第一章 7

 四日後―――――

 祭の空気が濃厚になってきた街の中に、真忌名とゼルファはいた。

「やれやれ間に合ってよかった」

 それを呆れたように見やり、ゼルファは両手を頭の後ろで組んで真忌名に言う。

「大サービスだったねー」

 この言葉に、真忌名はムッとしたようなうんざりとしたような、それでいて反論できないような微妙な顔になった。アイシャ一人を助けるはずが、結局は娼婦五十七人すべてに洗礼を施した真忌名は、あの後五人の使い魔に剃刀と眉筆をとらせ、女たち全員の眉を描き直させた。

 眉の出来上がった女から順に、椅子に座った真忌名の元へ行き一人一人新しい真名を得たのである。ゼルファは娼館にあのような大広間があるのは不思議でならなかったが、あとで聞いたところによると金持ちが大勢で女をとっかえひっかえ抱くための場所であったという。

「乱交部屋で洗礼などとは初めてじゃ」

 物凄いことをさらりと言いながらため息をついた真忌名を、通りかかった中年の女がぎょっとして振り返って見ている。

 ゼルファは苦笑しながらも、真忌名の洗礼の有り様をまざまざと思い出していた。

 あの路地裏で赤子にしたように、空間から突如として光る玉を取り出し口移しに飲ませ、真忌名は女の一人一人に誰にも聞かれないような小さな囁き声で真名を与えた。それは、女に女が口移しで何かを飲ませるという、見慣れない者にとってはどきまぎするもの以外のなにものでもなかったが、迎え入れる真忌名の穏やかな瞳、迎えられる女たちの必死な中にも無垢な瞳を見た一同は、場所が色町だけに自分が想像していたものがいかに下等なものだったかを知って恥じ入った。

 女たちの洗礼を施すのは自らの洗礼と引き換えと言ったアイシャは、当然自分が新しい真名を与えられるとは思っていなかったらしく、仲間たちの洗礼の様子を固唾を飲んで見守っていたが、最後の一人が終わった時、真赭にどうぞ、と手を引かれ、断ろうとする前にはもう目の前に真忌名がいた。

 アイシャは、その時の真忌名の顔を忘れることができないだろう。

 大きな背もたれのある椅子に、ゆったりと座る堂々振り。足を組み、その上に手をついてこちらを見る、その瞳の穏やかな神々しさ。アイシャは思わずそこにぺたんと座り込んだ。

 真忌名は彼女を見て言った。

「ほう。良い眉になったの。それでなければならぬ。さ、おいで」

 真忌名は足を解いて手を差し伸べた。

「いえ、あの、でも」

「―――――自分の洗礼はよいから仲間の洗礼をしてほしいと言われてはいそうですかと引き下がれると思うか。たわけめ。よいから来や」

 真忌名は真赭に手を引かれて茫然とするアイシャを膝で立たせ、自分は身を乗り出して彼女の首に手を回した。

「―――――」

   ―――――

 わずかに目を細めた真忌名の目には、部屋の風景もアイシャの顔も、最早見えてはおらぬ。

 見えるのはねっとりとからみつく、深淵の闇。


   ―――――


 そこに、怯える仔猫のように僅かな光を放ってうずくまる、小さな小さな粒を真忌名は見つけた。


   これか―――――…………哀れよの柚喜


   自分に洗礼をする代わりに仲間に洗礼してほしいと頼むとは誰にでもできることで   はない―――――その優しさにふさわしい真名をやろう

 スッ、と空間から呼び出したほの赤い玉を口に含み、それを口移しで飲ませ、その拍子に怯えきって焦燥した真名からその毒をみんな吸い出してしまうと、真忌名はアイシャの耳元で誰にも聞こえないように小さく「慈泉」と囁いた。

 そして離れると、自分を見上げている女の瞳は驚きに見開かれ、口元は喜びでわずかに震えている。肌はわずかに艶を帯び、ひび割れた唇は彼女が何か言おうとした拍子に湿りふっくらとなった。

「よろしい。体調が整い次第故郷に帰るがよい。使い魔を警護につかわすゆえお主はなんの心配もせずに行くがよい。達者でな」

 そしてゼルファは、口ぶりからして使い魔の中からとっておきの精鋭をアイシャの護衛につかせるよう真赭に命じた時の、真忌名の表情もよく覚えている。

 不思議な顔であった。

 疲れているようには見えぬが、どことなくだるそうだ。

 楽しいわけではなさそうだが、なんとなく口元が笑っている。

 アイシャと五十七名の女たちは、年季が明けても働かせられていた分の金をギルドから受け取り、一人一人に警護をつけられ、新しい真名と共に輝かしい顔をしてそれぞれの故郷へ帰っていった。

