【28日目 かわたれどき】

深夜。

教皇の従者マリヌスは灯りを片手に暗い廊下を歩いていました。夕方になって招集された会議が、さっきようやく終わったのです。私室に戻ってきた教皇の顔色がひどく悪かったのが気になる…ちゃんと寝台で落ち着いて眠ってくれるだろうか、と考えながら自分の部屋へ戻ろうとしていたマリヌスは、ふと立ち止まりました。


どこからか足音が聞こえます。


マリヌスは緊張しました。この教皇専用の階で、真夜中に廊下を歩いている人間など従者の自分以外にいないはずです。

奇妙な鳥を連れた修道士が滞在している客室も、夕飯の後片付けをした後に廊下側から自分が鍵をかけたので出る事はできません。下の階から唯一出入りできる階段も立ち入りは厳重に見張られています。

マリヌスが立ち止まって気配を伺っている間も、足音はゆっくりと奥の方へ進んでいます。彼は意を決して、そっと後を追いました。不審者と遭遇した時は、大声で叫べば下の階にいる警備の者が駆け付けてくれるはず…そう思いつつ、昔聞いた毒殺された教皇の亡霊がさ迷い歩く怪談を思い出してしまい、祈りの言葉を呟きます。

やがて、足音が止まりました。この先は行き止まりです。

少し早足になったマリヌスは音が消えた辺りに近づき、灯りをかかげ叫びました。

「誰だ!」

しかしそこは無人で、暗い廊下と壁があるばかりでした。



ホノリウス5世は、深夜を過ぎてようやく広い寝台に疲れた体を横たえることが出来ました。対立教皇の件で首脳陣を招集した緊急会議は紛糾し、長時間の厳しい応酬となってしまったのです。私室に戻ってもしばらく書類を読んでいたせいで頭痛もひどく、目を閉じ溜息をつきました。

最近は年齢を感じさせられる事が増えた…と考えているうちに、重苦しい眠りにおちていきました。


遠くから歌声が聞こえます。

ずっと昔に聞いた歌…涼しい風が頬を撫で、甘い花の香りがします。良い気持ちだ、とぼんやり目が覚めました。

寝台に入る時に灯りは全て消したはずなのに、周囲が明るく見えます。

不思議に思いつつ再度眠りそうになったホノリウス5世は突然、寝台のすぐ側に人が立って自分を見ているのに気づきました。


ゆったりとした布地の洒落た服装、肩まで届く美しい金髪。背の高い、整った顔立ちの青年……。

その顔を見たホノリウス5世は驚きで目を見開きました。

「コスドラス!?」

青年は魅力的な笑顔を浮かべ、低く気持ちの良い声で挨拶をしました。

「おはようございます、ホノリウス5世」


ホノリウス5世は周囲を見ながらゆっくりと起き上がりました。

寝室の灯りがともっているので余計に警戒してしまいます。

「…その顔は確かにコスドラスだが…なぜ胴体がある?どこからどうやって入ってきた?」

「説明しますよ。お話ししたいこともありますので、隣の部屋にどうぞ」

「突然現れて気安く言うな。貴様を信用するかまだ決めておらぬ」

「害するならとっくに実行していますのでご安心を。それに私が何者なのか知りたいでしょう?」

ホノリウス5世はコスドラスを睨みつけました。

「さあ、こちらへ。夜明け前の今頃は冷えますから暖めておきましたよ」

コスドラスは背を向けると隣室に向かいます。ホノリウス5世は少し迷って、寝台から降りて寝間着の上から長い上着を羽織ると後に続きました。


暖炉では気持ちの良い炎が燃えていて、その前の椅子にコスドラスが腰掛けています。ホノリウス5世は自分の許しを得ず、しかも自分より先に座っている姿に少しむっとしましたが、とりあえず黙って向かいの椅子に座るとコスドラスの全身をじっくり眺めました。足には靴もちゃんと履いています。

