第四章 6

 あの日―――――法皇はすっかり忘れていたのだ。

 連日曇り日和が続き、また職務の忙しく心にゆとりのなかった時期だったゆえ、法皇は早く床につく日が多く、窓からはくっきりと晴れた夜空が見えないということもあって忘れてしまっていたのだ。

 しかし、それらのことは言い訳にはならない。法皇たるもの、新月の夜のことを忘れてしまってはならないからだ。暦に印をつけることも周囲の感心をひくゆえ禁じられている、ということも、言い訳にはならない。

 新月の夜のための警戒を怠ったがゆえに、法皇の魂は新月の闇に取り込まれ、魔界へ引き込まれてしまったのだ。

 そしてそれに気づいたのは、真忌名一人であった。

「! ―――――」

 真忌名は不穏な空気と辺りを取り巻く異様な気配に起き出し、咄嗟の千里眼で事情を察した。

「晨宗……」

 歯軋りし、真忌名は魔界へ渡った。どうしようか、と迷う暇はなかった。意識だけを魔界へ寄越すのはあまりにも危険だった。なにしろ新月の夜、すべての事象は魔物に有利に働く。

 真忌名は肉体ごと魔界へ行き、第一層、第二層、第三層…………最奥部の第五層に彼女が到着した時、法皇の魂は今しも深い紫と黒の渦に呑みこまれようとしているところであった。真忌名は舌打ちした。

「待て! 晨宗!」

 ピシィィッ

 法皇の魂がそこに硬直する。

 続いてその渦の向こうから、鋭い誰何の声が轟いた。

「何者! 何人たりとも魔界の第五層に近付くことは許されぬ!」

 それこそが魔物の姿をした真赭であった。

 真忌名の目が見る見る釣り上がった。

「小賢しい……魔物ごときが何を言うか。その男の魂を返してもらおう」

「何を!」

 ダウッ!

 真紅色の炎が真赭の周囲に巻き起こったかと思うと凄まじい速さで真忌名に襲い掛かった。む、と唸った真忌名は一瞬の判断で片手を薙ぎ払った。かまいたちが起こり、顔や全身をあかあかと照らし熱風を放っていた炎が消えた。

「なんと……」

「人の身で、とな。面白い。魔物ごときがどこまで私に対抗できるか見せてもらおうではないか」

 一瞬驚いた顔をしていた真赭は、すぐに不敵な笑みを浮かべた。

「そう簡単に行くと思うな。この男の魂は魅入られた。この男の責任ぞ」

「貸しにしておいてくれ。なかったことにしてもらう」

「生意気な!」

 今度は凄まじい風が巻き起こり、咄嗟に真忌名は両手で身体を庇った。少しでも遅ければ粉々になっていたに違いない。その突風をやり過ごし、目を開けて真忌名は、彼方にいるのが真赭だけではないということに気づいた。渦の周り、自分の周りを、幾重にも取り巻いて第五層の魔物たちが見える。

「人の子。只者ではあるまい」

 口を開いたのは白糸である。

「真赭の炎で死なぬ、この男の魂をやれぬというのなら、我らはお主を殺さねばならぬ」

 真忌名は不敵に笑った。

 先ほどの炎に少し焼かれたおかげで、髪が少し焦げている。それでもその笑みは恐ろしく怖いもの知らずだった。

「面白い」

 真忌名は両手を構えた。右掌に刃を秘めた風の渦が起こり、左掌からは火が生まれる。

「第五層の実力とやらを見せてもらおうか!」

 ――――――――――。



「―――――」

「真忌名は―――――文字通り私の魂を救ってくれたのだ」

「し、しかし……」

 枢機卿の一人が口を開いた。

「それがなにゆえ盗賊どもを惨殺した理由に繋がるのでございましょう」

「奪われたのが『教皇の箱』でなければ盗賊たちを殺す理由はなかったと、あれは言った」

 法皇は淡々として言った。

「どういうことでございまする」

「『教皇の箱』というのは、ただの宝物ではない」

「存じております。歴代の法皇様の守られてきた大変な歴史的遺物」

「それには理由がある。歴代の法皇はあの箱を守らなければならない理由があるのだ。 『教皇の箱』―――――あれは、当代の法皇の生活のすべてを記録する法皇の管理人」

「………………」

「私の魂が魔界に引き込まれる前ならば盗られたところでなにも隠し立てする理由はない。 しかしその後では、事実が露見してしまう。

 開闢以来五千年続いてきた〝白の教団〟、その法皇の魂が油断からとはいえ魔界に引き込まれてしまったということが」

 それがどういうことか。

 枢機卿たちには痛いほどわかった。

 大衆は、細かいことにはこだわらない。事実のみを受け止める。

 法皇の魂は決して魔そのものに魅入られたわけではない。新月の晩、魔界に引き込まれることは法皇として決まっていることなのだ。ただ法皇は、そうされないように警戒しているだけでよい。それを忘れていただけなのだ。よって彼本人の魂が魔に魅入られるほど堕ちたということにはならない。