 ちらり、と真忌名を見上げ、林檎をかじりながら、ゼルファは変わった女だなあとつくづく思った。

 面倒なことが嫌いなようでいて、面倒が彼女の元へ飛び込んでくる。冷たいようでいて、変に義理堅い。真名を授ける前のうんざりした様子と、目の前の問題を仕方なく受け入れた時の開き直り方。

「なんじゃ」

 その視線を感じて、真忌名は綿菓子片手に見下ろす。

「いや。あの女の人たち全員に洗礼するの嫌そうだったわりには、ちゃっちゃと片付けてたなあと思って。だいたいあの人たち、お礼してないじゃん」

 そのことかとでも言いたげに、真忌名の口元がフッと緩んだ。

「礼はもらった。すなわち私の好きなような眉に描き直すということじゃ。好きなようにやらせてもらったゆえ。洗礼に関してはうんざりはしておらん。少々くたびれるなと思っただけじゃ」

「あの人数とチューすんのが?」

 真忌名は豪快に笑い声を上げた。あまりの豪快な笑いっぷりに、側を歩いていた者たちがぎょっとしたほどだ。

「そうではない。新しい名前を考えるのが面倒なのじゃ」

「洗礼所の控え室には名付けの参考事典かなんかがあったりして」

 真忌名はますますおかしそうに大きく笑った。背の高い、迫力美人が綿菓子片手に豪快に笑う様を見て道行く人々が不思議そうに振り返る。

「だいたい口移しで飲ませて洗礼するなんて初めて見たよ。他の司祭もあんなふうにするものなの?」

 ゼルファの言う飲ませる、というのは、洗礼の際相手に飲ませる飴玉のような小さな玉のことである。相手によってそれは白であったり、淡い紫であったりする。司祭は取り出した玉に相手の存在の秘密を凝縮し、相手に飲み込ませることで存在意義と肉体とを合致させるのだ。

 司祭というのはほとんどが男なので、なんらかの事情でやってきた青年男性にそれらの司祭が口移しで洗礼を施す様を勝手に想像し、ゼルファはちょっとだけ気分が悪くなった。

「おかしな想像をしているの。色町にいすぎじゃ」

 呆れたように彼を見やって真忌名はため息まじりで言い、まっすぐに前を見据えたまま彼の疑問に答えた。

「口移しにするのはそれが一番安全だからじゃ。玉を取り出したら最後、真名をなるべく空気に晒さぬようにして相手に与えなければならぬ。空気に晒され時に人目に晒されただけ秘密が漏れる危険は大きくなる。またあちこちにそういった人の魂を奪う魔物がいるやもしれぬ。司祭という究極の保護壁で防護し口移しで飲ませれば、そういった危険は冒さず済む。相手の命を預かる以上は万全を期せねばならん」

「それにあんなに眉にこだわる理由もオレからすればよくわかんないね」

「眉というのはその人間そのものを現わしておるのじゃ。眉だけで、その人間の性格はほぼわかってしまう。勝ち気な眉、媚びた眉、おとなしい眉、それだけで受ける印象というものも変わっていく。眉山の位置を少しずらし高さを変えるだけで、同じ人間でも大分印象が変わるはずじゃ」

「ふうん…………」

 ゼルファは頭の後ろで手を組んで、そんなものかね、と呟いた。そして二個目の林檎を取り出してかじった。

 この街の祭というのは、祭というよりは儀式がもう少し庶民的になったようなもので、他国の賑々しいそれとは少し毛色が違う。弦楽器を奏で、水と瑞々しい果物を供え、奉納の舞を舞う。この舞の姿が美しくて評判を呼んでいるだけといってもいいのかもしれない。

