第一章 6

 ゼルファはちょっとドキドキしていた。ギルドの面々に向かって一緒に来い、と真忌名が言わなかったのは、恐らく危険だから来るなと暗に言っているのだくらいは、おおよその見当がつく。ギルドですら手の出せない組織……それは、聞くだに恐ろしい存在であった。ゼルファのような流しの吟遊詩人からすれば、それは尚更そうであろう。

 それでも彼は真忌名の後についていくことをやめられなかった―――――彼は自らの好奇心に負けたのだ。もっとも、真忌名が危険だから待っていろと言うのなら、彼はそうするつもりであった。これだけの女が危険だというのなら、それはもう本当にとても危険に違いないからだ。

 しかし真忌名は相変わらずの早足で道を歩き、気配で彼がついてきているということを知ると振り返ってニヤリと笑った。

「ついて来るか」

 ゼルファが思わず立ち止まると、

「ならばついて来や。邪魔にならん程度にな。真赭、護ってやれ」

 ―――――おや…………

「かしこまりましてございます」

 ―――――真忌名様は、この少年をお気に召しているらしい……

 考えていることをまったく表情に出さず、真赭は宙に浮いたまま真忌名についていく。 ちらりと振り返り、当惑気味のゼルファに一度だけうなづいて見せた。間もなく、話には聞いたことがあるけれども、危険地帯である上吟遊詩人などが仕事をできるような雰囲気はとてもではないが皆無の界隈に、三人はやってきた。ゼルファは、ギルドに出入りしていてこういう場所があるのは知ってはいたけれども、実際目にしてみれば話に聞いていたものよりも数倍の過激さといかがわしさで、最初は顔を上げて歩くことができず、耳に入ってくる音だけを拾ったにしても、目で見ていないだけに想像力が働いてしまい気分が悪くなること至極であった。

「さてここか」

 そんな彼の様子に気づく様子もなく、平然と繁華街を歩いていた真忌名は<春立楼>という看板の前で立ち止まった。

 壁は、一面どぎついピンク色である。窓枠は黄緑と黄色が交互に塗られていて、そこから中で娼婦を相手に励む男の姿が見えたりして、ひどく悪趣味である。真忌名はうんざりした様子で、

「なるほどのう……見られていると燃えるというやつか」

 と呟くと、すたすたと入り口から中へ入って行った。

 入り口はとても狭く、人一人が入るのにやっとといったところだ。入ってすぐに左側にカウンターがあり、そこには体格のいい中年の男が座っていた。髪の毛の一本もない頭が、あちこちの照明に当たってぴかぴか光っている。真忌名を見ると小ずるそうな笑みを浮かべ、いらっしゃいませと言った。

「お客様、申し訳ございませんが女性のお客様に対応できる妓は、当方ではご用意しておりませんで…………はす向かいの<青猟楼>さんでしたら」

「嬲り尽して入れるものを入れるのなら女も男も同じであろうに……案外器量が狭いの」

「は…………」

「おかしな冗談言ってるヒマかよ」

 小声でゼルファが言うと、真忌名はいたずらっぽく笑い返しておおそうじゃったと言った。この状況に及んで尚、この女は相手をからかうことを楽しんでいるのだ。

 ゼルファを目にした店主はさらに勘違いしたのか、キッと真忌名を見上げて何か言おうとしたが、それを制して真忌名が、

「残念だが連れ込み宿だとも思うておらぬ。私が用があるのはマイエルという男じゃ」

「何…………」

 店主の表情が、一変した。

 今までは娼館のうだつの上がらない主人、金に汚く、小心者で卑屈な態度を崩さぬ不愉快な男でしかなかった。しかしマイエルの名を聞いた今は、目がつり上がり顔を引きつらせ、油断のならぬ空気を噴出せんばかりに警戒心を剥き出しにした顔になっている。どちらにしても下卑た顔立ちは変わることはない。

「誰だ貴様……なぜマイエル様の名を知っている」

「お前がごとき下衆に言う必要はない。案内しや」

 獣のような歯軋りと唸り声が聞こえたかと思うと、店主は背後の扉に向かって唾を飛ばしながら怒鳴った。

「おい! お客さんをもてなして差し上げろ!」

 ガタン、という音が扉の向こうから聞こえた。ゼルファはヒヤリとしたが、なぜか怖くはなかった。自分の知らない部分で、少年は真忌名の恐ろしさを知り、彼女に仕える使い魔の恐ろしさを知っている。

