【25日目 灯り】
「教皇の国」に向かって疾走する馬車の中で、侍従長は何度目かの溜息をつきました。
昨日から目立たないように迎えの馬車を準備し、指示通りの場所に到着した時に貴族の服装でホノリウス5世が現れて心底安堵しましたが、すぐに腹正しさが取って代わり今も腹が立って仕方がありません。
教皇と同じ馬車に乗り込んだ、ドナトスという名前の布包みと小さな鞄だけを抱えていた若い修道士の事も気になります。聖職者なのですから危険は無いでしょうが…。
向かいの座席の大きな鳥は首を伸ばして窓から外を眺めたりして大人しくしていますが、こんな奇妙な鳥を宮殿に連れ帰って教皇はどうするつもりなのだ…胸の内は怒りと心配事だらけで、侍従長はまたもや溜息をつきました。
あの日の早朝。いつものように朝の準備のために教皇の私室に静かに入室すると、中は無人で大きな寝台の上には侍従長宛ての手紙が置いてありました。迎えの日時と場所が指示されている内容でしたが、侍従長は当然ながら真っ青になりました。その後の昨日までの慌ただしい何日かは思い出したくもありません。
実はホノリウス5世が「白の宮殿」から黙って抜け出して何日か行方をくらました事は今回が初めてではありませんし、巡行の際に宿泊場所から抜け出した事も何度もあります。その度に、供の者も警備も同行させず一人で歩き回るのは止めてくれと小言と懇願を繰り返していますが、全く聞き入れてもらえません。
教皇として実務に有能なのは間違いありませんが、突飛な変人ぶりにはほとほと困り果てていました。おまけに今回は時期が悪すぎるのです。
しかし…と侍従長は考えます。
教皇はどうやって警備の厳しい宮殿を抜け出したのだろう?…確かに緊急時の脱出用の秘密の通路はあるが、あそこは普段は封鎖されているし自分も目を光らせているから簡単には通り抜けられないはず…。警備の人間を買収して手伝わせた気配も無い…何よりも気になる教皇の敵対者の間に流れる嫌な噂…。考え込んでいる侍従長を、灰色鳥はじっと見つめていました。
後ろの馬車の中では、教皇ホノリウス5世と生首のコスドラスが対峙していました。
「さすが教皇様、記憶力がいい上に長々とした喋りが上手いな。生け簀に向かって説教したら魚たちが喜んで拝聴するんじゃないか?」
コスドラスのからかったような物言いにホノリウス5世は目を細めます。
「舐めるな。大きな儀式になれば大聖堂で一晩中でも説教して大勢の信者を感激させる必要がある。これぐらい造作もない。さて、今の話は自分の事ではないと否定するのか?」
「いや良く調べたなと感心したよ。そう、大袈裟な尾ひれはついてるが、その聖人扱いをされて首を切られた遊び人は俺だよ」
コスドラスはあっさりと認めました。
「ほお、今日は怒って飛び掛かってこないな」
「そりゃいきなり猫に偉そうに言われたら腹も立つさ」
(何の事だろう?とドナトス修道士は怪訝に思いましたが、今は黙っていることにしました)
「しかしな、前も言ったが俺は聖遺物じゃない。ついでに言えば聖人でもなかった。連中は勝手に色々言ってたみたいだが」
「私も前に言ったぞ。それを決めるのは私だ。私に貴重品扱いをされるのを感謝しろ。そなたは生きた聖遺物だ。首を切られても生きている人間が聖遺物ではなくて何なのだ。そなたは癒しの奇蹟を起こして聖人となったおかげで、殺されても死なずに首だけになって生きている。しかも何者かによって聖遺物箱に入れられていたのだぞ」
「しかしなあ、今の俺に触れて拝んでも別に癒しの奇蹟はおきんぞ?現にこのドナトスはずっと俺と一緒に居たのに体調が悪くて寝込んでも癒しなんか受けていない」
「だが、そなたは天使を呼べる。それこそ奇蹟だろう」
「奇蹟?鳥を呼ぶ方がマシだ。天使は別に友達でもなんでも無い。あの連中は俺に興味があるわけじゃないし何の手助けもしてくれん。パンを焼いたのは、困っていた人間を助けるためだ。俺がたとえ火あぶりになっても何とも思わんよ。それに最近は全然呼んでいないから存在を忘れているよ」
「では方法さえ知れば、私でも天使を呼べるのか?」
「猫に乗り移るよりは簡単かもな」
「全くのらりくらりと…まあ良い、時間の無駄だ。天使の件は今はここまでにしておいてやる」
「今でも後でも同じだ。聖人ってのも周りの連中が勝手に言ってただけだ。つまり俺は、前はちょっと色々出来たが今は喋るだけの生首だ。珍しい存在なのは認めるがね」
「しかし生首になる前に癒しを行っていたのは認めるんだな?」
「どうだったかな。酒を飲んで遊んでいたのは覚えているが、他のどうでもいい事は箱の中で寝ているうちに忘れたよ」
曖昧なホスドラスの言動が続き、さすがにホノリウス5世も苛つき始めたようでした。
