【29日目 答え】
どこか遠くから美しい鐘の音がかすかに聞こえてきて、やがて消えました。
ぼんやり目覚めたドナトス修道士は天井を眺めていましたが、いきなり飛び起きました。
昨夜、生首のコスドラスと居間で話していた筈なのに、今は寝台の上です。
いつの間に眠ってしまったのか…。
灰色鳥は窓際で外を見ていますが、見回してもコスドラスがいません。
寝台から降りて、「コスドラス?」と呼びながら薄明るくなっている全ての部屋を見て回りましたが、彼の姿はどこにもありません。
廊下に出る扉は外から鍵がかけられています。動ける状態では無かったのにどこへ…と立ち尽くすドナトス修道士は彼の言葉を思い浮かべました。
日が昇る時に天に上る…。
窓を見ると、曇り空は遠くが白んではいますがまだ夜明けではありません。
コスドラスは、一人で行ってしまうつもりなのだろうか…たった一人で…ドナトス修道士はぐったりと椅子に腰かけました。
また自分の無力さに涙が溢れそうになり、目をこすったドナトス修道士は、ふと自分の右手に違和感を覚え、良く見て驚きました。
以前修道院の火災の時に負った、右手首の大きな火傷の跡がきれいに無くなっています。
コスドラスが癒してくれたのだ、と直感しました。
月日は経っても時々痛むので、水で冷やしたり薬を塗るのを見て「大丈夫か?」といつも心配してくれていましたが…首筋に手を当ててみると、やはりこちらの火傷跡も無くなっているようです。
しかし今のコスドラスには癒しの「力」は無かった筈です。
何らかの方法で力が戻ったのだろうか?しかし、もう時間が無いと言っていた彼がどうやって?
ドナトス修道士はどんどん不安になってきました。
教皇のホノリウス5世が危険だと言っていたコスドラスが、何か無茶をしたのでは、と気が気ではありません。
ずっと一緒に旅をしてきてコスドラスの不思議な能力は色々と目撃したので、実は天使だと告白されてもさほどの驚きはありませんでした。
しかし、コスドラス本人の口から詳しく聞いた彼の過去には胸が痛みました。彼に癒しの「力」があっただけで、何の罪も無いのに父親や兄達に金目当てで殺されたのです。どれほど悲しく辛かった事でしょう。
彼が教皇に徹底的に反発するはずです。あんな風に過去を持ち出されて…。
ホノリウス5世に対して不条理とわかっていても、怒りのような気持ちが湧いてきます。
自分がコスドラスに付き添って教皇の国まで来たのが間違っていたのだろうか…いや、そもそもあの時、自分が湖に立ち寄らねば良かった。そうすれば教皇に見つかる事も無かったのに…。
様々な後悔と自己嫌悪で混乱して押しつぶされそうです。
うなだれているドナトス修道士の側を、灰色鳥が珍しく落ち着きなくうろうろと歩き回っています。
「…お前もコスドラスが心配なんだね」
声をかけてやると近寄ってきたので撫でてやりますが、その間にも時間は経っていきます。とにかく呼び鈴で従者を呼んで外に出して貰おうとドナトス修道士が決意した時、突然扉の鍵が回される音がしました。
ドナトス修道士が椅子から飛びあがり扉に走って辿り着くのと同時に、慌てた様子の従者のマリヌスが扉から顔を見せました。
「ああドナトス修道士、良かった、起きていましたね。教皇から大聖堂前の大広場に来るようにという指示がありました」
「教皇が?」
そこにコスドラスもいるのでは、とドナトス修道士が考えた瞬間、灰色鳥が人間たちの横をすり抜けて廊下に飛び出しました。
自分を呼んでいる修道士の声を無視して、灰色鳥は走ります。
この建物を出て、空が見える場所にどうしても行かねばならいのです。
教皇のホノリウス5世は布にくるんだ生首のコスドラスを腕に抱え(予想以上に軽いのが意外でした)、大聖堂に向かって宮殿内の長い廊下を歩いていました。
胴体が消え再び生首になったコスドラスが、これから天使を呼ぶから今すぐに大聖堂前の大広場へ連れ出せと要求した為です。了承はしましたが、他の人間に任せる訳にもいかず、結局ホノリウス5世自身が連れて行く事にしました。
従者を呼んで着替えなどを済ませてから(コスドラスは布を掛けて隠しておきました)、大広場に来るようにとドナトスへ指示を伝えさせました。
コスドラスが、ドナトスにも天使を見せてやれと主張したからです。
胴体があった時のコスドラスと生首のコスドラスとは、態度も口調も何もかもが全く違う…どちらが本当のコスドラスなのか、ホノリウス5世は内心気味悪く感じていました。これが天使という者なのでしょうか?