 扉の向こうから現われた男たちを見て、真忌名はおやという顔になった。出てきた男たちのうちの何人かも、ぎょっとした顔になっている。先日、真忌名と立ち合って叩きのめされた連中である。

「なんじゃお前ら……ようクビにならんだの。この界隈ではちょっとした噂にならなんだか、うん?」

 にこにこと笑って問い掛けるその笑顔には、一切の悪気も感じられない。それだからこそ、真忌名の言葉は彼らの誇りを刺激した。

「おおお親方っ! この女です、この間足抜けした女を助けたのは」

「何……」

「助けたつもりなぞないのだが」

 困ったようにゼルファを見る真忌名に、ゼルファは呆れて、

「ああいうのは世間一般では助けたって言うんだよ」

 と言ってやった。真忌名は眉間を寄せてうーむ、と呟いた。

 その間にも、店の中の空気はますます不穏なものを帯びてきていた。用心棒があちこちの扉から現われ、そのどれもが筋骨逞しい大男である。手にはそれぞれ武器を持っていたが、狭い店内のこと、長さのある剣や棍棒などを持つ者はほとんどおらず、暗殺用に使用するような短剣や鋭い鎌などがほとんどであった。それは却ってこの異常なまでの数の用心棒たちがどれだけこういったことに手馴れているかを顕著に物語っているようでもあったが、ゼルファは少しも恐ろしくはなかった。真忌名の恐ろしさの方が数倍上だということを知っていてその事実に自ら気づかないほどの感性は、後の彼の生き様を象徴しているようでもある。

「たたんじまえ!」

 誰かの怒号と共に、用心棒たちは一斉に真忌名に襲い掛かった。その凄まじい風景に呆気にとられ、一瞬逃げる隙をなくしたゼルファはそこにぼーっと立っていたのだが、すかさず真赭が彼の手を掴み、位相をずらしてしまったのでゼルファは巻き込まれずに済んだ。

(あれ…………?)

 ゼルファは、奇妙なことに気づいていた。

 自分は騒ぎの真っ只中にいるというのに、例えば自分の後ろから真忌名に襲い掛かった男が、まるで自分がいないかのように自分を通り抜けて行ったりだとか、真忌名の側にいるというのに、まるで巻き込まれていないのだ。透けている、そんなおかしな表現が頭に浮かんだ。自分はここにいながらにして物質としてなくなっている。邪魔にされて突き飛ばされたり、自分もあの短剣に狙われる危険は充分あるというのに、ゼルファは一切そんな目に遭うことはなかった。そしてそれに彼が気づいた時には、戦いはあっという間に、というか一方的に終わってしまっていた。ゼルファはこの時になって、初めて自分の身に起こったことも理解できずに真忌名の戦い振りに唖然として見惚れていたことに気づいた。

 真忌名は、蝶のように華麗に動いた。

 一度流れれば留まることを知らぬ清流のように、その動きは信じられないほどなめらかで美しく、一瞬たりとも淀みを見せることもなく、止まったり戸惑ったりすることもなかった。素手でも、彼女はなんら男たちに引け目を取らなかった。ス、と差し出したその優雅な腕の動きだけで、短剣や鎌などの無粋な武器は彼女を逸れて空を裂き、白い手が確実に相手の急所を突いて倒した。

 正にあっという間の出来事であった。

 ヴ……ン……

 どこかで太い綱のようなものが唸りをあげて振動するような耳鳴りと共に、ゼルファは我に返った。

「口ほどにもない。なにが用心棒かや」

 呼吸も乱れぬ真忌名の声にハッとし、辺りを見回せば店の中は滅茶苦茶になっていた。 カウンターは壊れ、男たちは全員鼻血を流したり身体の一部を押さえて立てないまま唸り声を上げているか気絶しているかのどちらかで、床板の所々は剥がれ、窓枠は原型を留めぬまま歪み、窓は当然割れている。ゼルファの周囲もまったく同じであった。