逆にドナトス修道士は、気分が落ち着いてきました。
今のコスドラスは、過去を持ち出されても怯まずに教皇と向き合っています。私もしっかりせねば、とドナトス修道士は深呼吸をしました。
「しかしお前さんのせいで、忘れていた糞親父の事を思い出して胸糞悪い最悪の気分だ」
ホノリウス5世は顔をしかめました。
「いくらそなたの口が悪いといっても、私の前でそのように汚い言葉は使うな」
「ふん、息子にむかって剣を振り回すような父親は糞親父で十分だよ」
そう言いながら、コスドラスはドナトス修道士を見やりました。
「ドナトス、包帯を外してくれ。喋りにくくてかなわん」
「でも傷が…」
しかしコスドラスが大丈夫だとうるさく言うので、仕方なくドナトス修道士は顔の周りに巻いた包帯を外してやりました。
念のために右耳の傷跡に薬を急いで塗りながら、ドナトス修道士はホノリウス5世の態度も少し気になりました。
教皇は黙って窓の外を眺めていますが、何か先ほどのまでの話とは全然違う事を考えているようにも見えます…。
「細かい事は後回しだ。私の話を認めるなら、いい加減そなたの名前を教えろ」
窓の方から振り向いたホノリウス5世の再度の要求を、コスドラスは無視しました。
「もう少しご自慢の舌で話を聞かせてくれ。お前さんの目的は一体なんだ?」
「…目的か。今知りたいのか?」
「当たり前だ。手間暇かけて俺の過去を調べて、わざわざ捕まえに来て。おまけに単なる連れだったこの若造まで巻き込んで、馬車でお前さんの国に連れて行かれるんだ。事前に気構えぐらいさせろ」
「なるほど、一理ある」
ホノリウス5世はドナトス修道士の方を見ました。
「君も私の目的に興味があるかね?」
「はい。彼の言う通りやはり知らないのは不安です。聞かせてください」
「そうか。君にも生首にも選択の余地を与える気は無いが、まあいい」
ドナトス修道士は思わず膝上のコスドラスを抱える手に力を込めました。
「私は近々、教皇ホノリウス5世の名において『教皇総会議』を召集する。私の目的は生首を総会議の場に出す事だ」
ホノリウス5世の言葉にドナトス修道士は驚いて目を見開きました。
「総会議?坊主が大勢集まる会議の事だったか?」
コスドラスの疑問にドナトス修道士は固い声で答えました。
「総会議はそうです。でも『教皇総会議』は特別です。教皇勅書によってあらゆる位の聖職者が何千人と教皇の国の「白の大宮殿」の大聖堂に招集され、教皇が玉座から最上位の正装で直々に総会議の開催を宣言して議長役として進行を務めます。総会議は各地の修道院や大聖堂で時々開かれていて、私も院長の供で参加した事があります。ですが『教皇総会議』はもう何十年も招集されていません…」
ホノリウス5世はうなずきました。
「その通りだ。より正確に言えば、過去3代の教皇は招集していない。準備に時間がかかるし莫大な費用が必要になるからな。加えて彼らには教皇としての権威も能力も不足していた。だが私は違う」
「そんな重要な総会議の場に病人のコスドラスを出すのですか?無茶です!」
「重要だからだ。生首はこれから十分な治療を行い総会議までには健康になってもらう。君は生首の面倒を見るなり好きにしてよい。だが総会議には修道士として正式に出席して必要があれば証言をしてもらう」
「私もですか!?…しかし証言とは?議題は何なのですか?」
「議題は生きた聖遺物である生首を皆に見せ、生首の起こす奇蹟を皆に見せ、神の権威を天下に知らしめ教会の威光を今よりも高く押し上げる事だ」
ドナトス修道士は呆気にとられました。
コスドラスがホノリウス5世を小馬鹿にしたような表情で見つめました。
「つまりそのご大層な会議に、派手な衣装のお前さんが生首の俺を小脇に抱えて坊さん達の大集団の前に現れて見せびらかす訳か。俺は見世物じゃないぞ。そして何だ?俺に聖歌でも歌えと?」
「口の悪いそなたにそんな要求はせぬ。だが天使を呼んでもらう」
「天使だと?あいつらがそんな場に来る訳がないだろうが」
「聞かぬ。時間はまだたっぷりある。天使を呼ぶ方法を、説得する方法をそなたがじっくり考えろ。この件に関してだけは必要なだけそなたの要求を聞いてやる。したければ贅沢もさせてやる。しかし必ず成功させろ。
『教皇総会議』にはあらゆる聖職者は当然として、国王も主だった諸侯も参加させる。神と私の権威と威光に反抗する連中を、天使の姿という奇蹟を見せる事によって全て屈服させてやる。そうすれば皆、私と教会に従うようになり、世界は神の教えに従って動くようになるだろう」
ドナトス修道士は困惑で口もきけないでました。神に仕える聖職者の頂点に立つ教皇がさっきから何を言っているのでしょう…?