「ほう。良いの。地味だが丁寧で美しいわえ」

 それが真忌名の感想であった。

 奉納は三日間続く。初日の舞、中日の舞、楽日の舞。それぞれが独特の形と振りを持っており、衣装やそれらの素材もまったく別のものだ。

 ひとまず舞いを見終わり、中央広場から離れた二人は、石畳で出来た道の、その道沿いにある花壇に座った。

「やれやれ」

 どっかと花壇の縁に座った真忌名を、ゼルファはまじまじと見た。

 真忌名、今日はいつものような旅人の服を着ていない。

 上は、襟の大きく開いた黒のブラウス。その光沢からすると絹にも見えるが、絹ほど薄くはない。ゼルファは知らぬだろうが、縦糸が生糸、横糸が絹という独特の織りの服だ。 下は同じく黒地に赤いバラの模様のスカートだ。つぼみのものもあれば、開いているものもある。定感覚で上から下にかけて放射状に赤と黒の格子柄の布が縫いこまれていて、服そのものが単調でつまらないものになるのを防いでいる。ボタンは前についていて、腰のところから裾まであり、足を見せたければいくらでも大胆になれるように作られている。 で、真忌名はというと、こういう女だから下から五つまでのボタンが外してあり、正に見えそうで見えないといったところだ。そんなことはお構いなしなのか気が付いていないのか、花壇に座って足をおっ広げて座る様は、目のやりどころに困る。

「あんた自覚ゼロだろ」

「うん? 何がじゃ」

 ぽかんとして聞き返すのに呆れて、ゼルファはそれ以上言うのが馬鹿馬鹿しくなった。

「どこでそんな服……ていうよりいつの間に」

 真忌名はいたずらざかりの子供のような顔になってちょっと得意げに、

「いいじゃろ。普段こういう恰好をしたことがないでな。たまにはしてみたいものじゃ」

「はあ……」

 ゼルファはなんと言っていいかわからなくて曖昧にそう言ったが、こういうかっこいい女がかわいい恰好しても結構似合うもんだなあとおかしな感心をしていた。

 その時である。

 久し振りの休暇でのんびりしきっていた真忌名の顔が、突如恐ろしいほど引き締まった。 彼女の周りにあった穏やかな空気は音をたててしぼみ、入れ替わりに凄まじいほどの緊張感が包み込む。顔は引き締まって目がつり上がり、口元は今にも牙が見え隠れしそうなほど鋭くなっている。瞳は爛々と照り輝き、獣のようだ。足を組みその上に肘をついた姿勢のまま、真忌名は突然感知した何かに殺気を放って警告している。

「な……なんだよどうし……た」

 ゼルファがここで言葉を切らずにいられなかったのは、祭の賑わいということを考慮に入れてもどうにもおかしな音と響きが感じられたからだ。

 ズシ……ン

 ズシ……ン

「な……―――――なんだ?」

 真忌名は厳しい表情のまま周囲に対して警戒する態度を崩さず、それでいて何が起こったかわからないままなので組んだ足をおろそうとはしない。

「―――――」

 ゼルファは絶句した。

 向こうから、見上げんばかりの大男が歩いてくる。

 小山のようなその巨体。そのまま揺り籠にできそうな逞しい二の腕、腰に吊るした、最早剣とも言えぬほどの大きな刃振りの剣。ゼルファの身体など、簡単にその刃に隠れてしまうだろう。丸太のような足は、子供が三人がかりで囲んでもその手と手がつながることはないくらいに鍛えられている。口と顎にたくわえられた、山賊もかくやという髭。鎧の金具が歩くたびに微かにカチャカチャと鳴り、一歩一歩前を行くたび、防具に鎧われた足の跡が石畳にめりこみそうであった。

 果たしてこの恐ろしげな大男はゆっくりと真忌名のいる花壇の近くまで歩み寄り、大きな影を花壇と彼女に落としてこう言った。

「エド・ヴァアスのラステラヴュズィ・真忌名殿とお見受けする。それがしはラズ・リィトが騎士、マスター A・ラザルス・テリトマイと申す」

「―――――ご高名は聞いておる。確か『小山のラザルス』と呼ばれているお方であろう」

 男は喉の奥で不敵に笑った。

「お見知りおきとは光栄な」

「用件を聞こう」

「一手の立ち合いを申し込む」

「―――――」

 真忌名は目を細めて巨体の騎士を見上げた。

 異常な空気に包まれた花壇の周辺を、早くも異変に気づいた市民達が取り巻き始めている。

「―――――なにが目的かは知らぬが…………」

 耳鳴りのしそうな張り詰めた空気の中、唯一それをものともしない騎士ラザルスと真忌名、その真忌名が相変わらず足を組んで座ったまま、相手の真意を測りかねて低く言う。

「引退した身ゆえ。立ち合うことかなわぬ」

 ラザルスはにやりと笑った。

 何もかもを知った上で、さらに真忌名の無知を嘲笑うような笑みであった。

「承知の上の申し出……いざ立ち合わん」

 真忌名は眉を顰めた。

 騎士同士というのは、自己に働く防衛本能の為に互いに<宣告>することができない。 ゆえに彼らは決闘という形で勝負をつけることがままある。それは戦場のみならず、相手の人格を著しく貶めたり、又はその騎士の主君や左手を預ける程の女性の名誉を辱めたときも決闘の対象になる。それと同じ位一般的なのが立ち合いと呼ばれるもので、これも決闘に他ならないのだが、目的が大きく違っているためこう呼ばれている。