「………………」

 少年は信じられないように自分の両手をまじまじと見た。無傷である。

「位相移動は初体験かや。まあそうであろ。じきに慣れる」

 真忌名は言いながら物影に隠れていた店主を見つけ、じろりと睨むと歩み寄り、隠れているつもりの店主の襟首を掴んで持ち上げた。

「ひっ」

「ご挨拶な真似をしてくれたの。お前の始末は後でしてやる」

 真忌名はパッと手を放すと、凄まじい音を立てて床に落ちた店主に向かって、

「わかったか恢臣」

 と言った。

「―――――」

 途端、店主の顔がスッと凍ったように、ゼルファは見えた。真名だ、と彼は瞬間的に思った。しかし真名を奪ったのではない、自分にしたように真名でもってして動きを封じたのだ。もっとも、状況から看てそれ以上の恐怖にこの店主が駆られたのことは言うまでもなかろう。

「さて―――――」

 真忌名はそろそろ集まってきて店の中を遠巻きに見ている野次馬をちらりと見てから、

「司祭を探さねばならぬの。司祭、司祭―――――」


   ―――――


 真忌名の目が、獲物を狙う獣のそれになった。

「ふふ。見つけたぞ」

 呟くと、真忌名は初めから知っているかのようにつかつかと階段を降りていった。

「え、あ、ちょっと……ど、どうしよう」

 真赭を見ると、宙を浮いたまま黙って真忌名を追いかけている。ゼルファはちょっとだけ慌てたが、このままここにいて用心棒たちが目を覚ましても嫌なのでついていくことにした。ここに残れば誰かに追究されるかもしれぬし、警邏の者が早く着いて自分が事情を聞かれるかもしれぬ。とりあえず真忌名についていけば自分に危険はないだろうと彼は判断し、彼は慌てて階段を降りていった。階段は狭く、ひどく暗かった。灯りくらいあればいいのに、それすらもない。真忌名はまるで見えるかのようにすたすたと歩いていたが、後を追うゼルファは暗闇の中けつまずいたり転んだり壁にしたたかに鼻をぶつけたりして難儀した。その内真赭が気づいて、申し訳ありませんと言いながらどこから出したのか松明で先を照らしてくれた。実際はそう大して長い廊下ではなかったはずだが、ゼルファには息が詰まるほど長く感じられた。

 カツ、カツ、カツ…………

 暗闇の中、道を知っているかのように迷いなく歩く真忌名の背中はひどく不気味であった。

 灯かりに照らされてぼんやりと浮き出る真性の闇の中の真忌名、黒髪を流した背は不可侵で、ひどく冷たく見える。彼女の周りに、うっすらと濃い紫の霧のようなものが見えたような気がして、ゼルファは慌てて目をこすった。真赭は少し先の空中に浮遊しながらそれを見て、なるほど真忌名様がお気に召すだけのことはあると珍しく感心していた。この少年は、生まれ持った鋭い感性がある。常人には決してない、望んでも得られぬもの。そしてとうとう真忌名の足音が止まった行き止まりの扉の前、真忌名は立ち止まって一瞬考え、扉を開けた。

 部屋の中は、なんというか異常だった。

 床も天井も、壁も黄色なのだ。そしてその中でなにかが動いた。顔が見えて初めてわかったのだが、その動いた何かとは部屋の色と同色のローブを纏った男で、そのローブが室内の色と同化していた為、なにかが動いたように見えたのだ。

 目がちかちかしてゼルファは思わず目を細め、真忌名は呆れたように男を見た。

「破門されて尚この様か。情けない」

 吐き捨てるように言うと、スッと手を払う。途端、黄色に溢れていた室内は黒へと変じ、真っ黒い空間の中黄色のローブを纏った男だけが浮かび上がった。

「なっ…………」

 男は周囲の変化に明らかに狼狽し、真忌名を睨み脂汗を流して叫んだ。

「なにをする! き、き、貴様何者だ!」

 真忌名は目を細めた。この興奮状態、異様なまでの汗の流し方、まわらない舌の呂律、よく見るとわかる、小刻みな身体の震え。

 麻薬か―――――破門の原因はこれじゃな

「汝かマイエルというのは」

 真忌名は顔色ひとつ変えずに一歩踏み出して言った。マイエルは、小刻みに顔を振りながら何事かぶつぶつぶつぶつ早口で呟いている。口から泡が出始め、見る見るその泡が青くなっていく。