 しかしそれを理解し理解しようとする大衆がどれだけいることであろう。法皇の魂が魔界に赴き、魔物に呑みこまれそうになったことには違いないのだ。

 教団の頂に君臨する法皇が、魔に魅入られ堕ちた。

 そんなことが知られてしまっては、〝白の教団〟は混乱に陥る。歴史も威厳も、存在すらもなくなったと同然なのだ。そして〝白の教団〟から派生して独自の哲学を切り拓いていった他の色教団にも大きな影響と混乱を及ぼす。取れているはずの統率はバラバラになり、糸が断ち切られすべてが乱れる。

 真忌名はそれを知っていたのだ。

 知っていて、秘密を守るため盗賊たちを殺した。なぜなら、盗む際に中身を確かめる盗人の常で、箱は開けられてしまったに違いないからだ。

 真忌名は法皇と教団を守った。

 そして口を噤んだ―――――魔界に赴いたそもそもの理由、盗賊どもを殺さなくてはならぬ理由を言うわけにはいかなかったからだ。

「―――――なんという…………」

「そんなことが……」

 今枢機卿たちには全てが理解できていた、なぜ法皇が、真忌名を庇ったかを。自分の為にすべての罪と罰を負う羽目になった真忌名を、どうして法皇その人が追及できようか。 今となっては信じられないほどの短期間の期限付き追放の理由もこれでわかろうというものだ。法皇はろくに人並みの生活をしたことのない真忌名に、しばしの休息を与えたのである。

「しかし第五層は魔界の最奥部。人の身には瘴気が濃すぎて渡れぬと聞き及んでおります。 猊下は真忌名は人間離れしている、とおっしゃいましたがしかし魔界に赴いただけならまだしも、第五層の魔物と生身で戦いすべてを支配下に置いて戻ってきたというのはやはり解せませぬ」

「……………………」

 法皇はしばし口を噤んだ。

 表は夜でもないのに真っ暗である。相変わらず小粒の雨が降り続いている。時々、強い風が窓を揺らす。

 法皇は長い間黙っていた。

 言うべきか、言わざるべきか。

 言わずとも、この場はおさまる。

 しかしそれではけじめがつかぬ。真忌名は去り際、すべてを任せると言った。あれは、すべてを話せという意味に違いないのだ。すべてを話し、彼らに誠意を示すのだ、と。今まで黙っていた償いとしての誠意を。

 そう、魔界の件を枢機卿たちに黙っていることそのものも、彼らに対する裏切りであった。法皇はしかし、それを話せば、人の身でありながら魔界へ渡れた理由、ひいては真忌名の出生の秘密も話さなければならず、それは真忌名にとっては良くないことだと、まだ時期ではないと法皇が判断したのだ。知らされないで良いのなら、それが最善の策である、真忌名という哀れな生き物の秘密を。

 しかし真忌名が法皇本人の誠意を示す時期だと言うのなら、どうして彼がそれを否定できようか。

「真忌名、あれは―――――命ないものから生まれた命」

 言葉はごく自然に流れ出た。

 枢機卿たちはその意味がわからなかった。

 ドォ……といううなりのような音が遠くの空の高い場所で聞こえた。雨が降りしきっている。

「ヴァーザフェスト……あれは恐ろしい男だ。真忌名の養父、ということになっている。しかし実際は―――――真忌名を創り出した張本人だ」

「創り出した……?」

「それは一体―――――?」

 法皇は目を閉じた。

 そうすると、いつもあの日のことが思い起こされる、あの天才ながらも恐ろしい狂人とも言うべきヴァーザフェストに、少女であった真忌名の連れてこられた日のことを。

 法皇の卓抜した司祭能力は即座に真忌名の正体を見抜いた。

 驚愕のあまりしばらく真忌名から目を離せず、

「どうだ法皇」

 と彼女の傍らに立つヴァーザフェスト博士に言われ、法皇は初めて我に返った。博士を見る、自分の目が驚愕に慄いていたのは自分でもわかった。まぶたが震えているのもわかった。くちびるも、なにもいえないまま微かに震えている。言葉を探しているのか、それとも。ニヤリと笑った博士は傍らの少女を示した。

「私の娘だ。ラスティ……ラステラヴュズィ・真忌名。私の生涯の傑作だ」

「なんということを……」

「なんとでも言うがよい。娘の身柄はお前に預けよう。どうとでもするがよい」

 博士はそれだけ言うと法皇が止める前に部屋から出た。法皇はあまりのことに衝撃が身体から抜け切らず、そこに立ち尽くしていたのをよく覚えている。

 そして気がついた、

 少女がずっと自分を見つめていることを。

「―――――」

 その、無垢な中にもすべてを悟った、冷たく覚めた目の光。法皇は圧倒された。

 この少女は自分の出自を知っているのだ。

 呪われた存在―――――しかし罪は、この少女にあるのだろうか? あるとすればそれは、彼女の養父と、それをすることを結果的に赦したことになる自分にある。この少女を責めてはならない―――――法皇は咄嗟にそう思った。そして自分をじっと見つめている少女に、ようやく静かに問いかけることができた。

「……もう一度……自分で真名を私に言えるかね」

 


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