 立ち合いは、騎士本人の名前を挙げるための行為として一般的である。

 騎士というのは厳しいクラス分けが成されている。同じマスタークラスでも A と AAでは天と地ほどの差がある。通常ならば肉体に負担をかけることになる<宣告>という行為に耐えられるか耐えられないかは、その者が持って生まれた運と才能のみによって支えられているのだ。その才能とそれに伴う剣の技量により、騎士はランクをつけられる。

 ゆえに、もし下位の騎士が上位の騎士と立ち合って勝つことができれば、それは大変な名誉になる。互いに<宣告>することができないので、そうなると騎士の剣の腕だけの勝負だ。立ち合いはたいていは何らかの理由で仕方なく行うもの、というイメージがつきまとう。愛する女性に結婚の条件として付きつけられるもの、ひどい失態をしでかしたり、周囲の信用をそれによって失った時に騎士本人が決断して行うものであるが、歴史始まって以来数万回と行われた立ち合いの中で美談となるようなものは片手で数えられる程度だ。 騎士の能力を一番よく知っているのもまた騎士であり、A とBBBはランクでいえば一つの差だがその一つの差が大きくものをいうことも、なにより知っているのは他ならぬ騎士だ。ランクというのは<宣告>レベルのランクだが、低いレベルで剣の腕は一級、という騎士はいても、不思議と上位レベルの騎士で並程度の技術の者は皆無である。個人の差はあれど、マスタークラスの騎士の腕というのはその辺の戦場ではお目にかかれないほど凄まじいものだ。

「…………どういうつもりかは知らぬが……」

 昔血気にはやって自分に立ち合いを申し込んだノーマルクラスの騎士が肋骨を五本折ったことを思い出しながら、真忌名は今だ立ち上がる気配を見せぬ。

 度胸試しに上位の騎士に立ち合いを申し込むのもままあることだが、あの騎士も面白半分でマスタークラスに立ち合いを申し込むことがどいうことか、身体でわかったことだろう。真忌名はその時、長剣で向かってきたその若い騎士を短剣の一振りで跳ね返した。精一杯努力して、なるべく傷つけないように細心の注意を払って立ち合って肋骨が五本である。

「引退騎士に立ち合いを申し込むのは禁じられておる。それでも?」

「ふっふっふ……それはどうかな」

 真忌名の言葉を口中で馬鹿にしたように転がして嘲笑すると、ラザルスは背に背負っていたなにかを勢いよく真忌名に向かって放った。

 ガシャアン!

 耳障りな音が、石畳に叩きつけられる。

「―――――」

「貴公の剣だ。取ってきてやった。剣が側にないから無理だという理由で断ることはこれでできまい」

 真忌名はじろりとラザルスを睨んだ。

「よかろう」

 ゆっくりと組んでいた足をほどき、その拍子に足元に転がった自分の剣の鞘を強く踏みつけた。

 シャッ

 剣は鞘ごと宙に浮いた。

 立ち上がり様、左手で柄を握り締めた真忌名は勢いよく剣を引き抜く―――青白い光が夕方近い街のあちこちに乱反射した。ゴト、という音と共に鞘は再び落ち、辺りには異様なまでの緊張感が立ち込めた。

「うん?」

 微かな違和感を感じてゼルファは、思わず声を上げた。

 ―――――あれ? あの女左利きだっけ?

 彼がそんなことを思っている内、真忌名は剣を軽々と左手で持ち、構えていた。

「そうまで言うなら勝負してやる。来なや」

 ラザルスはにやりと笑い、剣を引き抜くと胸の前で両手できっ、と持ち直した。天に向かってまっすぐ向けられた切っ先が鋭く光る。

 ザッ!

 ザッ!