「その首から下の胴体は幻覚ではなさそうだな」

「もちろんです。握手も出来ますが?」

「遠慮しておく。しかし馬車の中では具合が悪そうだったし、右耳も無かったが今の…首は健康そのものに見えるな」

「必要があって胴体を戻したので、首の状態も戻しました。釣り合いが取れませんからね」

「胴体が必要?何のために」

「理由は2つあります。まず、あなたは生首の私を散々物扱いしました。だから人間であるところを一度きちんと見てもらおうと思ったんですよ」

ホノリウス5世はさすがに言葉に詰まりました。コスドラスは正面からじっとこちらを見つめています。

「そうだな。確かに、生首とはいえ物扱いをしたのは悪かった。人間だと認め教皇として私の行為を謝罪する」

コスドラスは笑顔になりました。

「さすがは教皇です。謝罪を受け入れますよ」

「そうか。ところで私に対する過去の様々な無礼な態度はどう謝罪してもらえる?」

「それらの件は、あとでまとめて謝罪しますよ。まだ色々お話する事がありますから」

「…勝手だな。まあいい。とりあえず不問にしておこう」

「お心の広さに感謝します。さて、胴体が必要だった理由のもう一つは、あなたが宮殿内に張り巡らした<隙間>を調べるためです。生首では長い距離を歩き回れないのでね」

ホノリウス5世は音をたてて椅子から立ち上がりました。


コスドラスは冷静に見上げました。

「言ったでしょう、光と影が見えるのはあなただけではありません。

最初にこの宮殿に入った時は驚きましたよ。至る所に黒い<隙間>があるんですからね。

客間の<隙間>から外に出て歩き回ってみたら、この階の<隙間>からのみ入れる隠し部屋を見つけました。室内には魔術の道具や本などがたくさんあって感心しましたよ。あの部屋で術を研究したり、実行して猫に乗り移ったりしていたんですね。ああご心配なく、手を触れたりはしていませんから。

確かに幾ら私室とはいえ、ここでは無理だ。教皇が怪しげな事をやっているのを知られたら大騒ぎになりますからね。口留めにも限界があるでしょう」

ホノリウス5世の顔色がかすかに変わりました。


「他の<隙間>は宮殿内を姿を見られずに動き回るためでしょう?確かにここは政治の場でもあるから、<隙間>に身を潜めて配下の者たちの盗み聞きなどが出来れば色々有利だ。

そしてひとつだけあった大きな長い<隙間>は宮殿の外に通じていた。あなたは<隙間>を使って宮殿の外へ出入りしていたんですね。宮殿を出てしまえば国境には教皇旗しかないし、服装を貴族のものにしておけば徒歩で別の国に行くのも時間はかかるが簡単だ。上手い方法です」


ホノリウス5世はゆっくりと椅子に座り直しました。

「なんのために<隙間>を歩き回った?」

「ただの好奇心です。それに警戒厳重な教皇の私室に<隙間>から入ったら面白そうだと思いましてね」

コスドラスはうっすらと笑って付け加えました。

「どうやら長い付き合いらしい『影』を呼び出しても今は無駄ですよ、教皇」

しばらく室内は無音でした。

コスドラスはくつろいだ態度で暖炉の炎を見つめ、ホノリウス5世は唇を噛み締めてそんなコスドラスを見つめていました。


ホノリウス5世は、急に自分が何か重大な事に巻き込まれているという恐れを、そして椅子に座っているコスドラスの姿に畏怖を感じました。

自分の前にいるコスドラスは、今までの生首のコスドラスとは全く異質の存在だという事にようやく気付いたのです。

今自分は危険な状況だろうか?とホノリウス5世は自問しました。

見張りを呼んでも無駄でしょう。いやそもそも、自分の声が外に伝わるのか…部屋の隅の<隙間>の方を見ると、いつもより霞んで見えます。コスドラスが何かやったのか…<隙間>の存在を気づかれるとは思ってもいなかった…。

