第三章 2




 結局蕎麦を五回おかわりして店主を真っ青にさせ、真忌名は腹八分目でやめておこうと呟いて屋台を出た。その呟きを聞いて顔色をさらに変えた店主に挨拶して、ゼルファもまた立ち上がった。実は最近、新しい歌を作ったのだがそれがあちこちの酒場ですこぶる評判が良く、彼の収入も前よりは少し上がった。その為以前はしたくてもできなかったことができるようになって、ゼルファは近頃気分がいい。それは当初の彼の狙い通り、彼が真忌名とほとんどの時間を過ごし、旅の途中で彼女がなんとはなしに語る色々な見聞をゼルファ自身が吸収していることが一番影響しているのだが、当の真忌名とゼルファがそれに果たして気づいているか、どうか。

「うまい蕎麦であったな」

「そうだね」

 真夜中過ぎだけあって、人通りは少ない。祭で大部分の人間が大通りなどに行ってしまったからだ。二人が石畳を踏む音がひたひたと、冴え渡った静寂の中に静かに響いている。 それを破ってテッテッテッテッ、という規則的な足音が聞こえてくれば、真忌名のような者でなくとも振り向くだろう。

「いたいた」

 宿の娘だ。何かを左手に抱えている。真忌名の目がそれを捕らえて、おや忘れ物をしていたようじゃと呟いた時。そして間近に娘がやってきて何かを言おうとした時。

 シュッ…………

「―――――」

 真忌名の目が大きく見開かれた。あっという間だった。

 空気を切る微かな音がした途端、真忌名は倒れこむ娘の背に矢が刺さっているのを見た。

 失敗だ!

「お、おいどうした!」

 ゼルファが慌ててしゃがみこみ娘に問いかけるのに任せ、真忌名はキッ、と空間を睨んだ。

 どこの誰の仕業じゃ。

 しかし千里眼を使っている余裕はなかった。足元のゼルファが悲鳴に近い叫びを上げたからだ。

「見せや」

 真忌名は屈んで娘の背中に突き刺さった矢を見た。紫色の矢。眉を寄せ、すぐに抜く。

「あ、え、おい、いいのかい抜いたりしたら……」

「見ろ。毒が塗られている」

「え…………」

「周到な……この真忌名を狙ったものと見てよい」

 真忌名はすぐに娘の背中にある傷口に口をつけて吸った。そしてすぐに顔を上げて道にそれを吐き出すと、早くもどす黒くなった血がそこここににちいさなしみを作った。何度も何度もそれを繰り返して、ようやく血の色が本来の色に戻った頃、真忌名は毒を吸い出すのを止めた。

 真忌名は娘を抱えて立ち上がった。

「真赭」

「はい真忌名様」

「この娘の住まいを」

「はい」

 空中で浮いたまま手をついて、真赭はそのまま二人を導いた。真忌名もゼルファも無言であった。しかしゼルファは、あの矢が真忌名を狙ったものなら、なぜ使い魔たちはそれを阻止しなかったのであろうかと思案した。そう思ってしかし、いつしか真忌名がさらわれた時も、知っていながらなにもしなかった使い魔たちの言葉をゼルファは思い出していた。彼らはよほどのことがない限り、真忌名に及ぶいかなることも阻止しようとはせぬ。 おそらくあの矢が飛んできたところで、真忌名が察知して払いのけるくらいのことができたであろうことはわかっていたのかもしれないし、そうでなくとも彼らが治療してしまえば済むことなのだ。しかし今回それが裏目に出たことを、ゼルファは少々苦々しく思っていた。

「どんな様子だい」

 彼は真忌名の腕の中の娘をそっと覗き込みながら言った。

「良くはない。正体の知れぬ毒ゆえ。まずは寝かせなければ」

 毒がまわるのが早いのか、娘の息は見る見る荒くなっていった。

「すまぬことをした………………この身の至らなさゆえじゃ。料簡しいや」

 真忌名の呟きを、ゼルファは聞こえないふりをすることにした。

 住まいの表札から、娘の名はリセラというのがわかった。小さな小さな部屋を借りて、一人でつましく暮らしていたのだ。部屋の中は片付いており、週末にでも故郷へ帰る準備が着々となされている。真忌名はリセラをベットに寝かせ、具合を見た。

「響子を」

「お側に」

「手当てをしてやれ」

「は……」

 真忌名は立ち上がって響子と入れ替わり、響子が治療を始めるのに任せた。

「是親」

 スッ……

「は」

「真赭」

「はい」

「結婚を控えた娘の運命を変えてしまった。救ってやらねばならぬ。なんとなればこの娘は私の忘れ物を届けようとして私を追いかけ、私を狙ったあの矢に当たったのだから」

「どういたしますか」

「今週末には故郷に帰るはずだったと聞く。しかしこれでは帰るどころか命も危ない。この住まいも今週中に引き払う手筈になっていたようだし、埒があかん」

 机の上にあった大家とのやりとりと最終的な金銭の受け取りの領収書を見ながら真忌名は低く言った。

「ここにいられないと言うのなら送ってやるしかあるまい。是親」

「はっ」

「矢の出所を明らかにせよ。何か得体の知れない連中に狙われているような気がしてならぬ。真赭は宿に行って主に告げよ、この娘は急なことがあって今日明日中に故郷へ行かねばならなくなったと。ついでに我らの部屋も引き払っておけ」

「かしこまりました」

「病人を乗せられる馬車の支度も忘れるな」

 真忌名の声が低い―――――。

 ゼルファは知っていた、彼女がこんな声になる時、それは明らかに心底怒っているのだということを。



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