 二人は同時に後ろに飛びのいた。

 しばしの睨み合い―――――街の一角が切り離されたようにシンと静まり返った。

 マスタークラスの騎士が、立ち合いをしている。

 相手のランクがどうかは知らぬが、立ち合いを申し込む以上、相手の女がそれ以上のランクで―――――マスタークラスで―――――あることに間違いはない。

 巻き添えを食わぬよう、それでいてきっちりと見物可能な、絶妙な位置にいっせいに移動した市民は、息を顰めてこの立ち合いを見守った。

「こちらへ」

 逃げ遅れてポカン、と真忌名を見上げているゼルファの裾を引っ張り、真赭が側の建物の影へと隠れた。位相転換しても良いが、人目が多すぎてそれも憚られる。

 スッ…… 

 と、何の前触れもなく真忌名が突然消えた。

 ギィン! 

 次の瞬間、どこからか勢いをつけて地を蹴りラザルスに斬りかかった真忌名の姿があった。真忌名が着地して尚、二人は剣と剣をぶつけたまま微動だにせぬ。

 ラザルスの巨体に半ばよりかかられるようにして押されているのに、息を切らすこともなく剣をずらすこともなく、少しも怯まず相手を睨み返す真忌名に、見ている者たちは揃って鳥肌をたてた。

 ザッ

 と、相手を押しのけるようにして二人はまた飛び退った。

「ほう……見えたかや。さすがマスタークラスは一味違うの」

 剣を肩に背負うようにして、真忌名は妖艶に笑った。

「貴公もさすがだ。気配に気づくのが遅ければそれがしは負けていただろう」

 真忌名はふっと微笑んだ。

 そのあまりの妖艶さに、ゼルファはくらくらした。今まで側にいて少しも気がつかなかった、否、少しも見せなかった真忌名の別の一面が、今見え隠れしている。隠れた一面にして真忌名の本質、祭と食べ物にうつつをぬかす真忌名ではない真忌名が、現われようとしている。

「―――参る!」

 ズザッ

 凄まじい響きと共に、ラザルスが動いた。彼の鋭い一撃を正面から受け止め、さらに素早くそれを外して自らも斬りかかる真忌名、両者の斬り合いはしばらく続いた。

 地を蹴り、倒れるふりをして転身し、風を切って飛びかかり消えては現われ現われては消える、そんな斬り合いがどれだけ続いたことだろうか。時間にすれば、それは三十分にも満たないものだったはずだ。しかし二人の洗練された動きと、その一挙手一投足に込められた濃密な経験と計算は見る者を惹きつけ、時間を忘れさせた。

 カッ

 もう何度目になるのか、勢いよく飛び退った拍子に真忌名がその足に力を込めた。

 ザッ―――

 キィン! 

