【22日目 呪文】
大宮殿の執務室の大きな窓から陽光が差し込み、天井の高い広い室内に置かれた重厚な家具や色鮮やかな聖具が光輝いています。
しかし一番奥の巨大な執務机に座った教皇ホノリウス5世はそんな光景にもさほど感銘は受けず、ひどく眩しく感じて目を閉じました。
「どうかなさいましたか?」
若い従者がそばに立って心配そうに尋ねます。ホノリウス5世は目を開きました。
「いや、何でもない。すぐに執務を始める」
「かしこまりました」
従者はうやうやしく引き下がり、今日の執務の準備を始めます。
教皇であるホノリウス5世は教皇の国の中央に聳え立つ巨大な宮殿、「白の大宮殿」で規則正しい生活を送っています。
早朝に私室で起床すると一人で静かに神への祈りを行います。
その後に従者たちが寝室に入ってきて教皇の身体を清めたり、執務用の衣装に着替えさせます。
その後は教皇専用の食堂に行き、簡素な朝食をとります。もちろん教皇のために新鮮な牛乳や厳選された野菜や果物が専用の農園から毎朝届けられますが、ホノリウス5世は好き嫌いは言いませんし贅沢な料理も要求しません。
ただ、彼は蜂蜜が大好物なので毎朝の食卓には必ず蜂蜜が入った壺が置かれています。
朝食が終わってからお茶を飲んでいる時にごく内密の要件で客人が訪問する事もありますが、それは滅多にありません。
ホノリウス5世は一人で静かに過ごすことを好む性格なのです。
食堂から執務室に移動して執務机に座ると、従者たちが次々と書類を持ってきます。それらに目を通し、担当者を呼び出して指示を出し、決済の署名をします。
教皇は聖職者ですが、幾つもの国にまたがる巨大な宗教組織の頂点に立つ人物でもありますから、広範囲で複雑な運営を正確に行わなければなりません。
ホノリウス5世は有能なので手際よく処理していきます。従者の先導で各地から様々な訪問者も次々に訪れます。彼らには時には穏やかに、時には厳しく応対して後に報告書を提出するように要求します。
ホノリウス5世がようやく息をついた時、従者の一人がトレイを執務机に置きました。
「本日の私信です」
ホノリウス5世が見ると、銀のトレイには未開封の2通の手紙があります。手に取って確認すると、1通は王立修道院からでもう1通は…。
ホノリウス5世は無表情で両方の手紙をトレイに戻すと私室の机に置いておくように命じました。
ホノリウス5世が従者と午後の予定を確認していると、白髪で赤い衣の枢機卿が執務室に重々しい足取りでやってきました。堅苦しい挨拶を適当に聞き流したホノリウス5世は枢機卿の表情を見て軽く眉をひそめました。
「急ぎの要件か。何事だ?」
枢機卿は頭を下げて教皇と視線を合わさないようにします。
「由々しき事態です。【南の教皇領】の境界に隣の領地に所属する武装集団が押し寄せて、小競り合いがあった模様です。もちろん、すぐにこちら側の守備隊が応戦して撃退いたしたようですが」
ホノリウス5世は天井を見上げました。
「領主は何と言って謝罪している?」
「早馬で【南の教皇領】から連絡が届いたのがつい先ほどで、今のところは領主からはまだ何も…近々直筆の詫び状を送り届けるように厳命するつもりですが」
「手ぬるいぞ。領主に早々の出頭を命じよ。私の前に顔を見せて直接申し開きをするようにとな」
「…かしこまりました、すぐに使いを出します」
教皇領と隣接している領主とこれ以上揉めたくない考えの枢機卿が内心困っているのがわかりますが、ホノリウス5世自身は一歩も引く気はありません。神の威光は何よりも大切にされねばなりません。
しかし最近、その威光に盾突く者が増えてきたのが問題なのです。
午前中の執務を終えたホノリウス5世は、執務室を出ると大宮殿の中庭へ散歩に向かいました。
ほとんど毎日の習慣で、この時は従者の供も許しません。一人で歩きながら樹木や花々に囲まれてじっくり考え事をするのが好きでなおかつ息抜きにもなっていたからです。いつもは読んだ本の事や政治的な懸案事項などを考えるのですが、今日は先ほど届いた手紙の事を考えてしまいます。
立派な封蝋がされた手紙は、ホノリウス5世の実の弟からの物でした。
開封しなくても、弟が何を言ってきているのかをホノリウス5世は知っていました。
ホノリウス5世は由緒ある富裕な貴族の家に生まれ、名をアントニウスといいました。
贅沢な環境で大切に育てられましたが、父親には将来の跡取りとして厳しく躾けられました。剣や馬術なども一応体得しましたが、彼が何よりも好んだのは勉学でした。家庭教師に習って様々な語学を学び本を読むのが好きで、将来は学問の盛んな外国の大学で思う存分学び、立派な学者になりたいと願いました。
しかし父親はアントニウスのそんな希望は決して許しませんでした。
成長するにつれ眉目秀麗になり周囲から褒められる優秀な息子が何よりも彼の誇りであり自慢だったのです。しかしアントニウスは大貴族である父親の爵位も、広大で豊かな領地も、華やかな貴族の生活も興味がありませんでした。
