第二章



 初夏の濃い緑が遠くで風に揺れるのを見て、真忌名はある女のことを思い出していた。

 明珠めいしゅ―――――わが盟妹 《いもうと》

 瞳を閉じると、初夏の濃い緑と同じような美しい瞳を持った娘が現われる。

 『 お盟姉さま 』

 『 お盟姉さま――――― わたくしは、後悔などしておりません 』

「―――――」

 むごい死に方だった。あまりにもひどい人生だった。

 真忌名は眉根を寄せ、こめかみに手をやって目を伏せた。

「どしたん?」

 無邪気な声に顔を上げると、旅立つ前に買っておいた林檎を頬張るゼルファの姿があった。

「いや……」

 真忌名は顔を背けて風景に目をやり、静かに答えた。

「なんでもない」

 そよ、と気持ちの良い風がそちらから流れてくる。 

 珍しいなと思いつつも、ゼルファは何も言わずに自分も身体をずらして外が見える位置まで行った。外を見ながら、懐から出した林檎を出してかじった。

 二人は今、乗り合い馬車の荷台にいる。

 その名の通り乗り合い馬車は街道を行く大型の馬車で、街道で呼び止めて一定の料金を払えば誰でも乗ることができる。安価で比較的安全で、公共の乗り物なので庶民の人気も高い。旅人もよく利用するが、二人もそのくちである。が、生憎二人が馬車を止めた時中はいっばいで、小柄なゼルファ一人とて、座るスペースはなかった。その時真忌名は空腹で、別段このまま歩いていいとも思う反面、ただ歩くだけというのにもいい加減に飽きてきていたので、荷台でいいから乗せてくれと頼んだのである。ぶつぶつ言いながらも荷台に乗り込んだゼルファに、真忌名はにこやかにこれも経験じゃと言った。こういった経験が人を育てるという意味ではない、こういった経験はできる内にしたいという意味だ。祭を見たいと思うのと同時に、いつもは着られない服を着るのと同じに、真忌名は乗り合い馬車というものを経験したかったのだろう。

 司祭でありながら騎士であると言った真忌名の前身をわずかながらも知ったゼルファは、きっと今までそんなことをする暇もなかったのだろうと、黙って彼女の気まぐれに付き合っている。

 考えてみれば、荷台の荷物をそこそこ片してしまえば、座席で座ったままの恰好で隣の人間に気を使いながら眠るのとは違い、たとえ固い板張りの床であろうとも横になれる分荷台の方が居心地はいいかもしれない。ゼルファ曰く、短距離、しかし歩くのにはしんどい距離を行くのにはいいが、何日もかけて行ったり中で眠らなければならないようなら、乗り合い馬車よりは徒歩のほうがずっと楽だという。

「ほう。そういうものかや」

「寝返り打てるだけいいよ。中では、立ち上がって伸びするだけでもしんどい」

「狭いようには見えなかったが」

「狭くはないけど人がいっぱいいるだろ。あんたなんて特に身体でかいし」

「ふーむ」

 揺られながら、真忌名はおかしな感心をしていたものである。その時の真忌名と、今の彼女ではあまりにも様子が違う。

 これが別の人間だったら、色々と真忌名にどうしたのか何を考えているのかと聞いているところだろう。だが、旅の暮らしが長いゼルファはこういう時いらぬ干渉をせぬ。相手が真忌名ならば、尚のことである。ゼルファ自身、そして真忌名本人も気が付いていないのだが、その不必要に干渉しない彼の性質が、真忌名が彼を気に入っている理由の一つであろう。

 馬車の荷台で寝起きすること三日、途中何度か小さな村や街に停泊して休憩をとりつつ、乗り合い馬車は二人の目的地である大都市レケルに到着していた。

「ようし」

 胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、勇んで歩き出した真忌名はまっすぐ市街地へ入るための門へと向かっていった。

「まあ元気だこと」

 げっそりとしてその背中を見送り、ゼルファは痛む節々を押さえながら自分も歩き出した。

 そしてその門に入り、真忌名が石畳の道を踏みしめようとした時である、

「真忌名様」

 門の影から、真忌名を呼ばわる声がしたのは。

 真忌名はすぐに反応し、肩越しに門の方を振り向いた。

 門の脇、その柱の影に、男は膝まづいてこちらを見ていた。紺地に、にぶい金の糸で牡丹唐草模様の直衣を着、黒い髪は短く、ひらりと見上げた青い目が印象的だ。

 使い魔だ。

 ゼルファは直感した。

「お前か是親。満を持しての登場かえ」

「申し訳もござりませぬ。その件につきましては…………」

「咎めているのではない。仔細は真赭から聞いておる」

「は…………」

「それより何ぞ用か」

「は。この都市で最近たてつづけに起こっている不審な事件について、ご報告申し上げます」

「不審?」

「はい。老若男女を問わず―――――そして無宗教とそうでない者も問わず、定期的に行方不明となっているそうでございます。そして数日のちには、必ずむごたらしい姿で発見されていると」