「考えたの、真名を縛るとは……・破門司祭の上他教ゆえに普段なら汝のすることなど鼻にもかけずに通り過ぎるところだが…………今回はそうはいかぬ。アイシャという女の真名を解放してもらおうか」

「なん、なん、なん、なんだと! そ、そそのようなけけけけ権利がおおおお前にいっ」

「宿の者たちと会う時にはなるほど薬がよう効いて理知的だったかもしれんの。今はただの中毒患者じゃ。汝は私には勝てぬ。おとなしゅうアイシャの真名を返しや」

 マイエルは青い泡を吹きながらほとんど聞き取れない怒声をまくし立てた。泡は彼がいきり立って怒鳴るたびに黒い床に飛び散っては鮮やかな色を振りまいている。

「わわ私に勝てる者などおらん! だ大司祭であろうと!」

 パン、という気の抜けた音がしたかと思うと、マイエルが皺だらけの手を胸の前で合わせた。ゼルファはゾッとして、自分が青ざめているのにも気づかずにその光景を茫然と見ていた。マイエルという男、顔を見る限りでは四十代くらいにしか見えないのに、その手は百を越えた老人のような枯れ果てた手をしていたからだ。年齢は手に出る、という言葉が、今初めてどういう意味なのかをわかったような気がした。

「き、貴様の真名も縛ってくれるわぁっ!」

 ダウ!

 怒声と共に、マイエルがこちらに突き出した両手から凄まじい烈風が真忌名目掛けて飛び掛った!

 真赭は咄嗟にゼルファの前に立ち塞がり、当の真忌名はというと、右手の人差し指と中指をスッと前に出し、

 ザウッ……

 涼しい顔で簡単に跳ね除けてしまった。まるで薮蚊を追い払うかのように手を払い、指二本でマイエルの術をいとも簡単に空中に散らしてしまった真忌名は、

「これしきかや。甘ぁ見るな」

 とマイエルを見据えて低く言った。

「な……っ…………きき貴様司祭……!」

「そうとも。同業よの。しかしこうなった以上容赦はせんぞ」

「ややややれるものならやってみろ! 司祭は司祭の名を奪うことはできん! 貴様が近づくその前に真名を縛ってやる!」

「無駄じゃ。汝の術は稚拙すぎて私には効かん」

 ズイ、と真忌名は一歩進み出た。

 その背中の雄大さ―――――ゼルファには大きな山にも、小高い丘にも見えた。

「それに―――――」

 真忌名は凄い笑いを浮かべた。それは目にすることがあれば、牙剥く獣すらも怯む凄まじい笑みであった。マイエルは思わずうっ、と唸り、自らの意志とは裏腹に後退した。

「騎士が<宣告>するのなら何の問題もあるまい」

 マイエルには、真忌名が何を言っているのかまったくわからなかっただろう。それもそのはず、司祭の術を跳ね返すことができるのは司祭のみ、彼の術を跳ね返した時点で真忌名は司祭だということを自ら証明しているようなものだ。

「なななななな」

「宣告する」

 ゴゥ…………

「我ラステラヴュズィ・真忌名は自らの意志を以ってして汝マイエルの命を奪取する。

 宣告レベルはマスターAAA」

「ラステラ………………真忌名!」

 マイエルは恐怖と驚愕で信じられないほど大きく目を見開いた。

「真忌名! エド・ヴァアスの真忌名か!」

「お前は死にたい時には死ねぬ。薬の禁断症状に苦しむだけ苦しみ気絶することはあってもそれで死ぬことはならぬ。自ら命を絶つことも許さぬ。死の時期はお前の周囲の森羅万象が決定することとなるだろう」

 真忌名が一言一言その口から言葉を吐くたび、微かな地響きが彼女を取り巻き、やがて黒い部屋のなかでもわかるほどの変化が見え始めた。

 女の周囲にはびこる、黒い、熱を帯びた霧。ねっとりと女にからみつき、まるで命令を待つ虎か獅子のように、言葉のたびうねうねとくねっては、獲物を見据えるように次第に大きくなっていく。

「死ね」

 ズザアアアアッッッ!

