【12日目 湖】
強い風が吹いて、銀色に輝く湖面が波立つ様をドナトス修道士は感嘆の思いで眺めていました。
彼が立っているのは、大きな湖のほとりでした。水平線が見える広い広い湖で、足元には波が寄せてきます。昔、師匠からこの湖の大きさを良く聞かされて憧れていたドナトス修道士は、わざわざ寄り道をしてこの地に来たのでした。
灰色鳥は、湖に到着するとさっさとどこかに行ってしまいました。まああちこちに水鳥がいますから、少し変わった大きな鳥がいても見かけた人は気にしないでしょう。
「本当に広いですねえ。師匠に聞いてた以上です。海というのはこんな感じなのかもしれませんね」
胸元の袋の中のコスドラスに話しかけます。
「こんだけ広ければ、怪獣なんかもいそうだな」
生首ものんびりと返事をします。
ドナトス修道士が、昔々、湖の上を歩く奇蹟を起こした人の事を考えながら小石でごつごつとした岸辺を歩いていると、籠を手にした漁師らしき人物に「おや、お若いお坊様」と話しかけられました。
「こんにちは」
「やっぱり、ついこの間この湖で見つかった聖遺物の噂を聞いていらしたのですね」
「聖遺物?いえ私は特にその話は聞いていませんが…」
「なんと!私の知り合いの漁師が、湖の上で網を引き上げたら魚に交じってそれはそれは美しい大きな青い宝石のついた光り輝く指輪を見つけたのです!」
「それは素晴らしい」
「湖で魚が捕れなくなった時があり皆が困っていたら、突然現れた聖者様が小舟に乗って湖の中央で指輪を投げ入れて神に祈ったのです。するとまた魚が捕れるようになったという古い言い伝えがありましてね。きっとその時の聖者様の指輪だというので知り合いはすぐに領主様に献上し、この辺りで一番大きな教会に納められたんです。領主様は気前がいいお方で、私ら漁師の皆に褒美が出ましてね」
漁師はしばらく自慢話をした後、ドナトス修道士に「今の季節の自慢料理は銀色鱗の魚の煮込みですから是非料理屋で食べていってください」と教えてくれてから籠を抱えて去っていきました。
「多分、小さな古い指輪を見つけたのに尾ひれがついて漁師の間で豪華な指輪になったんじゃないか?」
「まあそうかもしれませんが、良い事ですよ。皆が神について考えるようになってくれますから」
コスドラスと喋りながら、どの辺りで指輪が見つかったのだろうかと思いながら再び歩き出そうとした時。
ドナトス修道士は岸にあげられた小さな船に腰かけてじっとこちらを見ている一人の男性に気が付きました。
頭巾もゆったりとした外套も地味な色ですが、一目で高級とわかる光沢のある布地です。頑丈そうで飾りの輝く靴が衣の裾から見えています。頭巾からのぞく顔はドナトス修道士よりずっと年上ですが精悍な美男子です。男性の両手の金色と緋色の糸で細かい刺繍がされた白い皮手袋もとても上品で上質です。
どう見ても富裕な大貴族ですが、でもそんな人が一人で?とドナトス修道士が内心首をひねっていると、男性が話しかけてきました。
「初めまして、聖職者の方」
美しい発音に驚きつつ、ドナトス修道士は名前を名乗り簡単に自己紹介をしました。
「そうですか、あの国を目的地に旅しておられるのか。立派な事です」
男性は、笑顔を浮かべつつなぜかドナトス修道士が下げている袋を一瞬鋭く見つめました。袋の中のコスドラスがぎくりと固まったのが感じられます。
もしや何かに気が付いた?と焦りましたが、男性は元の笑顔に戻ると立ち上がりました。
「ドナトス修道士、あなたも先ほどの漁師が噂していた聖遺物を拝みに教会まで行くのですか?」
「ええ、そのつもりです。せっかくの機会ですから。あなた様も?」
男性の笑みが深くなりました。
「もちろんです。このために旅をしてきたのですから。私はね、聖遺物が大好きなのです。出来ればこの国の全ての聖遺物を手元に置きたいとまで願っています」
ドナトス修道士は返事もできませんが、男性は気にした風もなく続けました。
「神の恵みも素晴らしいですがわかりにくい。死後は遠い。私はもっとわかりやすいご利益を求めているのです」
「ご利益とは…あなた様はもう十分に…」
「ええ、私は確かに富も地位も持っていますが、しかしもっと求めているのです。疑いようのない奇蹟によってもっと上に行きたい。私は強欲なのです」
男性は奇妙な表情を浮かべましたが、すぐに何事も無かったようにドナトス修道士の背後を眺めました。
「そろそろうるさい供の者たちがやって来そうですので、逃げ出す事にしましょう。それでは。あなた達の旅のご無事をお祈りしていますよ」
「はい、あの、ありがとうございます。あなた様もお気をつけて」
「ありがとう…私は良くあの国に行きます。またお会いできると思いますよ、ドナトス修道士」
返事をする前に、男性は背中を向けると姿勢正しくしっかりとした足取りで立ち去りすぐに後姿は見えなくなりました。
「なんとも変わった方でしたねえ」
ドナトス修道士が呟くと、コスドラスが珍しく固い声で言いました。
「あいつ、俺に気が付いたかもしれないな」
「…私もそんな感じがしました。でももうお会いする事もないでしょうから。今何も言わなかったのですから心配する必要は無いでしょう」
ドナトス修道士はそうなだめましたが、コスドラスは男性がはめていた豪華な手袋の事を考えていました。
その日の夜。
領主の館の豪奢な一室で先ほどの男性が赤い衣を着た年配のお供からくどくどとお小言を言われていました。
「まったく、お一人で歩き回るのは今日を最後にしていただきたい」
男性は長椅子にだらしない姿勢で寝そべりながら欠伸をしました。
「別に良いだろう。一人ならば私が誰だか気づく者もおるまい」
「気づかれた時が恐ろしいのです!あなた様の敵の多さをお忘れか?」
「心配性だな。俗世も敵も私の手元にある。私が許さなければ誰も私に危害は加えん」
更に何か言いたそうなお供を手を上げて黙らせます。
「それ以上は聞かぬ。それより領主に、銀色鱗の魚の煮込みを夕食に出すように命じてくれ。私はまだこの地の名物料理を口にしておらぬようだとな」
「…かしこまりました」
お供が部屋を出ていき、一人になった男性は天井を見ながら呟きました。
「一人で歩き回ったからこそ、美味い料理を知る事もできたし妙な物を首から下げた修道士にも出会えたんだよ」
無造作に髪をかきあげる男性の右手の中指には、重たげな黄金の指輪が輝いていました。
(つづく)
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