コスドラスが元の生首に戻っても以前の具合が悪そうな感じにはならず、右耳もある健康そうな状態という事は敢えて無視します。
それよりも、自分はこの男に言いくるめられ丸め込まれたのではないかとホノリウス5世は徐々に懸念し始めていました。
しかしここまで来ればもうコスドラスを信用するしかありません。
彼の不思議な力は確かにこの目で見たのですし、もし欺いたり天使が来なければ徹底的に問い詰めてやり直しをさせよう、と腹をくくりました。
歩きながら注意していると、自分が作った<隙間>がどれもぼやけて霞んだようになっています。自分以外の者が入り込んだからか…また時間をかけてやり直さねば、と考えていると腕に抱えたコスドラスが見透かしたような事を言いました。
「<隙間>を使っていると体力を喰われるばかりだぞ、ホノリウス5世」
「それは承知している。今は何も喋るな」
ホノリウス5世が不機嫌に答えますが、コスドラスはのん気に話し続けます。
「ついでだから、大聖堂の中を見せてくれ。えらく豪華絢爛らしいな」
「…まあいいだろう、中を通って大広場に出るとしよう」
もう反応するのが面倒になったホノリウス5世は外に出る道筋から少し逸れると、大聖堂に向かい歩き続けます。
ドナトス修道士と従者のマリヌスは、灰色鳥を追って建物の中を走りようやく追いつきかけましたが、早朝の行事のために開けられていた小さな扉から外に飛び出されてしまいました。
灰色鳥は、広場に出ると更にひたすら走って、まっすぐ目的地を目指します。
何とか建物の外に出たドナトス修道士は灰色鳥を見失いましたが、従者に道筋を教えられて広場に出ると、ともかく教皇の指示通りに一人で大聖堂前の大広場に足早で向かいました。もうすぐ夜明けという時間、周囲は少し明るくなってきましたが大宮殿前の広場に人は全くいません。
恐らく灰色鳥はコスドラスを探しているのでしょう。しかし何故あんなに興奮しているのだろう…それにコスドラスは「教皇の目の前で天に上る」と言っていましたが、ホノリウス5世と一緒にいるのでしょうか?あの教皇と一緒に?
ドナトス修道士は足を止めて息を整えました。
コスドラスはこの世界と別れて天に上ることを自分で選んだのです。どんなに辛くても必ず最後まで見送ろう、もし教皇がコスドラスが去る事に怒って妨害するような事があれば、命にかえても彼を守ろう。
それこそが、友であるコスドラスの為にやるべき事だとあらためて自分に言い聞かせます。泣くのは後です。
別れの前に、何とか少しでもコスドラスと話が出来るだろうか…と思いながら再び歩き出したドナトス修道士の耳に、遠くから美しい鐘の音がかすかに聞こえてきます。無意識に聞いていたドナトス修道士は、ふと空を見上げました。まるで雨が降りそうに灰色の厚い雲で覆われています。しかしこの鐘の音は…はっと気が付いたドナトス修道士は足を速めました。
何かが起ころうとしているのを感じたのです。
ホノリウス5世とコスドラスは大聖堂に足を踏み入れていました。
布から顔を出して灯りに照らされた聖堂内を見回していたコスドラスは、建物の巨大さと壮麗さに感嘆の声をあげました。
「これは凄いな。昔、ここに来たことのある爺さんから良く話を聞かされたが想像以上に大きくて豪華だ」
「先代の教皇の時代に増築と大改修を行っているからな。そなたの祖父の時代よりは立派になっているだろう」
ホノリウス5世は、ふと気になっていた事を尋ねました。
「そういえば、そなたの本名は何というのだ?」
「…名前を知っても俺は縛れんぞ」
「もうそんな気は無い。しかしこれから先、天使であるそなたの正式な記録を残さねばならないが、その時に名前もきちんと記しておきたい。ホノリウス5世の名と並ぶ天使が不思議な仮の名では収まりが悪い」
コスドラスは玉座を眺めながら言いました。
「お前さんが探し出した、古い修道院に司祭の証言として残っていた記録にも俺の名前は載っていなかっただろう?」
ホノリウス5世は少し考えました。
「確かにそうだったな。だがその時の司祭は生首を見た恐怖で気が狂っていたと伝わっている。だから名前など語れなかったと…」
「俺が全部消したからだよ」
「消した?」
理由を聞こうとしたホノリウス5世は、どこからか響いてくる美しい鐘の音に口を閉ざしました。教皇として大宮殿の礼拝堂や大聖堂などで鳴らされる多くの鐘の音は全て熟知しています。しかしこの音は…。
「なんだ、この鐘の音は?誰が鳴らしている?」
鐘の音は少しずつ大きくなり、大聖堂の中にも響き始めました。
ホノリウス5世は立ちすくみ、遥か頭上の屋根を見上げました。
この鐘の音はその更に上、空から鳴り響いています。
「ここでお別れだ、ホノリウス5世」
「何!?」
次の瞬間、コスドラスはホノリウス5世の腕からいなくなり、宙に浮いて教皇を見下ろしていました。
「この鐘の音をこの大聖堂で聞かせたかった」
コスドラスは微笑みました。
「人間の時の名前は消した。天使に名前は無い。私は生首のコスドラスだ。コスドラス。それが私の名前だ」
「コスドラス、貴様、私を騙したな!?」
ホノリウス5世は激怒していました。
「あれは天使達が鳴らす鐘の音だ。この音色は地上の人間には祝福、私には合図だ。玉座に座るたびにこの鐘の音を思い出せ、教皇ホノリウス5世」
「祝福だと…」
「対立教皇の件は確かに約束した。だから心配するな。あなたは命を取るなと言った。それでいい。彼を、エミリオを赦してそこで終われ」
ホノリウス5世は怒りで上手く喋れません。
「生首の詐欺師が何を偉そうに。貴様、天使を呼んで話をさせると言って私を騙して連れ出したな?教皇を笑い者にする気か?どこへ逃げ出す気だ!?絶対に許さんぞ、この大嘘つきが!」
教皇の怒鳴り声を聞いてコスドラスはくすくす笑いました。
「私はどこにも行かない」
怒りと混乱で呆然としているホノリウス5世にコスドラスは言いました。
「私はこれから天に上る」
そう言うと、いきなり宙を飛んで大聖堂の巨大な扉に向かい、ホノリウス5世は怒りながらも慌てて後を追いました。
空から響く鐘の音はいよいよ大きくなっています。
急ぎ足で大広場に向かっていたドナトス修道士は、緊張と不安で息苦しさを覚えていました。コスドラスが天に上るために必要な鐘なのでしょうか?
