【20日目 たぷたぷ】

フィアクル修道士は慎重に炉の上の鍋の中を木の匙でかきまわしました。くつくつと煮える黒い液体からは不思議な匂いが強く漂ってきます。少しだけ匙で味見をしたフィアクル修道士は満足そうに目を細めました。

「よし良い出来だ」

鍋を炉から降ろすと冷ますために離れた場所に置き蓋をしました。これでしばらくは手が離せるでしょう。丸々と太った修道士は籠を取ると自分専用の小さな小屋から陽光の輝く表に出ました。

近くから鐘の音が聞こえてきますが、フィアクル修道士は気にしない様子でした。


ドナトス修道士は、丘の上に立ってようやく辿り着いた王立修道院を見下ろしていました。

修道院は立派な建物が幾つも連なり、ドナトス修道士が初めて見る立派な尖塔のある教会もあります。敷地を囲む平地は河が横切り、周囲は畑や果樹園になっていて繁栄ぶりがうかがえます。

視線を河下に移すと町が見えここまで賑やかな雰囲気が感じられます。

ドナトス修道士は安堵の吐息をもらすと、胸に抱えた布包みの中にいる生首のコスドラスに「着きましたよ」と声をかけると、「そうか…」とかすれた小さな声が聞こえました。ドナトス修道士はぐっと唇を噛みしめてから、そばに立っている灰色鳥に「もうすぐだから頑張っておくれ」と声をかけると修道院に向かって丘を下り始めました。


少し前にコスドラスの意識が無くなり、右耳が砂のように崩れ去ってからドナトス修道士は急ぎに急いでこの王立修道院を目指してきました。

コスドラスは幸いすぐに気が付いて、右耳が無くなったことにもさほど驚きませんでしたがほとんど口をきかなくなっていました。単に喋るのが辛いだけだから気にするな、と言われてもドナトス修道士は気が気ではありません。

修道士には本来は許されておらず規則違反ですが、運賃を払って乗り合い馬車に乗って山を越えたりもしました(灰色鳥は割り増し料金を払って同乗させました)

そして予定よりもずっと早く目的地である王立修道院に辿り着いたのです。ドナトス修道士は急ぎ足で修道院の門を目指しました。


しゃがみ込んで薬草を摘んでいたフィアクル修道士は、胸元に荷物を抱えてこちらに歩いてくる見知らぬ若い修道士に気がつきました。

着ている僧服も質素でくたびれていて表情にも疲れが見えますが、賢そうな青年です。フィアクル修道士は手をとめてゆっくり立ち上がりました。

「フィアクル修道士ですか?」

「はい、そうですが」

「突然申し訳ありません。私はドナトスと申します。私の友人を診ていただきたいのです」

連れの友人はどちらに?と尋ねようとしたフィアクル修道士はドナトス修道士の目を見て必死の思いを見てとりました。

「…わかりました。まずは私の診察小屋に案内しましょう。そこで詳しい話を伺います」


初めてフィアクル修道士と対面したドナトス修道士は内心驚いていました。

王立修道院の広大な薬草園を管理するフィアクル修道士は医療や薬草に詳しい修道士として名高く、修道院内の診療所で多数の民衆を診て薬を処方するだけでなく領主や高名な貴族までが彼を治療に呼びつけるので有名でした。

そんなフィアクル修道士ですから厳めしい人物を想像していたのに、本人は小柄で丸々と太っています。肉付きのいい色白の皮膚の頬や二重顎は歩くとたぷたぷと揺れ、まるで修道士ぽくありません。

しかしフィアクル修道士のあとに続いて診察小屋に入ったドナトス修道士は更に驚きました。薄暗い小屋の中は薬草の束が所狭しと天井からぶら下がり、薬瓶などがぎっしり詰まった棚で壁が覆われていたのです。

フィアクル修道士は自分用の頑丈な椅子に座り、ドナトス修道士には長椅子に座るようにすすめてから黙ってこちらを見ています。

ドナトス修道士は思い切って話し出しました。

「これから友人に会わせますが、彼の姿はどうか内密にしていただきたいのです」

フィアクル修道士は細い目をさらに細めました。

「わかりました。私は役目柄秘密を守るのは慣れています」

ドナトス修道士はその言葉を聞いてから、布包みを開き生首を取り出しました。

フィアクル修道士は、目を開けた生首を見て「ほお。これはこれは」と呟きました。


コスドラスを持ち上げたり診察しながらドナトス修道士のこれまでの経緯を聞いたフィアクル修道士はうなずきました。

「彼にはまず応急処置をして少し元気になってもらってから本格的に治療しましょう。何日もかかるでしょうが、この小屋には誰も近づきませんから他人に見られる恐れもありませんよ」

