【15日目 猫】
ドナトス修道士は、小さな教会の庭の隅にある小屋の軒下のベンチに座ってぽかぽかと暖かい日光を浴びながらカバンの中を整理していました。
先日立ち寄った修道院で薬草園の責任者である修道士から処方してもらった塗り薬や薬草茶は主に生首のコスドラスの為のものですが、自分の分として火傷の跡に塗る薬(元居た修道院が火事になって燃え落ちた時、首筋や腕に少し火傷を負ってそれが時々痛んでいたのです)と身体の疲れが取れるという薬草茶もあるので混同しないようにしなければなりません。
慎重に容器を扱っているドナトス修道士の横には布にくるまった状態のコスドラスが目を閉じてじっとしていました。昨夜は一人でどこかに出かけていたらしく、明け方に戻ってきてからはぶどう酒を少し飲んだだけでほとんど口をきいていません。どうもかなり疲れているようなので、ドナトス修道士も色々尋ねずにそっとしておきました。
整理が終わったドナトス修道士がカバンを片付けてベンチから立ち上がろうとした時、急にコスドラスが目を開けました。
「今の教皇がどんな人間か知っているか?」
思いがけない問いにドナトス修道士は少し驚きました。
「教皇のホノリウス5世様?そりゃ知っていますよ。当然お会いした事はありませんが…由緒ある大貴族のご出身で幼い頃から神童と呼ばれていたぐらい頭脳明晰で大変有能な方だそうです。数年前にまだ若いのに教皇に選ばれた時もほとんど反対意見は無かったそうですよ」
「ホノリウス5世か…なるほどね」
「ああ、でも。世俗の王や諸侯達に厳しく神の威光を説かれるので色々と反発も多いという話も聞いた事があります」
「つまり国王や貴族連中に横からあれこれ口出しをして揉めている訳だな」
ドナトス修道士は眉をひそめました。
「そういう言い方は…」
けれどコスドラスがまた目を閉じて黙り込んだので、仕方なくそれ以上は言わずにベンチから立ち上がりました。
庭を歩きながら、ドナトス修道士は以前同じ修道院に居た噂好きの修道士から聞いた話を思い出していました。
教皇ホノリウス5世は元々大貴族の長男だったのに、なぜ跡取りとはならずに家を出て修道院に入り聖職者になったのか?
それは、あまりに彼が頭が良すぎてあらゆる本を読み、やがて異端の書を読みふけり魔術にも手を出してついには悪魔とも会話できるようになったので、父親が恐れて莫大な寄付金をつけて修道院に預けたのだ…。
ドナトス修道士は苦笑して馬鹿な考えを心の中から消しました。けれど、突然コスドラスが教皇の事を尋ねたのは少し不思議に思いました…いつもの気まぐれなのでしょうが。
彼とコスドラスと灰色鳥は林の中にある小さな教会の庭にある小屋に滞在していました。
一夜の宿を求めてドナトス修道士が訪れた時、年寄りの神父は快く受け入れてくれましたがひどく足や腰を痛めていました。それでも無理をして動こうとするので、ドナトス修道士は神父が元気になるまで教会の仕事を手伝う事にしたのです。コスドラスとも今後の事についてじっくり話し合いたかったですし。
神父は動物好きで庭には何匹もの猫や犬が歩き回り、教会の敷地の隅の池には水鳥たちがゆったりと泳いでいます。池のほとりで丸くなって日光浴をしている灰色鳥に声をかけてから建物内の神父の部屋に行き欲しい物はないか尋ね、調理場の水がめに井戸から水を運んできて一杯にします。
それから休む間もなく教会の礼拝堂に足を向けます。今では訪れる信者も少なくなっているそうですが、それでも祭壇や灯明は整えておかねばなりません。扉を開けて礼拝堂に入ったドナトス修道士は、祭壇の上に何かがあるのに気が付きました。
それは大きな真っ白な猫でした。
白猫が目を閉じて祭壇の上に窓からの陽光を浴びて姿勢正しく座っているのです。
ドナトス修道士が近づくと、猫は目を開けました。金色に輝く美しい瞳です。
「こらこら、お前の手足はきれいな様だけどそこに座ってはいけないよ」