コスドラスが吐き捨てました。
「馬鹿馬鹿しい。そんな茶番劇に誰がつきあうか。お断りだ。何もかも全部お断りだ、強欲教皇」
「そう私は強欲だ。必ず私の思い通りに動かしてみせる。そなたも敵対者も王も諸侯もだ」
いきなりホノリウス5世は手を伸ばすとコスドラスの髪を掴んで持ち上げ、自分の顔の前にぶら下げました。
「ホノリウス5世!何を!?」
「ドナトス、騒ぐな。大丈夫だ」
コスドラスが冷静な声でドナトス修道士が立ち上がりそうになったのを止めました。
「何度も言わせるな。そなたには選択の余地などないぞ、生首」
コスドラスはホノリウス5世の顔を間近で眺めてにやりと笑いました。
「ようやく俺に触ったな、ホノリウス5世」
「…何の事だ」
「心配だったんだろう?俺に触れることで、知らぬ間に癒されたら困る。だが今の俺に力が無いとわかったんで安心して掴み上げる事もできるわけだ」
初めてホノリウス5世の顔がはっきり強張りました。
「図星だな。最初から俺に絶対に触れないので妙だと思っていたんだよ。ここまで俺を追いかけ回すなら、ドナトスから奪って己の懐に囲い込んでも不思議じゃないのに、せいぜい近寄るだけだったからな。腰抜け」
「…それ以上くだらない事を喋るな」
コスドラスの口調が急に変わりました。
「はっきり言っておく、ホノリウス5世。私は言う通りには絶対にならない。私の本当の名前を知ろうとしても無駄だ。ドナトスを人質にしようとしても無駄だ。彼は守られている。諦めろ」
ホノリウス5世の指がコスドラスの頭に喰い込みます。
「光と影が見えるのが自分だけだと思いあがるな。その傷ついた目で見る光は眩しくて辛いだろう、ホノリウス5世」
ホノリウス5世はコスドラスをドナトス修道士に向かって投げつけました。
「コスドラス!」
ドナトス修道士は焦りつつ、何とか受け止めました。
「何てことを!病人を乱暴に扱うなど最低です!」
ドナトス修道士は初めて怒りのあまりホノリウス5世を正面から非難しました。
「あー大丈夫だ。おい、なにも放り投げなくてもいいだろうが。乱暴な野郎だな」
ホノリウス5世も少し荒い息で2人を睨みつけました。
「出鱈目ばかり喋る忌々しい生首など丁寧に扱う必要などなかろう。貴様は相当な詐欺師だな。それ以上絶対に口を開くな、いいな。
ドナトス修道士。さっきの不敬な物言いは見逃してやる。だが馬車に乗ってから見聞きした事は決して他言せぬように。これは教皇命令だ」
「…はい…わかりました…」
「君にも改めて色々聞きたいが、後日にしよう。くだらぬ会話で疲れた。私は中継地に到着するまで少し休む」
そう言うと、ホノリウス5世は座席に座り直し頭巾を深くかぶると目をつむりました。
コスドラスもさすがに喋り疲れたのか青白い顔になって黙っています。薬を飲ませ包帯を巻いてやるとやがて眠ってしまいました。
ホノリウス5世も眠っているようです。
静かになった馬車で車窓を眺めながら、ドナトス修道士はホノリウス5世の語った事を思い返して途方に暮れました。まさか目的がコスドラスを『教皇総会議』へ出す事だったとは…。教皇の強大な権力を甘く見ていた事に腹が立ちます。平の修道士でしかない自分がどうやってホノリウス5世からコスドラスを守ればいいのだろう…。
しかし膝の上のコスドラスの寝顔を見て、弱気になりかけたドナトス修道士は誓いを思い出しました。
コスドラスを総会議で見世物のように扱うなど絶対に承服できません。しかも本人が拒否しているのです。
そう、まだ時間はある。