弟が2人いますから彼らのどちらかが家門を継いで、自分は学者として財政的な援助だけを受けられればいいと考え、その頃から貴族らしい生活を好まないアントニウスと父親との口論が徐々に増えていきました。
父親との仲が悪くなりだしても、優しく賢い母親はいつもアントニウスの味方をしてくれて、彼もそんな母を強く慕っていました。
母親の実家はさほど裕福ではない貴族でしたが、学者や芸術家が大勢いる家柄でした。息子を外国にいる兄のところに送り出して優秀な学者の弟子にしてやるのが彼にとって良い将来だろうと思い、アントニウスもそれを熱望して更に熱心に学びました。
家庭内に確執はありましたが、でもアントニウスは弟2人とは仲良く過ごしていましたし末の妹を可愛がっていました。
妹は敬虔な母親の影響でいつか修道女になりたいといつも言っていました。愛らしい妹が修道女なんてとんでもない、と神は信じてはいても信心深く無いアントニウスは呆れてしまいましたが、それでも彼女の希望なら応援してやろうと思いました。あの父親が娘が宗教の道に入るのを許すとは思えませんでしたから。
アントニウスのそれなりに穏やかだった少年の日々は突然終わりました。
その年。恐ろしい伝染病が流行り出し、あっという間に領地どころか国全体を黒い影が覆いました。治療の手立ても無く、誰にもどうしようも出来ませんでした。
そしてその伝染病で、母親と妹が呆気なく亡くなってしまったのです。
アントニウスは激しく嘆き悲しみ絶望しました。
いつも神への祈りを捧げていた優しい母が、修道女になりたがっていた幼い妹が、どうして命を奪われなければならなかったのか?なのにどうして自分は生きているのか?
いくら教会の聖堂で長い時間ひざまずいて神に問いかけても返事はありませんでした。
その時からアントニウスの神へのまなざしが変わってしまいました。
多くの弔いを済ませ、ようやく領地内の恐ろしい伝染病の流行がおさまりだした頃、アントニウスの父親は長男のことを心配していました。
母親と妹が亡くなってから、彼はほとんど自室に引きこもって過ごしていました。以前のように反抗する姿も見せず父親の言葉に無表情に受け答えをするだけです。さらに、自分が領地の見回りなどで長期間屋敷を出ている間に何やら怪しい風体の人物がアントニウスの元に出入りしていたという噂までが耳に入ってきました。
父親は息子が何か異端の教えに手を出しているのでは、と震えあがりました。そしてある日の深夜、何か物音のするアントニウスの部屋にいきなり入っていったのです。
やがて屋敷内に響き渡る悲鳴と大きな物音に驚いて駆け付けた召使たちが見たのは、暖炉の前で剣を握りしめたまま倒れて気絶している父親と立ち尽くすアントニウスの姿でした。
アントニウスの左腕は剣で切り付けられた傷があり血が流れていましたが、彼はその事については何があったのか一言も語ろうとせず、意識を取り戻した父親も怯えたような表情で何も言いませんでした。
その後すぐに、アントニウスの希望で彼の修道院入りが決まりました。
驚き悲しむ弟たちに後を託すと彼は皆に見送られて屋敷を出ました。
しかし父親はついに顔を見せず、部屋にこもったままでした。
アントニウスが入った修道院では、最初のうちは彼はあまり期待されてはいませんでした。多額の寄付金と領地を奉納するほどの貴族の子息です。見習い期間のうちに修行が嫌になって出ていくだろうと思われていました。
しかしアントニウスは優秀でした。どんな辛い修行も作業(畑仕事などもありました)もきっちりとこなし、聖堂での神への祈りは誰よりも熱心でした。彼の内心は誰も知りませんでしたが…。
見習い期間が終わり、正式にアントニウス修道士になってからは熱心に勉学にも励み、じきに院内では誰もその有能さに太刀打ちできなくなっていきました。
しかしその頃から、彼は周囲との軋轢が増えていきました。先輩の修道士を無能扱いし、神学などの学問論争では相手を完全にやり込めます。そのうちに彼が修行をおろそかにして図書室で本ばかり読んでいる、修道院内の秩序を乱している、彼を追放しろとの厳しい声があがりはじめました。
面倒事を非常に嫌がる老齢の院長はほとほと困り果てました。実は彼の実家からの定期的な寄付金のおかげで修道院の財政問題は非常に助かっていたのです。けれどある日、中年の修道士が口論の末にアントニウスを殴り倒すという大事件が起きました。もちろん殴った修道士には即罰が与えられましたが、騒動の原因となったアントニウス自身は左目が腫れあがり大きな痣が出来た顔で一言も謝罪をせず許しも乞いません。
結果彼は争乱を引き起こした罰として独房に入れられてしまいます。
ここにきて、ついに修道院長は頑固に黙っているだけのアントニウスを別の修道院に移籍させる事にしました。あちこちに打診した結果、王立修道院に行くように命じたのです。