しかし、逃げる事は出来ません。

生首のコスドラスを宮殿まで連れて来たのは自分なのですから。

そしてどれほど危険でもコスドラスは必要なのです。


ホノリウス5世は思い切って尋ねました。

「そなたは一体、何者なのだ?」

コスドラスは答えました。

「私は天使です。首だけの天使という存在ですよ」

ホノリウス5世はコスドラスの顔を凝視しました。


「天使だと…!?」

「天使です。羽根はありませんがね。

あなたが調べた記録通り、首を切られて殺されて、生首、首だけの天使となりました。聖人や癒しなどの諸々の詳しい話は連れの修道士にしておきましたから、後で彼から聞き出してください。面白くもない思い出話をもう一度するのはご免です」

「信じ難いが…だから天使を呼びよせる事ができるのか?」

「そうです。ただ何度も言っていますが、私以外の人間がいる場所には来ません。天使は基本的に人間に姿を見られたり、人間と関わり合う面倒を嫌がりますので」

「やはりそこは変わらんか…だがそなたは違うのか?」

「私は変則的な天使なのですよ。何者かの気まぐれで、人間に近い存在になったせいで人間の側にいます。ただやはり関わり合いになるのは嫌ですね」

「天使ならば、なぜ病になどなったのだ?人間であるフィアクルの作った薬が効いたようだが」

「地上にいるので天使の力を使わないよう控えていたら、旅をしている最中に色々あって具合が悪くなりました。ただ私を診察した修道士は非常に有能だったと言っておきます」

「馬車の時のように言い逃れをせずに、私の質問に素直に答えるな。どうして気が変わったのだ?」

「昨夜修道士から教皇の話を聞いて、いい機会だと思って考えを変えました。それだけです」

「ふむ?天使の考えは良くわからんが、まあいいだろう」

ホノリウス5世は急に身を乗り出しました。

「ところで、そなたが天使ならば、神に会った事はあるのか?」

コスドラスは苦笑しました。

「ありません…ひたすら上にいらっしゃるのでしょうね」

「そうか。それは残念だな」

ホノリウス5世は溜息をつき、コスドラスは苦笑したままちらりと天井の方を見ました。


…夜明けが近づいてます。


「ところで教皇。私がこの部屋を訪問した目的をお話します」

ホノリウス5世は疲れたように息を吐きました。

「一応聞こう…なんだ?」

「先ほど言った通り私も含め天使は普通は人間と関わり合うのを嫌がります。しかし一つだけ決まりのような事があります。

受けた恩は返さねばならないのです。以前私は召使いの女性に恩返しとしてパンを焼きました。そして今度は私を世話してくれた修道士に恩返しをせねばなりません」

「恩返しとは妙な表現だな。召使いはともかく、ドナトスは友ではないのか?彼はそなたの友として、平の修道士でありながら教皇の私に正面から反論して守ろうとしていたぞ」

コスドラスは肩をすくめました。

「私は天使で彼は人間です。見えている世界が違いますから友になどなれませんよ。ただ彼が敬虔で善良な人間なのは認めますし、天使はそういう人間を粗略には扱いません」

「天使とは結構冷たいものだな…それで?その恩返しとやらに私が関係あるのか?」

「…あります。私が対立教皇の問題を解決します。その事を教皇、あなたに知っておいて欲しい、それが私の訪問の目的です」

ホノリウス5世は、両手で椅子のひじ掛けを握り締めました。


寝室で眠っていた灰色鳥は、不思議な胸騒ぎで目が覚めました。

いつの間にか寝台の上にいて、隣では修道士が静かに眠っています。

胸騒ぎの理由はすぐにわかりました。

生首の気配が一切しないのです。

修道士と生首だけが人間の建物に泊まって自分は外に離れても、2人の気配はいつも感じていましたし、元気だった頃の生首が一人でどこかに出かけても気配を追うことは出来たのです。