 真忌名の何気ないような軽い一言―――――その一言で発動した黒い霧は、恐ろしい唸りを上げ、凄まじい速さでマイエルに襲い掛かった。

「ぎゃあああああああああああああああああ!」

 ゼルファは思わず耳を塞いだ。これまで、そこそこの修羅場をくぐってきたつもりのゼルファですら、聞いたことのないような身の毛もよだつ、思わず耳をふさぎたくなる恐ろしい悲鳴であった。

「さて」

 と、さっぱりした声が頭上から響いて、ゼルファは思わず顔を上げた。その先にどんな恐ろしいことが待ち構えているかもわからぬのに、彼は不注意にも顔を上げた。

「戻るぞ」

 その言葉とほぼ同時に、ちょうど二人の真上―――――店の入り口かその辺りがどたんどたんという微かな振動と共に騒がしくなっている。

「来たな。グッドタイミングじゃ」

 にやりと不敵な笑みを浮かべ、真忌名は来た時と同じようにすたすたと廊下を歩き始めた。ゼルファはちらりとマイエルの方を振り返り、気絶してしまったその黄色い姿を見ると、まるで逃げるかのように走って真忌名を追いかけていった。


 黒い部屋の中、黄色いローブを纏った男の姿は微動だにしなかった。目が覚めたとき、彼は自らが受けた宣告によって死ぬまで凄まじい苦痛と共に時を過ごすこととなる。



                    2



 <春立楼>に到着したレンツェンとその部下たちは、始め店の前の人だかりを、真忌名がいまだに暴れているがゆえの野次馬だと思った。が、すぐにそれらを蹴散らし、彼らがその目で見たものは想像だにしないものであった。

 血まみれだが、命は辛うじて助かっているならず者の用心棒たち。はがれた床板、折れた柱、扉は原型を留めてはおらず、窓は枠もろとも粉々である。

 レンツェンにとって何が一番恐ろしかったかと言うと、彼の知るこの店の用心棒は、どれも背が高く筋骨逞しく、やろうと思えばその脳天で瓦の数枚を割ることも、素手で柱を倒すこともできる連中だ。頭の血のめぐりはともかくとして、相手を怖がらせ、力づくで物事を強引に進めるということに関しては、多分この街で一番優れている男たちである。

 その野獣のような用心棒の十数名を、ぱっと見では刺したり殴ったりした痕跡も見られずに昏倒させるのは至難の技のはずだ。なんとなれぱこれだけの巨体を倒すのは、刃物を用いないのならかなり強引に事を運ばなければならぬ。この男たちには、それがない。鼻血を出していたり、腕の急所や首の後ろを押さえてうずくまったまま動けないか、気絶している者はいるがどれも死んではいない。これだけの巨体を殺したり必要以上に傷つけたりせずに倒すのには、常軌を逸した技術が必要だ。

「あの女か」

 倒れている用心棒を一人一人確認しながら、レンシェンは自らの恐怖を拭うように低く呟いた。部下が店主らしき男を見つけたが、硬直していてとてもではないが使い物にならない。これも恐らくはあの女のしたことだろうと見当をつけ、レンツェンはひとまず店の者たちは構わず、女たちを捜すように命じた。