「ああ、ありがとうございます。感謝します」

ドナトス修道士は初めて笑顔を浮かべました。

フィアクル修道士はコスドラスを柔らかな布でそっと包むと薬草を敷き詰めた盆の上に置きました。

「…妙な匂いだな」

コスドラスが小声で文句を言います。フィアクル修道士はくすくす笑いました。

「この薬草の香りは気分を落ち着かせて体の痛みを減らします。私はこれからドナトス修道士を宿泊所に案内してきますからしばらく大人しく寝ていてください」


ドナトス修道士はフィアクル修道士に連れられて小屋を出て修道院の建物に向かいました。あたりには見事な薬草園が広がっています。歩きながら感心して見回していると、フィアクル修道士が話しかけてきました。

「これから診療所に行きます。あなたも2日ほど入院しなさい」

ドナトス修道士は驚きました。

「私がですか?私はどこも悪くはありませんよ!?」

フィアクル修道士は前を向いたまま答えました。

「自覚が無いだけです。顔色も悪くやつれていますし、歩くのも辛そうです。言う事を聞いて薬を飲んで良く眠りなさい。あなたの友人は私が責任を持って預かりますからご心配なく」

「しかし…」

「今のところあなたに出来る事はありません。今はゆっくり養生して回復しておきなさい」

はっきりと言われたドナトス修道士は仕方なく了解しました。


フィアクル修道士は診療所でドナトス修道士を軽く診察してから薬を飲ませ、助手の修道士たちに指示を出して病室の寝台に安静にさせました。やはり無理をしていたせいもあるのでしょう、ドナトス修道士はすぐに眠ってしまいました。

そこまで見届けてからフィアクル修道士は診療所の他の用事を手早く済ませ、しばらく自分の診療小屋で難しい作業をするので何日か籠ると説明して診療所を出ました。

薬草園の中を歩くフィアクル修道士は彼にしては珍しく考え込む表情を見せていました。


コスドラスは、口の中に何やら甘い液体を注ぎ込まれる感触で目を覚まし、フィアクル修道士の穏やかな丸顔を見上げました。

「何を飲ませた?薬湯か?」

「薬草を何年も漬け込んだ、私の自慢の薬草酒ですよ」

「普通に美味いぶどう酒を飲ませてくれよ」

「そうですね、近いうちに院長の秘蔵のぶどう酒をこっそり飲ませてあげますよ」

フィアクル修道士は匙を置くと、別の薬瓶を手に取りました。

「あなたを連れてきたご友人は診療所に入院させました。かなり体力的に無理をしてきたようなのでね」

コスドラスは思わず溜息をつきました。

「あいつは本当にお人よしなんだ」

「友情は最も尊ぶべきものですよ。あなたは実に幸運だ」

フィアクル修道士は何やらぶつぶつ呟くと薬瓶を置くとコスドラスの顔を覗き込ました。

「彼が興味を持つはずですね」

「彼?」

「今はホノリウス5世と大層な名で呼ばれていますがね。教皇の地位にいますが、どうせ一人で俗世を歩き回っていてあなたを見つけたんでしょう。相変わらずだな」

「あいつを知っているのか?」

フィアクル修道士はくすくす笑い二重顎がたぷたぷと揺れます。

「ずっと昔、彼は何年かこの王立修道院で学んでいたのですよ。頭が良すぎて最初に入った修道院では揉め事ばかり起こしていましてね。こちらに移ってからも、まあ大変な神童、そしてとんでもない変わり者で誰も太刀打ちできませんでした。図書室の写本を読みつくしてあっという間に偉くなってここを出て行って、気が付けば教皇様です。私も変わり者扱いをされていたんですが、彼とは同い年という事もあって妙に気が合いましてね。いつも2人で修道院を抜け出して町に出かけては当時の院長に説教をされたもんです」

「妙な術を使って、猫に乗り移って俺に話しかけてきたぞ」

「なるほど中身は大して変わっていませんな。安心しましたよ」

コスドラスは嫌な顔をしました。

「あいつからお前さんに何か連絡があったんだな?」

「ええ。というかこの辺りの修道院全部に教皇の名で内密の指示が出ていますよ。ドナトスと言う名の若い修道士が立ち寄ったら知らせるようにと。まあ私は返事をするかどうか決めていませんが」


フィアクル修道士は真面目な顔になりました。

「ところで…ドナトス修道士を入院させたのは、あなたとの会話を彼に聞かせるかどうか迷ったからでもありましてね」

「確かにあいつは真面目に悩む性格だからな」

「…コスドラス、あなたは特異な存在だから診察をしても私にはわからない事が多すぎる。正直に答えてください。自分の右耳が崩れて無くなったのをどう思っているんですか?」


コスドラスはしばらく黙ってから静かに答えました。

「右耳が崩れたのは始まりだ。俺はもうすぐ全部灰のように崩れてこの世から消え去る運命だよ。あんたが名医でも止められないし手立ては無い。覚悟はとうの昔に出来ている」

(つづく)

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