「信心無信心を問わず? 色もか」

「左様でございます」

「…………」

 真忌名は目を細めた。その一瞬でこの女がどれだけのことに思いを馳せているのか、ゼルファには想像もつかない。

「確かに不審だの。…………まあ良い。祭に支障がないのなら、私には関係のないことじゃ」

「は」

「それより是親、」

 真忌名はいたずらっぽく言った。

「長らく姿を見せなんだの。お主のその堅っ苦しい顔を見られんで、淋しかったわえ」

 言って、真忌名はくっくっくっくっと忍び笑いを漏らした。

 返答に詰まりうつむく是親を見て、ゼルファが、

「その辺にしといてやれよ。根性悪だなー」

「そうかや? まあ良い是親。立ちや」

 そして真面目な顔をして是親が立ち上がるのを見て、真忌名はゼルファを振り返り、

「これは紹介せねばならぬ。ゼルファ、腹心の是親じゃ」

「お初お目にかかります」

 是親が恭しく頭を下げるのにぎょっとして、ゼルファはひどく動揺した返事を返した。 正直、なんと言って答えたか自分でもよく覚えておらぬ。傍から見れば、そこそこ滑稽な光景だったかもしれぬが、是親は無表情を崩すことはなく、真忌名も何も言わなかった。

「さて行くか」

 真忌名は晴れ晴れとした表情で歩き出し、宿をどこにするかとゼルファに聞き始めた。

「祭は五日後じゃ。楽しみだのう。広場が見える宿がよいがもう一杯かや」

 食事をしながら真忌名は誰に向かって言うともなしに言った。

「真忌名様。そのことですが」

「ん?」

 側で黙って聞いていた是親が、その時初めて口を挟んだ。

「実は少々困ったことになっておりまする」

「なんじゃと」

 手を止め、真忌名は思わず声を上げた。

「どういうことじゃ」

「は。このレケルには東西南北、四つの家がございます。それぞれ、レケルを担う重要な任務を代々務めてきた、いずれも古い家でございます。祭の為の神輿は倉に所蔵されており、倉の鍵はその四つの家の当主がそれぞれ提出し、一つに組み合わせないと開かないのでございます」

「ふむ」

「問題は……その四人の有力者たちが、とても仲が悪いということで」

「……つまり―――――祭は中止になるかもしれぬと?」

「―――――はい」

「―――――」

 真忌名は渋い顔になった。

 眉間に皺を寄せ、瞳はやりきれない思いと少々の怒りと苦渋が浮かんでいる。

「どうする次の街へ行くかい」

 先日娼婦たちを助け、騎士と立ち合ったばかりに滞在していた街を去ることになり、真忌名が広げて見ていた大きな大きな地図をちらりと見たことのあるゼルファは、真忌名のその時の夢中になって次の目的地と別の街の祭開催の時期を調整している背中を思い出して言った。

 真忌名はとんでもないとでも言いたげに手を払い、

「まさか。この街の神輿はそれは派手やかで美しいそうじゃ。そんなものを見ないで次の目的地に行くなど考えられん」

「でもどうすんだよ。そういう連中に限って自分以外の当事者全員が悪いんだとか責任のなすり合いするもんだぜ。結局そうやってる内に問題は片付けられなくなるんだ」

「言えておる。次回この祭が開催されるのは五年後じゃ。こんなチャンスは滅多にないもの……おさえておきたいのう」

 真忌名は顎に手をやって天井を見上げた。

 そしてすぐに指をパチン、と鳴らすと、是親に向かって、

「四天王を呼べ」

 と言った。是親ははっ、と短く答え、すぐにスッと消えてしまった。

 キョトンとして事態がよく飲み込めぬ顔のゼルファに、真忌名は鼻歌を歌いながら食事を再開し、顔を上げてしたり顔でにやりと笑った。

「男には、色仕掛けと相場が決まっておる」

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