 ゼルファには、何が起きたのかわからなかった。

 一瞬目がかすんだようになり、続いて鋭く涼しい金属音が聞こえたと思った時には、ラザルスの巨大な剣が沈もうとする太陽の光に当たって白く光った。

 同時に。

「動くな!」

 大股に足を開き、肩の後ろに大きく剣を引いた形でその切っ先をラザルスの首に突きつける真忌名の姿を、人々は見た。

「勝負ありじゃ」

 息を乱すこともなく言い放った真忌名は、チャリ、という音をさせて剣を下ろした。騎士ラザルスはむう、と低く唸り、背を向けて肩をコキコキ鳴らしている真忌名に言った。

「血の一滴も流れるが立ち合いの常套―――――なぜだ」

 搾り出すようなその声に、鞘を拾って剣をしまっていた真忌名は振り返って言った。

「無益な殺生は夢見が悪い。それに今私は、」

 剣を肩に背負って、それでトントンと肩を叩きながら真忌名は言った。

「引退した身ゆえな。あまりの騒動は控えたいというものよ」

 足元に何かの影を感じ、そちらへ目を向けたラザルスは、自分の剣を拾って差し出す真赭の意外な愛らしさにむ、と唸った。

「さてと……」

 剣を腰に戻して尚自分を見送る巨体の騎士に気づいているのかいないのか、真忌名は大して面白くもなさそうに夕焼けに目を向けながら歩き始めた。

 ため息まじりで、肩に乗せていた剣を下ろす。

 二ブロックも歩いた頃、大声を上げて自分の名を呼ぶ者がいた。ゼルファである。

「なんじゃまたお前か」

「なんじゃはないだろ。どこ行くのさ」

「なに……」

 真忌名はそよ、と吹いた風に顔を上げ、小さく呟く。

 ゼルファは胸を衝かれた。

 何も受け付けず、何も寄せ付けず、それでいて透明な顔が、そこにあった。悲しみも怒りもなく、ただ「在る」のみの顔。

 この女がこんな不思議な表情になるのか―――――ゼルファは彼女を追いかけるために走っていたその胸の動悸とはまた別のそれを感じていた。

「この街を出る。さきほどの立ち合いは少々目立ちすぎじゃ。舞が初日しか見られなかったのは残念じゃがまあいいじゃろう」

「なんだよもう発つのかよ」

「嫌ならついてこなくともよいのじゃ」

「う……それを言われると」

 苦虫を噛み潰したような顔になって立ち止まるゼルファを、真忌名はおかしそうに見た。 彼は慌てて歩き出し、真忌名と並んで彼女を見上げた。

「それにしてもあんた強いなあ。あんなにでっかい相手だったのに」

「あの男は特別じゃ。でかすぎるわえ」

「どうやったらあんなに強くなれるんだい」

 ふふふ、と真忌名はおかしそうに忍び笑いをもらした。

「お主は変わっておるのう。私にそんなことを聞いたのはお主が最初で最後じゃろう」

「なんでだよ」

 口を尖らせるゼルファに、道の向こうからやってくる馬車をやりすごそうとしながら真忌名は言った。

「マスターAAAほどにもなるとな、自然とあれくらいは動けるようになるのじゃ。訓練も昇進試験も厳しいゆえ」

「ふーん」

「すごいじゃろ」

「まあね」

 頭の後ろで手を組みながら、ゼルファはさらに真忌名に聞いた。

「でもさああんたって、どっちなんだい」

「うん?」

「洗礼したり宣告したり……騎士だか司祭だかわかんない。どっちなの」

 また大通りに差し掛かって、道を渡ろうとしてすぐに馬車が来ていることに気づき、二人は足を止めた。

「両方じゃ」

 ガラガラと耳の破れるような音を間近に聞き、それをやり過ごして真忌名は答えた。

「両方……」

 そんな彼女を見上げながら、半ば放心してゼルファは呟いた。そんな恐ろしいことがあっていいのだろうか。

 司祭は命を与え、真名を縛る。故に司祭は騎士と対峙すれば真名を奪い存在そのものの秘密を暴くことで命を奪うことはできるが、同じ司祭と戦えば能力は考慮されなくなる。

 一方騎士は、これも同じ騎士に<宣告>できないが、それ以外の者に対してはほぼ無敵であろう。

 騎士が司祭と立ち合えば、真名を縛られ動きを封じられる恐れがある。

 司祭が騎士と立ち合えば、その前に<宣告>されてしまうかもしれない。

 だが真忌名は、両方であるという。

 騎士であるならば、彼女に<宣告>することはできない。

 司祭であるならば、真名を縛ることもできぬ。

 司祭と戦うのならば、<宣告>すればよい。

 騎士と戦うのならば、真名を縛ってしまえばよい。

 その上千里眼だと言う―――――視たいと思ったものは、目に見えるものであろうと見えないものであろうと存在する限りは彼女の紫の目に等しく晒されることになる。

 そんなゼルファの思考を読み取ったかのように、真忌名は街並みを見据えながら言った。

「司祭と騎士というのはまったく相反する存在じゃ。命を与えるのと同時に命を奪うという真似は本来は許されぬ、あってはならぬことじゃ」

「―――――」

「なんの偶然かは知らんが―――――まあそういう風に生まれてしまったということかの」

「ふうん……」

 ゼルファは前を見、またちらりと真忌名を見上げた。

「なんじゃ。まだなにか質問があるのか」

 ゼルファはすれ違う人々をよけながら、すいすいとそれらをよける真忌名を多少恨めしく思いつつも側によって聞いた。

「なんであんなに強いのに国を出て行ったんだい」

 真忌名はゼルファを見た。

 聞きにくいことをさらりと言う。

 しかも、何の悪意もない。こうまで純粋な好奇心で聞かれると、最早ムッとする気にもなれぬ。

 天性というやつか。

「出て行ったのではない追い出されたのだ」

 真忌名はまっすぐ前を見据えながら静かに言った。

「〝引退〟という名目でな」

 それが上層部のせめてもの慈悲であったと―――――前を見たまま真忌名は言った。

  その時初めてゼルファは、もしかして聞いてはいけないことを聞いたのだろうか、とちらりと思った。しかし短い間だが密度の濃い時間を共に過ごして、真忌名という女がだいたいわかっているゼルファは、言いたくないのなら言わないのだろう、教えてくれたということは気にしていないということだと思い直して、ふうん、と小さく返したのみであった。


 二人の姿は夕暮れの向こうに、静かに消えていった。

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