笑いながら白猫を抱き上げようとすると、器用に胴体をくねらせて修道士の手から逃れそのまま素早く走って外へ逃げていきました。
ベンチの上でうたた寝をしていたコスドラスは、不思議な気配を感じて目を覚ましました。
大きな白猫の金色の瞳と目があいました。
白猫がじっとコスドラスの顔を覗き込んでいるのです。
最初はこの教会にいる猫だろうと思いましたが、白猫の表情を見てはっとしました。猫なのに笑顔を浮かべているのです。まるで人間のように…。
「…何者だ?」とコスドラスがかすれ声で尋ねると、白猫は笑みを深くするとすいっと前足を上げて空を指さしました。そしてベンチから飛び降りると駆け去り林の中に姿を消しました。
その日の深夜。
コスドラスは一人で小屋の軒先のベンチでじっと林の方を眺めていました。
やがて大きな月が空高くのぼる時間になって、林の中から白猫が姿を現しゆっくりとこちらに歩いてきました。
予想通りです。コスドラスは深く息を吸って気持ちを落ち着かせました。
白猫は身軽にベンチに飛び乗ると、コスドラスの隣に姿勢正しく座りました。
「名を明かせ。お前はホノリウス5世だろう?」
コスドラスが低い声で尋ねると白猫の胸のあたりから男性の声が聞こえてきました。
「名を明かそう。確かに私はホノリウス5世だ」
「ほお、素直なもんだ。しかし猫に乗り移るとは教皇のくせに妙な魔術を使うんだな」
「魔術は知識と技術だよ。私はあらゆる知識があり技術もあるのでな。月明かりの下でしか話せないのは少々不便だが。長くはここにいられない」
コスドラスは白猫を睨みつけました。
「その姿では難しい事も喋れないようだな。何が目的だ?」
「生きている生首をじっくり間近で見て、私の考えを確認したかったのだよ」
「生首は珍しいがな、最高位の教皇様が興味を持つほど大した存在か?」
「どういう存在かは私と神が決める。そなたは貴重品だ。私の元に来てもらう」
「胸糞の悪い事を言うな。お断りだ」
白猫はゆっくりと瞬きをしました。
「湖で話しただろう。私は全ての聖遺物を手に入れ神の奇蹟を望んでいると」
「…俺は聖遺物じゃない。首だけだが人間だ」
「いいや聖遺物だ。もっと正確に言ってやろうか?奇蹟を起こすそなたをより扱いやすい聖遺物にするために父親や親族達は首を切って殺害し、身体の全てを、指一本までばらばらにしたのだとな」
コスドラスは思い切り白猫にぶつかりましたが、相手は素早くよけました。
地面にうずくまる白猫からひそやかな笑い声が聞こえてきます。
「私はそなたの今の気持ちなぞどうでもいいのだ、コスドラス。あの修道士に連れられて私の元に来い。来なければ地の果てまでもそなたを追う。私にはその力があるのを忘れるな」
荒い息をつくコスドラスの前から白猫は暗闇に消えていきました。
小屋から遠く離れた巨大な宮殿の一室には強い香の匂いが立ち込めていました。
見慣れない文様が刻まれた木の椅子に座ったホノリウス5世は、ゆっくりと手に持っていた大きな鏡を布に包むとそばの机の上に置きます。
彼の顔には満足そうな微笑みが浮かんでいました。
数日後、ドナトス修道士は痛みの癒えた神父に挨拶をすると教会から再び生首と灰色鳥と共に出発しました。コスドラスがひどく無口で元気が無いのは心配でしたが、先は急がねばなりません。
まだ説得は必要ですが、早く王立修道院に辿り着いて強引にでもコスドラスを診てもらおうとドナトス修道士は決意していました。
大きな灰色鳥を連れたドナトス修道士を見送った神父は、寂しくなったなと思いつつベンチに腰掛けて陽の光を浴びていました。
その神父の膝に、大きな白い猫が飛び乗りました。
「おやおや見かけないきれいな猫だね。遠慮せずここでゆっくりしておいき。仲間もたくさんいるよ」
神父が優しく背中を撫でてやると、白猫は金色の瞳を嬉しそうに細めニャーンと一声鳴きました。
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