それなのに、今、完全に生首を感じられなくなっています。

部屋の中は物音ひとつしません。灰色鳥は少し焦って寝台から飛び降りると、他の部屋を歩いて見て回ってから窓際に座り込んでまだ暗い外を眺めました。

やはり、生首はどこにもいません。

ひとりでどこかに行ってしまったのでしょうか。

眠る前、修道士は自分と生首を抱きしめて泣いていました。

生首をひとりにしてしまうのが辛いと泣いていたのです。

灰色鳥は、生首が話す長い昔話は良く理解できませんでしたが、彼がひとりでどこかに行くつもりなのはわかりました。

修道士がずっと守ってくれているのに、どうしてどこかに行ってしまうのか不思議でした。

死ぬ時がきたというのなら、修道士の側で死ねばいいのです。きっと最期まで守ってくれるでしょうから。

灰色鳥は寝台の修道士の側に戻ると、そっと彼の胸に頭を乗せました。

もしかしたらもう会えないかもしれない、生首の言葉を思い出します。

…俺の事を覚えていてくれるから大丈夫だな…

忘れるはずが無いのに妙な事を言うのだな、と灰色鳥は思いました。


コスドラスは黙りこくっているホノリウス5世に話しかけました。

「私が解決するのがお気に召しませんか?」

「いや、そういう訳では無い。天使の力を借りられるのは感謝すべきだろう。私の正統性の証明にもなる。ただ…この件は偽教皇一人を排除すればそれで済むという物ではなくなっているのだが…そもそも、ドナトスへの恩返しと対立教皇の問題がどう関係するのだ?」

「修道士である彼が生きていきたいと願う世界を穏やかにする。それが私の恩返しです」

「どういう意味だ?」

「そのままです。対立教皇の問題はこのままでは長引き、国を巻き込み混乱ばかりになり下手をすれば戦が起こるかもしれない。そんな世界では、あの善良な修道士は生きづらいに決まっています。私はそんな事にならないようにしたい。

いくら人間との関わりが嫌でも、天使はやはり聖職者は普通の人間よりは気に掛けます。

私には天使の力がある。偽教皇を消し去り、教皇、あなたの権威を知らしめ高める方法で解決してみせます。やがて世界は安定し、修道士も心配事無く生きていけるでしょう」

ホノリウス5世は少し厳しい顔つきになりました。

「コスドラス、偽教皇がいくら私に敵対しているとはいえ彼の命を取るのは許さんぞ」

「ほお、少々以外なお言葉ですね。ご安心ください、殺すようなつまらない真似はしませんよ。もっと効果的な方法がありますから」

「ならば良いが…」

「では、対立教皇の件は私に任せてください」


そう言いながらコスドラスはホノリウス5世の表情を見て、苦笑しました。

「どうやらまだ私の言葉が信用できないようですね」

「…いきなり現れたそなたにこんな重要な問題をあっさり託していいものか決めかねている。『教皇総会議』の件もあるしな」

「教皇、あなたは非常に有能だ。言葉は悪いが策謀にも長けている。私が対立教皇の問題を解決した後は、『教皇総会議』でも何でもご自分の有利になるように出来ますよ」

「有利?そもそもの私の目的はそなたを『教皇総会議』の場に出し天使を呼ぶ事だったのだぞ。今の状態を見ると大丈夫そうだな。『教皇総会議』に出て天使の奇蹟を起こしてはもらえぬのか?ドナトスの為に大問題になっている対立教皇を解決できるそなただ、私の為にもどうにかならぬか?対立教皇の件が解決し、さらに奇蹟が起きればそれこそ神の権威は光り輝く」


コスドラスは不思議な微笑を浮かべました。

「ここから先は、教皇、あなたの言葉が必要です」

コスドラスは天井を見上げました。

「ああ、そろそろ夜明けですね。古い言い方では『かわたれどき』という世界だ。薄暗く誰が誰だかわかりにくい短い時間」

コスドラスは椅子からゆっくりと立ち上がりました。

「教皇、あなたが一番見たいものをお見せする時がきました」

ホノリウス5世が顔を上げた瞬間、椅子の上に生首のコスドラスがいました。

「コスドラス…!?胴体が…」

驚愕するホノリウス5世に向かってコスドラスはにやりと笑いかけました。

「もう胴体は不要だ。さあホノリウス5世、これから俺以外の天使を呼んでやるよ。そこで自分から直接天使達に頼め。『教皇総会議』の場に出現して欲しいとな」


眠る修道士の横でじっとしていた灰色鳥は、突然頭を上げました。

建物の中の空気がひどくざわついています。


窓の外はほんの少しだけ明るくなっていました。

(つづく)

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