるぜ。ついでに少しカロリー補充のチョコレートをも。

 お前にはチョコレートが包んであった銀紙をお裾分けしてやるぞ、ポイッ!

 ふははははははー、貴様は胴体が太くてここまで入ってこれらないだろー!

 悔しいか? 悔しいだろう! そんな貴様には、もう一つチョコレートの銀紙をくれてやるぞ! ポイッ!


 ショルダーポーチからミネラルウォーター入りのペットボトルを出して、水分を補給しながらついでに小さなチョコレートをモグモグ。

 チョコレートの包み紙は大ツチノコの口の中に投げ込んでゴミ処理も完璧。

 時々大ツチノコが隙間に入り込もうと頑張っているが物理的に無理すぎるので、奴の首が届かない位置で、自転車に跨がったまま少し車体を傾けビルの壁にもたれかかり一休み。

 自転車の向きを変えるほどの広さはないので、車体は前に向けたまま体を後ろにひねり大ツチノコに注意を向けた状態で休憩だ。

 舐めプのような状態になっているが、こうでもして休まないと俺の体力が限界なのだ。


 このまま奥へ進み大ツチノコから見えない場所に逃げることも考えたが、それだと奴が別ルートで俺を探しにくる可能性がある。

 そうなるとまた地獄の鬼ごっこの始まりになってしまうので、とりあえずこの届きそうで届かない場所で一休み一休み。


 届きそうで届かない場所というのは、このまま強引に進むか、別方向から回り込むかで判断に困るだろう?

 そしてそうやって判断が遅れているうちに時間が過ぎていくだろう?

 その間に俺は体力を回復しつつ、次の手を考えるんだ。


 ミシッ。


 嫌な音が聞こえた。

 それは大ツチノコが隙間に無理やり体を滑り込ませようとしてビルが軋む音。

 大ツチノコはまだ俺には届かない位置。

 口をグワッ開け、こちらに近付こうとしているが大丈夫。奴の生温かく生臭い吐息が俺まで届くのは不快だが、我慢できない範囲ではない。


 ミシシッ。


 嫌な音が聞こえるが、大丈夫。頑丈そうなビルだから大丈夫。

 だから、もう少し休ませてくれ。

 しかし少し怖いので足で地面を蹴って少しだけ自転車を前に進めた。


 ミシシシシシッ!


 さらに嫌な音が続く。

 うわっ……無理やり入ってきそう。

 落ち着け。

 もし入って来たとしても、奴の体の大きさではこの通路を抜けるのには時間がかかる。

 そう、それも俺の狙いだ。

 もし入ってきたとしても、奴の体が大きすぎて簡単にはこの隙間を抜けることができなくなるどこか、ここで身動きが取れなくなると予想している。


 スマホの地図アプリで逃走経路を確認しながら、ジワジワと通路の奥へと下がっていく。

 大ツチノコがビルの隙間に入ろうとしてビルが軋む音が、静かな狭間で妙にはっきりと聞こえてくる。

 そうだ、そのまま何も考えず前に進んでビルの隙間に嵌まっちまえ。


 こいつがあまり賢くなくてよかった。

 俺がビルの隙間に逃げ込んだ時点で一度引き下がって姿を隠し、進むか戻るかの二択を迫られたら俺の方がここから動けなくなるところだった。


 そうやって俺はジワジワと後ろに下がっているうちに、ビルの裏手の道へと抜けた。

 ここもあまり広い道ではなく、あのデカブツが通路を抜けてもスムーズに進めるほど広くない。


「あばよ! しばらくそこに挟まってろ!」


 短い休憩中に水分とカロリーを補充し、僅かに体力の回復した体で再び自転車を漕ぎ始める。

 裏道からあの交差点を目指して。

 そしてツチノコがビルの隙間で動けなくなっているうちに、あの坂を上って麻桜荘まで戻るつもりだ。

 大丈夫、あの隙間にあの巨大で挟まったのなら簡単には抜け出せない。


 ビルの隙間からビルの裏道へ抜け、そこから交差点へと戻りチラリと先ほど俺が逃げ込んだ交差点手前にあるビルの並んでいる方を見ると、隙間に体の大半を突っ込み尻尾だけがチョロンと出ている大ツチノコの姿が見えた。


 交差点を麻桜荘のある坂道の方へと渡ると、遠くからゴーゴーという車のエンジン音が聞こえ始め少しホッとしかけたところで、見覚えのあるエプロン姿の長髪美形とその後ろに季節外れの白いワンピースが、人の気配のない坂道を下りこちらに向かって近付いて来ているのが見えて、完全に力が抜け坂道を上がるほど力がなくなり自転車を降りた。


「おせーよ、バカ」


 勝手に来てくれると信じていただけで、それを少し後悔をしたりもしたが、その姿が目に入った時の俺の顔は、悪態をつきながらもニヤニヤしていたと思う。


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