たとえ地位は無くとも、自分は誓いを立てた正式な修道士だ。「白の大宮殿」には大勢の聖職者が仕えている。教皇以外の有力者に訴え出る機会もあるかもしれない。とにかくコスドラスの為に打開策を考えようとあらためて決意しました。
やがて馬車は馬の交換のために小さな村に停車しました。
馬車が止まった瞬間目を開けたホノリウス5世は物も言わずに馬車から降りて外に出て行き、前の馬車から慌てて降りてきた侍従長としばらく話し合っていました。やがて馬車にやって来た侍従長の指示で、ドナトス修道士は前の馬車に移動する事になりました。ホノリウス5世と離れられるのでドナトス修道士はほっと安心しました。
まだ眠っているコスドラスを抱えて前の馬車に乗り込み、灰色鳥に話しかけているうちに再び馬車が走り出しました。
いよいよ教皇の国に入る最後の道程です。
馬車は谷間を抜け、なだらかな丘の続く場所に出ました。気持ちのいい青空の下に草や花が揺れる広々とした穏やかな風景が広がっています。
この場所を馬車で駆け抜けるのではなく、コスドラスと灰色鳥と一緒にのんびり歩いて旅が出来たら良かったのに…と思ったドナトス修道士は何だか泣きそうになってしまいました。そんな彼を心配そうに覗き込んでくる灰色鳥の頭を優しく撫でてやります。
もうすぐ目的地、ドナトス修道士が最初に目指した場所「教皇の国」に到着します。まさかこんな複雑な思いを抱えて憧れていた国を目にするとは…。
膝上のコスドラスが目を覚ましました。
喉が渇いたというので、容器に入れたぶどう酒を飲ませてやります。
「大丈夫ですか?痛むところはありませんか?」
「ああ平気だよ。しかしあの教皇、つくづく鬱屈した野郎だ。でもまあ言いたい事は全部言ってやってさっぱりした」
「あの…コスドラス…ホノリウス5世は目が悪いのですか?」
「左目がな。本人は見えづらいのを隠しているようだし、今は間近で見ないとわからんが、そのうちに周囲も気づくだろう」
「そうですか」
ドナトス修道士がホノリウス5世の表情を思い浮かべて俯いていると、コスドラスが言いました。
「うるさいのがいなくなって、やっとのんびり出来るな。外を見せてくれ」
ドナトス修道士はコスドラスを持ち上げて、車窓から風景が見えるように支えてやりました。
「ああ、気持ちのいい風だ」
2人で旅を始めた頃も、よくコスドラスは辺りの風景を見たがっていたなと思い出していると、街道の側に立てられた何本かの立派な旗が見えてきました。
「あれは教皇旗ですね。教皇の国が近づいた知らせです」
「つまりそろそろ国境か」
「ええ、そうです」
「そうか。旅も終わりだな」
コスドラスは空を見上げながらぽつりと言いました。
ドナトス修道士は黙って、コスドラスと灰色鳥に添える手に力を込めました。
馬車が走る街道は段々広くなり、大草原のような所に出ました。
やがて街道の両側に巨大な教皇旗が翻っている場所、そこが国境でした。
馬車は速度を落とし、ゆっくりと通り抜けました。
普通、国境や領地の境目には砦や柵があり検問の建物があるのが普通です。しかし教皇の国の国境にはそれらしい物が何ひとつありません。
馬車はそのまま、教皇の国に入りました。
しばらくの間馬車はゆるい坂道を上り、また下りました。
やがて、夕焼け空の下に大きな門が見えてきました。
そして門の背後に聳え立つ、無数の灯りに照らされて巨大な幾つもの建物が音もなく浮かび上がります。
離れた場所から眺めても圧倒されるような威容を誇る宮殿。
それが「白の大宮殿」でした。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます