第四章 5

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 大して大きな部屋ではない。正方形といってもよい程度の小ぶりの部屋である。金と黒の糸で気が遠くなるような、細かいを通り越して神経質なまでの繊細で細かい刺繍の施されたタペストリーが正面の壁に飾られている。その下は暖炉になっており、あかあかと火が燃えている。冷たく湿っぽい天気のこの日、空は今にも泣き出しそうだ。

 その暖炉の前に、白い衣を纏った人間が全部で九人、円になっている。テーブルもなく、椅子もない、立ったまま車座になって話し合う、これが〝白の教団〟の枢機卿の正式な会議のかたちである。

 今八人の枢機卿は、約一年ぶりに帰ってきた九人目、最後の枢機卿である真忌名を交えて話し合いを行っている。

「ヴァーザフェスト博士が動いた」

 真忌名は無表情のまま、低く不気味に言った。

 八人は眉を吊り上げ、お互いに顔を見合わせ訝しげな表情を隠しきれない。

「あの男は以前から……そうさな、二十年ほど前から目論んでずっと遂行しようとしてきたことがある」

 ポツ、と小粒の雨の最初の一滴が窓に線をつくった。ゆっくりと、微量だが長く続く予感のする雨が、湿った土のにおいを伴って降り出した。

「世界を掌握することだ。私を使ってな」

「なんと……?」

「世界を掌握……」

 部屋の中はしばらくざわついた。が、皆が皆枢機卿である。疑問を、ただ発するのではなく真忌名に聞くことに集中した。

「ヴァーザフェスト博士は…………なんというかその気がなかったとも言えない」

「天才ではあったが同時にとんでもない奇人でもあった。世界を手に入れるという思想に染まったと聞いても驚きはしない」

「しかし真忌名。お主を使ってというのが解せぬ。説明してくれんか」

「…………それは……」

 真忌名が何かを考えながらそれでもどうにか答えようとした時、隣室に続いていた扉がおもむろに開いて声がした。

「それは私から説明しよう」

 法皇であった。

「猊下……」

 真忌名を除く全員が、いっせいにそちらを向いて深々と一礼した。それらの背中を間に、真忌名は法皇に小さくうなづいたのみだ。法皇もそれにうなづき返し、暖炉の前に立った。輪が微かに動き、九人の輪は十人になった。

「猊下、博士は一体何を……?」

 枢機卿の一人が聞いたとき、わずかに真忌名の眉が動いた。が、法皇に全員注目している今、誰もそれに気づかない―――――法皇本人以外は。

「それについては後で答えるとして」

 真忌名は知れず胸を撫で下ろした。そしてそのことに自身、気づいてはいない。

「真忌名よ、博士のことはどうやって知った」

「この間最後に立ち合いを申し込んできた騎士がおかしな噂を耳にしたという。『エド・ヴァアス真忌名の育ての親ヴァーザフェスト博士が間もなく真忌名と共に世界に乗り出す』とな」

「なんと奇怪な……」

「ふむ……」

 法皇はわずかに眉を寄せた。真忌名を横目で見ると、彼女もまた自分を見ていた。揺るぎのない信頼を込めた、澄んだ紫の瞳でこちらをじっと見ている。それは、これから法皇が何を話そうと、どのような決断を下そうと、自分は異論なくそれに従うということを沈黙のまま示す瞳であった。

 その瞳の光の潔さに、法皇は自身がそこまで信頼されていたのかと驚いた。

「……他の者に対する噂なら信じがたいがことあの男に関してならばあながち噂だけとも限るまい。誰かを調べに行かせなければならぬ」

「誰を差し向けますか。騎士の誰かに行かせますか」

 枢機卿の一人が質問した。その言葉に、真忌名はわからないように唇を噛んだ。法皇がこれから言うこととまったく同じことを考えたからだ。

「いや……残念ながらその案は最良とは言えない。博士が司祭でなければそうしていただろう。しかしあれは一時は枢機卿にもなれようというほどの実力者であった。そしてあの男には、真名に対して枢機卿ほどの倫理観が欠けている」

 重苦しい沈黙。

 法皇の言う通りだ、という、あまりにも厳しすぎる現実がそこにいた全員の口を重くした。

「恐らく騎士の誰かが<宣告>する前にあの男はその騎士の真名を縛ってしまうだろう。 あまりにもわかりすぎていて、そしてあまりにも危険だ。わかりきっている危険に、わざわざ騎士たちを晒すわけにはいかない」

「……………………」

 真忌名は沈黙したきり、床を見つめてもうずっと何も言わないでいる。それが育ての親に対する思惑なのか、騎士たちに対する法皇の思わぬ思慮から来る言葉に対してなのか、誰にもわからない。

「してしそれでは一体…………」

 最年長の枢機卿が言いかけて何かに気がついたらしい、ハッとして口を噤んでしまった。 他の七人の枢機卿は最初それが何かわからず、互いに顔を見合わせて怪訝な表情を見せ合うばかり。しかし一人があ、と小さく呟くと、まるでそれが連鎖したかのように、次々に悟った表情に変わっていった。

 騎士が行けない以上、博士の様子を見に行きそしてもし噂が本当ならば止めることができるのは司祭の能力を持った者ということになる。

 〝真名の護りの掟〟によって、司祭は別の司祭の真名をどうこうすることはできないからだ。そしてそれが騎士ならば、真名を縛られてしまう。

「―――――」

 しかし司祭であり騎士でもある真忌名ならば。

 百分の一の可能性で博士に先手を打つことができるかも知れない。

 法皇の重苦しい沈黙、居並ぶ枢機卿たちの息を呑む音。

 外の雨はもはや本降りとなり、小粒の雨は止む気配もない。

「と、全員が仲良く同じ考えに到ったところで」

 真忌名は無表情に言った。

「一言言え。『真忌名、お前が行け』と」

 法皇は顔を上げた。

「ま、言われなくても行くつもりだけどね」

 真忌名は円から一歩引いた。

「真忌名……」

「しかし……そんなことをしたらお主もただではすむまい」

「左様。まあしばらくは司祭か騎士、どちらかの能力が失われよう。知っての通り、それだけですむのでな、私の場合」

 真忌名はゆっくりと歩き出した。退室するつもりなのだ。

「真忌名……」

「後を頼む。説明もな」

 真忌名は扉に向かいながらも、立ち止まって法皇を振り返った。

「―――――」

 その瞳。

 静かな、湖のような平穏な瞳であった。それでいて、自分に全幅の信頼を寄せる光をたたえている。この女は、法皇を心底信頼しているのだ。そしてそれをその光から感じ取って、法皇は言葉を失った。

「真忌名」

晨宗ときむね

 真忌名は法皇を遮った。やにわに真名を呼ばれ、法皇はすぐに返事ができない。

「―――――」

「後を頼んだ」

 それだけを言ってしまうと、真忌名は返事も命令も待たずに部屋から出て行ってしまった。雨のふりしきる音の中、コツコツという足音だけが妙に冷たく響いた。

「猊下……」

「一体……?」

 真忌名と法皇は何か秘密を持っている。二人の会話からして、それは明らかなことであった。そしてなにより、いかなる理由があってもし法皇が真忌名に借りがあったとしても、そして九人の枢機卿の互いの存在でもってして法皇の真名を護りそれによって互いの真名も、その名の深遠に潜む存在の意義も知っている枢機卿たちの前とはいえ、法皇の真名が容易に言葉となって出てきたことが枢機卿たちには衝撃であった。それだけの重いものを、真忌名は託したのだ。

「猊下………………」

「ご説明を」

 雨の降る音だけが、しばらくそこにあった。

 あとは、時々火がパチ、と小さく爆ぜる音だけである。

 長い長い沈黙の後、法皇はようやく言った。

「諸賢にまず聞きたい。

 一年前真忌名が宗教裁判にかけられた理由―――――魔界に赴いた真の理由についてだ」

 八人は一斉に顔を見合わせた。

 追放のそもそもの理由。

 司祭でありながら、魔界に赴いた。それだけならまだしも、最奥部第五層の悪魔全員を配下にして帰ってきた。

 そしてそうした行動の理由を、真忌名は一切明らかにしなかった。ゆえの追放だ。

 由緒ある大聖堂で、盗賊を見るもむごたらしいやり方で惨殺せしめた。ゆえの追放だ。

 枢機卿たちは当事、人の身でなぜ魔界へ行ったのか、行けたのかという話を法皇を交えて散々話し合った。法皇は極力議論に参加しようとはせず、宗教裁判についても、出席も意見を述べることも拒みひたすら傍観の立場をとった。ただ一言、真忌名は人間離れしているから、その能力ゆえ、と言ったのみであった。

 そして枢機卿たちはその言葉で納得してしまっていた。

 良くも悪くも、真忌名の能力は驚異である。

 性格には多分に問題があるが、司祭としても騎士としてもその才能は群を抜いているとしか言いようがない。だからこそ、九人目、最後の枢機卿に法皇が推薦したとき、渋ることはできても声を大にして反対することができなかったのだ。

 違うのか。

 枢機卿たちは考えた。

 人間離れしているから、という説得を鵜呑みにしていた。確かに騎士と司祭の能力を備えていてそれだけでも充分人間離れしているから納得してしまっていたのだ。違うのか。 法皇は枢機卿たちの推察をある程度泳がせておいて、それからおもむろに口を開いた。

「これはここだけのことにしておいてもらいたい」

 ヴ……ン……

 外で風のような唸りが聞こえた。それは法皇自らが言霊によって張った結界であり、法皇が結界を張ったということは、同時に法皇と真名のつながった枢機卿たちの真名によっても幾重の不可侵の結界が張られるということになる。今この場にいない真忌名の真名によってもだ。

 風が強く吹いてザアッ、という音が立ち、すぐに雨粒が強く窓に叩きつけられた。

「まずあれが魔界へ赴いた真の理由を述べなければならぬ」

 しん、と静まりかえったなか、暖炉の焚き火の燃える音だけがゆらゆらと聞こえる。

 法皇はうつむきがちだった視線を上げ、部屋の正面の壁を見据えながらあの日を思い起こすように言った。

「知られていないことだ。歴代の法皇は、新月の夜のたび『試される』」

「―――――」

「―――――」

「………………」

 法皇たちは静かに視線を交し合った。誰もがわからない、という顔をしている。誰か一人でもわかった顔をしている時点でその者が説明する、それが彼らの暗黙の了解だ。

「新月の夜―――――それは善と悪が戦う夜だという。獅子の姿をした善の神と、暗闇の姿をした悪の神が戦い―――――まだ決着はついていないという。それが本当かどうかは別として、法皇の魂がもっとも魅了される夜でもある」

「―――――なんと……」

「それは…………」

「歴代の法皇はそうやって月に一度の夜を戦い、耐え抜いてきた―――――魅了に打ち勝てばそれでよし、しかし万が一にでも魔の魅惑に溺れてしまえば、その魂は地に堕ちる」

「ま―――――」

「まさか―――――」

 法皇はきつく眉を寄せた。

「この晨宗、一生の不覚であった」

「――――――――――」

 


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