 店の中を片付け、滅茶苦茶だった店の中がどうにか見られる程度にはなってきたという頃、どこからともなく涼しい顔をした真忌名が現われ、

「終わったぞ」

 と言った。

「し、司祭がいたのか」

「いた。始末した」

 そっけないほど簡単に答えつつ、真忌名は辺りをしきりに見回している。折れた柱、蝶番から外れた扉。

 何を探しているんだろうと思いながらも、レンツェンは彼女の探すものがとうとうわからず、

「お、そうだ。あれもお前の仕業だろう」

 と言ってカウンターの側を示した。

「うん?」

 真忌名が目を向けるのと同時に、カウンターの影に座り込んでいた店主を、ギルドの男たちが数人がかりで持ち上げてこちらへ運び出している。

「ああこやつか……」

 真忌名は言われるまですっかりさっぱり忘れていたというような顔で答え、腕を組んで店主を見下ろし、嗜虐的な笑みを浮かべてにやにやとしながら言った。

「さてどうしてくれようかのう」

 自らの真名でもってして動きを封じられたことを知っている店主は、硬直したまま恐怖に顔を歪めることもできず、滝のような脂汗をその顔に浮かべている。

「ふっふっふっふっふっふっ。怯えておるの。しかしお前がここに無理矢理に留めていた女たちはさらに恐ろしい思いをしたであろう。本来ならお前がごとき虫けらなぞ相手にするだけ時間の無駄じゃが」

 真忌名の目が、キラリと光った。

「多少感動しておるでの。なにしろ、自分の身も危うい、真名は縛られたままという足抜け女郎が身を挺して助けてくれたゆえ」

 真忌名はもう一歩踏み出して、ほぼ店主を踏みつけんばかりのところまで前進する。店主は、今や真名で以ってして動きを封じられ、それゆえに真忌名の恐ろしさを理解し、凄まじい恐怖で全身が硬直しているのにも関わらず小刻みに震えている。呼吸はひどく荒く、顔から全身から、滝のように流れ出る大量の脂汗は彼を浸しほとんど顔の造型すらわからない。真忌名のその掌の中に、彼の存在のすべてがある。生かすも殺すも、よりももっと踏み込んで、もっとひどいことすら真忌名はできるのだ。

「大サービスじゃ。のう店主、」

 真忌名は屈託のない笑顔で屈みこんで店主の顔を覗き込んだ。至近距離で彼を覗き込んだ途端、真忌名の表情は一変し、真忌名の顔は鋭い瞳と獣の光りをたたえた見るも恐ろしい顔となった。

「年季が明けても身体を売らねばならぬ地獄がわかるか? ん? わかるまい。男というのは買う立場が多いゆえにその辺がわかりにくいようじゃの。店主、お前は幸せ者じゃ。 世界で最初の、娼婦の気持ちのわかる遣り手じゃ」

 パチン、と指を弾いたその瞬間―――――

 店主は生き地獄に落ちた。

「うわああああああああ!」

 ごろごろと転がってのたうちまわる店主を恐ろしげに見やったレンツェンは、暴れる店主をどうすることもできずに持て余している部下たちに離れていろと言った。

「や、やめてくれえええええ!」

「何をやった」

「別に。ちょっとした夢を見せているだけじゃ。前から下から後ろから、手当たり次第に次々に犯される夢をの。遣り手とは本来女のことじゃろうが……まあどのみち女にされているのなら同じじゃろ」

 面白くてたまらないといった風に、とうとうこらえていた笑いを一気に噴き出した真忌名の大きな笑い声は、道に群がる野次馬たちにまで聞こえた。

「えげつなー」

 ゼルファは青くなって転げまわる店主を見やり、思わずそう言っていた。

「はっはっはっはっ。愉快だのう」

 真忌名はそんなゼルファの言葉などお構いなしに笑いつづけている。と、側にいた真赭が何かに気づき、小さく真忌名様、と言った。

「はっはっはっ…………ん?」

 入り口を見やった真忌名は、そこにアイシャが居づらそうに立ち尽くしているのを見た。

「お主か。来や」

 真忌名は真面目な顔になって手招きした。アイシャは店のあまりの様子にどうしていいのかわからず、またこの店そのものが彼女の嫌な思い出ばかりが立ち込める場所とあって、一歩踏み出して店内に入ることができないでいる。真赭がシュル、という衣擦れの音も清かに側へ行き、

「さあ」

 とアイシャの手を取り、彼女はようやく怯えながらも歩き出した。空を舞う真赭に導かれ、真忌名の側へと歩み寄る。

 真忌名はまるで愛しい妃をその胸に迎えた若き王のように手を広げて彼女を迎え入れ、顔を近づけてアイシャをまじまじと見つめた。

「―――――」

 荒れた生活を強いられたせいで、ぼろぼろに毛羽立った肌。乾いてひび割れた唇。疲れと、寝不足が痛々しいほどに現われた、赤い目。やせ細り、艶をなくした若い肢体。

 真忌名はため息をつき、そして言った。

「新しい真名をやろう。お主の真名を縛っている男は、まだ階下で粘っておるゆえ」

 ス、と顎に手をやった真忌名を見て、ゼルファはドキ、とした。赤子に洗礼したのと同じように洗礼するのだとわかったからである。口づけで洗礼を施すという真忌名固有の、独特で完璧な方法はしかし、相手が赤子なのと女性なのとでは、見るものが見ればあまりにも違いすぎる。