アントニウスは独房を出て僅かな荷物を背負って王立修道院へ徒歩で旅立ちました。それが彼への罰でもあったのです。しかし一人の危険な旅はアントニウスにとって素晴らしい経験となりました。世界が知らない事に満ちているのをアントニウスはようやく知ったのです。
王立修道院に無事に到着して、厳しい監視付きでしたが何とか受け入れられました。さすがに伝統のある大きな修道院なので優秀な修道士も大勢います。少しだけ柔軟な考えも出来るようになったアントニウスは相変わらず反抗的ではありましたが、それでも以前よりは落ち着いて修行と勉学に励み「神童」と呼ばれるようになりました。
やがて王立修道院内で異例の早さでそれなりの役職に就いたアントニウスは、次に「教皇の国」に行き教皇のいる「白の大宮殿」で聖職者としての出世を、ゆくゆくは教皇を目指す決意をしました。
上位に行けば行くほど神に近づけるのですから。
まず難しい幾つもの試験を受けなければなりませんが、彼は全ての試験を最優秀で合格しようと考えました。唯一の友人であったフィアクル修道士の応援もあり、アントニウスは図書室にこもりあらゆる本を読みました。そして王立修道院からの派遣という形で「教皇の国」に赴き、ずば抜けた優秀な成績で試験に合格し「白の大宮殿」で働く聖職者となりました。また見習いから始めなければなりませんでしたが、アントニウスは気にしませんでした。すぐに出世できる自信があったからです。その通り彼は努力してどんどん出世しました。
有能な人物で政治的な手腕を発揮するという評価を勝ち取りました。
前教皇の右腕と呼ばれ、亡くなる時まで彼なりに誠実に仕えて信頼されました。
そしてついには長期間にわたる複雑で腹黒い駆け引きと無数の会議と何回かの選挙をくぐり抜け、若くして教皇になりホノリウス5世になったのです…。
ホノリウス5世は物思いにふけりながら中庭を通り抜けると、大宮殿に併設されている大聖堂に歩いて行きました。すれ違う、初めての訪問者や新入りの聖職者がたった一人で歩く教皇の姿を見て驚いていますが、彼は気にも留めません。
初めて訪れた人間が誰でも感嘆する広大な大聖堂に入ると祭壇前で形式通りに礼拝し、最奥にある巨大な玉座を見上げます。
大聖堂での大きな行事の時に教皇だけが座る事のできる煌びやかな玉座…けれどホノリウス5世はいつも、なぜ天から神がここに降りてきて自分を押しのけて全世界に君臨してくれないのか不満に思うのでした。
幹部たちとの昼食会、「白の大宮殿」を訪問している貴族たちとの社交的な茶会や小規模な晩餐会が終わり、夜も遅くなってようやくホノリウス5世は私室に戻り部屋着に着替えてくつろげます。
従者たちも出ていき、自分ひとりになると暖炉前に置いた長椅子に楽な姿勢で寝転がり届いていた2通の手紙を開封します。
まず王立修道院の修道院長からの手紙を読むと、あの若いドナトス修道士が現れてしばらく治療院でフィアクル修道士の治療を受けた後に彼と共に「教皇の国」を目指して出発したとありました。懐かしい名前を目にしてホノリウス5世はかすかに笑みを浮かべました。恐らくフィアクル修道士は生首も診察したのではないかとホノリウス5世は考えました。好奇心の塊のようだった彼なら考えられます。生首は病気なのかもしれない…まあ自分の元に来ればいかようにも対応できるだろう…。
次にホノリウス5世は弟からの手紙をしばらく迷ってから開封しました。
実家は真面目で既に妻子もいる弟が父親を助けて領地運営を切り盛りしていますし、末の弟は騎士になるために家を出て騎士団で活躍しています。何も心配事はないのです。
しかしここ数年、弟は兄であるホノリウス5世に年老いてきた父親との不仲を嘆き和解を懇願する手紙を寄こすようになってきていました。それは彼にとって到底無理な願いでした。しかし弟は兄が父親と完全に訣別したあの夜に何があったのかを知りません…いつも簡単に断りの返事を出していますが弟は諦めていないようです。
重苦しい気分で手紙を読み始めたホノリウス5世はいきなり起き上がりました。それは父親がつい先ごろ重い病にかかり、とりあえず回復はしましたが病床で何とか息子に、アントニウスに直接会って詫びたいとしきりに言うようになったという内容でした。
ホノリウス5世は暖炉の前に立つと燃え盛る炎を見つめました。
あの夜の事が思い出されます。暖炉の前に座り込んで魔術書を片手に呪文を唱えていたアントニウス…。
ホノリウス5世は同じ呪文を、決して忘れられない呪文を低い声で唱えました。しばらくすると、自分の背後に、暗い部屋の隅に、窓の外に、黒い巨大な影が出現します。
不安定に揺れて定まらない影。
近づきも離れることもしない、けれど決して切り離せない影。
目が、頭が、左腕の古い傷が、ひどく痛みます。
しかしこの痛みこそが自分には必要なのだ…。
ホノリウス5世はひたすら炎を見つめ続けました。
(つづく)
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