さすがに夜明け前でも音がこれほどの大きさになると、大宮殿の方でも気が付く人間が出てざわめいている気配が伝わってきます。
ようやく大聖堂前の大広場に到着しましたが誰もいません。そのまま向こうに見えている大聖堂に向かおうとしたドナトス修道士は、こちらに向かって物凄い速さで飛び跳ねてくる姿に気づきました。
「コスドラス!!」
ドナトス修道士の叫び声に応えて、コスドラスも「よおドナトス!」と叫ぶとドナトス修道士の胸に飛び込んできました。
「ああコスドラス、会えて良かった、姿が消えたので心配しましたよ」
抱きしめられたコスドラスは楽しそうに笑いました。
「悪かったな。けど教皇を思い切り騙してやった。怒り狂っているぞ、ざまあみろだ」
ドナトス修道士はコスドラスの様子に気が付きました。右耳がありますし、髪も肌も艶やかです。こんな健康そうなコスドラスを見るのは初めてです。
「コスドラス、耳が…具合が良くなったのですか?」
「ああ、今だけな。天使たちに天に上る前に人間たちに恩返しをする為だと言いくるめて一時的に力を戻させた。どうだ男前だろう?この顔で俺を覚えていてくれ」
「コスドラス…やっぱり…」
「悲しむな。俺はここから天に上る。だがお前は地上で生きていく。いいな、その手足でしっかりと歩いて前に進め」
「はい…はい…約束します…」
「火傷の跡や他も全部癒しておいたからお前の身体はもう大丈夫だ。俺の昔話は、落ち着いたら全部教皇に話してやれ。あいつからも面白い話が聞けるだろうしな」
必死で涙をこらえているドナトス修道士の目に、こちらに歩いてくるホノリウス5世の姿が見えました。遠くからでも怒っているのがわかります。
思わずドナトス修道士はコスドラスを抱きしめる腕に力を入れました。
「日が昇る。迎えの時間だ」
コスドラスは明るくなってきた空を見上げました。
その時、ドナトス修道士は大広場の向こうに立っている灰色鳥に気が付きました。
灰色鳥は、空を見上げていました。
空の上、雲の上から聞いたことのない、美しい音色が響いてきます。
あそこだ、高い空の、もっと向こう。
誰かが、何かが、自分を呼んでいます。
灰色鳥は、ようやく答えを見つけました。
自分が一番行きたい場所が自分の行くべき場所なのです。
鐘の音が体中に染みわたります。
祝福の音色、自分を目覚めさせる音。
灰色鳥は、生まれて一度も広げられなかった羽を大きく広げました。
自分が飛べなかった事など忘れていました。
今この時に飛ぶためだったのですから。
灰色鳥は優雅に羽ばたき、なめらかに飛び上がりました。
修道士の驚いたような声や、生首の笑い声が自分の下から聞こえてきてとてもいい気分です。
もう修道士に守られなくても大丈夫です。
生首の気配が感じられなくても大丈夫です。
修道士も生首も行くべき場所に行くのです。
そして自分も、あの空の上の行くべき場所に行くのです。
灰色鳥は難なく一番高い建物、大聖堂の屋根の一番上まで飛んで行きました。
屋根の上に立って見下ろすと、人間たちがとても小さく見えます。
修道士と生首も、他の人間たちもこちらを見上げているようです。
灰色鳥は空を見上げました。
ここから上に飛んで行くのは無理なようです。
しかし鐘の音色は雲の上から自分を呼んでいます。
自分がここまで飛んできたのを知らせなければならないようです。
灰色鳥は首を伸ばし、嘴を開くと大きな声で空に向かって鳴きました。
鐘の音色がひときわ高く鳴り響くと、そのまま静かになりました。
灰色鳥は、何度も空に向かって鳴きました。
空に、灰色鳥の声だけが響きます。
やがて、大聖堂の遥か上の空の雲が金色に輝き始めました。
(つづく)
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