「ま、待ってください」

 アイシャは幾分怯んで、思わず後退して真忌名を見上げた。

「……なんじゃ。洗礼が嫌なのかの」

「ち、違うんです。そうじゃなくて…………あの、私の洗礼はいいんです。その代わり、仲間たちの真名を変えてあげてください」

「何?」

 思わず声を張り上げた真忌名は、アイシャが何を言っているのかわからずにその茶色の瞳を見つめている。

「地下に閉じ込められているんです。客をとる部屋で……」

「みな年季が明けておるのか」

「はい。全員…………」

 真忌名はちらりとレンツェンを見やった。長は肩を竦め、

「ここの片付けに気をとられてな。間もなく見つかるだろう」

 と言った。待たされているかなりの間、店の前の人だかりはますます数を増やしていた。 それらの好奇の視線を受けても尚平然として店や用心棒たちの悪口を言う真忌名をゼルファは呆れて見つめ、アイシャは呆然として何が起こるのかを見守っている。しばらくしてギルドの男たちが数名、慌ただしい足音と共にレンツェンの名を呼びながらしきりに来てくださいと言った。

 恐ろしく広いその地下室には、小さな窓が申し訳程度にあるだけで、灯かりらしい灯かりもなかった。女たちは扉が開くと陰鬱な顔をしてだるげに顔を上げるだけで、その瞳には生きる希望などかけらも浮かんでいない。

 ギルドが声を張り上げて店の崩壊を告げ、自分達は自由だと告げられても、彼女たちはしばらくは実感が湧かないようだった。が、ギルドの制止を振り切ってそこへやってきたアイシャが光を背にみんな、自由なんだよ、この方がマイエルの真名を封じて洗礼してくださるんだよと大声で言うと、最初は互いの顔を見合わせていたが、戸口に立った真忌名が呆気に取られて部屋を見回し、上気したアイシャの顔を見てその肩に手をまわし、さらには自分を見上げたアイシャの顎の線に指を這わせたその仕草だけで、女特有の敏感さで彼女たちはわかったようだ。

 わぁっという凄い歓声と共に、女たちは飛び上がり抱き合って自由を祝った。ギルドの人間も怯む、凄まじい喜びようであった。

「なるほどな」

 戸口に寄りかかりそれを見たレンツェンは、これからの大仕事に思いを馳せてうんざりした様子の真忌名に向かった言うともなしに言った。

「この部屋に一日中いてみろ。客と寝るんでもいいから表に出て風に当たり光を浴びたいと思うだろう。店主め、ひどいことをしやがる」

「今ごろはその百分の一ほどの苦痛も分かり始めておろう」

 真忌名はギルドが取り合えずこの環境の悪い部屋から別の大部屋に女たちを移動させているのを見てその部屋へと歩き出し、なぜこんなことになったのかを懸命に考えていた。 女一人に恩を返すために、なぜここまでせねばならぬ。

 ざっと数えて五十人。

 この人数全部に洗礼か……

 真忌名はうんざりとした顔となり、それから広間に着いて、自分をじっと見つめる女たちを見回した。

 アイシャと似たような、露出のきわどい品のない服、艶のない肌、きつい化粧。

 そしてなにより真忌名が許せないものがあった。

「…………お主ら、全員真名を変えてやる」

 ワァアアアッ!

 それは表の野次馬にまで聞こえるほどの歓声であったという。

 静めようとしても最早それもかなわず、真忌名は凄まじい狂喜の声の前でほとんどかき消されている自分の声を、それでも張り上げて精一杯怒鳴った。

「その前にまず全員その眉を描き変えろ! 終わった者から洗礼じゃ。真赭! 玉菊と修美、八重垣と音葉を呼んで手伝わせろ!」

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