第四章 7
同じ頃真忌名もその日のことを思い出していた。
『真忌名。ラステラヴュズィ・真忌名。養父は私をラスティと呼んでいた』
悲痛のためにわずかに寄せられていた法皇の眉がふっと緩んだ。口を開けばそれは、たたのあどけない少女のそれだ。たとえそれが少々大人びた声だとて、真忌名を他の少女たちから区別するものはなにもなかった。法皇はかがんで真忌名と視線を同じくし、
『よく言った。私に真名を言えるとは大したものだ。ついておいで。中を見せてあげよう』
自分の手を引き、まるで祖父と孫娘のように手をつないで二人は法王庁の中を歩いた。 そんな二人を、通り過ぎる人たちは不思議そうに見ていた。
「―――――」
降りしきる雨は当分止みそうにもなく、空を見上げると分厚い灰色の雲が垂れ込めている。真忌名は今、エド・ヴァアスの北に位置にする領内の山の中である。雨は激しくはないが、小粒の雨粒は既に当たりを浸して久しいようだ。冷たい空気がたち込め、山独特の鋭気が漲っている。傘もささぬ真忌名は、当然濡れそぼってもよさそうなものだが、彼女周りには薄い黄緑色の光が円状になって彼女を囲んでおり、真忌名はそのせいか露とも濡れていない。鍛え上げられた肉体は雨にも山の冷気にもなんの反応も示してはいないが、傍らにいるゼルファはそうはいかなかった。雨に濡れないだけでもましだったが、山に入るに到って、その冷気と雨のもたらす冷たい風が彼を苛んだ。ゼルファは両手で自らをかき抱くようにして歩き、がちがちと歯を震わせて真忌名を見た。
先ほどから何かを考えているような、何かを思い出しているような顔をしていたから敢えて言葉をかけようとはしなかったが、もう限界だ。
「寒いよ……」
何か言われるのはわかっていた。
なにやら小難しい顔をして部屋を出て行き、部屋でゼルファが本など読みながら待っているうち、外で雨が降り始めた。冬の雨だ。珍しいなとしばらく外を眺めているうち、真忌名が戻ってきた。そしてこれから行くところがあると言う。彼女はゼルファにここで待っていてもいいぞ、お前が来ても楽しいことはあるまいと言って彼に選択を任せ、ゼルファは一人で法王庁の中にいるよりは、冬の雨が降る中を歩くほうがいいと思って同行することを選んだのだ。法王庁は、真忌名がいるからこそいられるのだ、ゼルファはそう考えている。一人で留守番も悪くはないがなにかあった時に困るのは恐らく自分であろう。
真忌名はおや、とゼルファを見下ろした。
「それは気づかなんだ。これは傘がわりだが冷気は遮断せぬ。真赭」
「かしこまりました」
側に佇んでいた真赭が近寄ってきて、ゼルファに手をかざした。彼の周りにさらに小さなオレンジ色の光が円状になって現われ、ゼルファは足のつま先のほうから徐々にじわじわと身体が暖まってくるのを感じた。彼はは不思議な気持ちでほのかに暖まっていく自分の指先をじっと見た。
「もうじきだ。了見しや」
真忌名はすたすたと歩きながら言った。その足取りから、ゼルファはこの女はここに来るのが初めてではないなと見極めていた。
山といっても、なだらかな丘といった感じのここは樹が深いだけで特にきつい道のりでもない。真忌名とゼルファ、そしていつものように主の脇を正座したまま空中にいて付き添う真赭は言葉少なく進んだ。
真忌名はあの日のことを思い出していた。
法皇は、一目で彼女の正体を見破った。
法皇に会うまで、真忌名は特別法皇に謁見するということに何の感慨もなかった。どうせ司祭の能力があってそれでいて器用に周囲の人気を勝ち取って法皇になれるだけの人間だろうとしか思っていなかった。
しかし実際に会ってみると、法皇は養父に対して訝しげな、ちょっと招かれざる客に対する突然の訪問を咎めるように眉を寄せただけで結局は何も言わず、そして真忌名をちらりと見てそこで衝撃的なまでに硬直した。真忌名から視線を外せないでいる法皇を見て、真忌名はほう、なるほど法皇だけのことはあるなとおかしな感心をしたものだ。そしてさらに法皇は、真忌名も驚くべき包容力と寛大さで彼女を教団に受け入れた。真忌名はエド・ヴァアスに連れてこられる途中、法皇は自分を見てもわかるまい、万が一自分のことを見破ったとしても、汚らわしい存在として拒否されるに違いないと確信していた。
しかし彼女の思惑はすべて外れ、法皇は一目で自分の正体を看破し、自分が何者かをすべて承知の上で騎士として、そして司祭として迎え入れてくれた。
今の自分がいるのはすべて法皇のおかげといっても過言ではない。だからこそ、生身で魔界に行く危険を冒し、問答無用で盗賊をも斬り捨てた。代償は誰の目から見ても大きかった―――――真忌名本人以外の誰の目にも。痛くも痒くもなかった。法皇を守るためにしたことだからだ。
ふと上を見ると、見慣れた屋根の隅がなんとなく見えた。もうすぐだ。
「なあ聞いていい?」
ゼルファが遠慮がちに話しかけてきた。自分の寡黙ぶりに、彼は彼で気を遣っていたと見える。
「なんじゃ」
「魔界ってさあ」
「うむ」
「死んでから行くとこじゃないの」
「…………」
真忌名は立ち止まった。
「なんだよ」
「なるほどなあ……多分それが世間一般の考えかもしれぬ」
「違うの?」
「違う。魔界は死者の住む場所ではないし住むべき場所でもない」
「じゃあ死んだ人はどこ行くの」
「冥界じゃ。冥府とも言う。そこで自分の人生を振り返る旅を続けて一番下の階層で審判を受けるのじゃ。審判は五人いるといわれている。秤には自分の心臓が乗っていて審判の間答える内容によって秤が動くという。片方の秤の比重がもう片方の秤に乗った心臓よりも重ければそれだけ罪が重い。重さによって行く階層が分かれている」
「軽いと?」
「天界に行ける」
さらりと答えた真忌名の返答に、今度はゼルファが立ち止まった。
「どうした」
「………………」
子供を捨てた場合は、どうなるのだろう。
それは人の長い人生の中で、いったいどれだけの比重を占めているのだろうか。子供を捨てただけではなく、人間は知らず知らずのうちに罪を犯していくものだから、それだけではすまないはずだ。
一体どれだけの罪になるというのだ。そしてもしそれが本当のことならば、自分の両親はどこにいるのだろうか。天界にいることはないだろう。
突然降って沸いた恐ろしい疑問に、ゼルファは立ち尽くした。そこで初めて両親を案じる気持ちが自分にあることに、なにより彼は当惑した。
「行くぞえ」
真忌名は歩き出した。
ほう……よい傾向だの
この分ならいつかは話してやってもよいかもしれん
「見や」
真忌名は立ち止まって前方を指し示した。ゼルファが前を見やると、そこは切り立った崖になっていた。目の前を、見るだけでもどうにかなってしまいそうないかにも古い吊り橋が架かっている。その先にあるのは、古びた建物であった。案外大きい。建てられた当初は白かったと見えるが、幾年もの月日を経て、今はくすんだ灰色に変わってしまっている。窓は比較的少なく、二階部分には五つくらいしか見えない。その割に壁の面積が多いのだ。
「我が家だ」
その一言はひどく印象的だった。およそ真忌名には、家庭とか両親とか、そんなものは縁がなさそうに見えるからだ。どうにも、真忌名という女は、突然この姿としてできあがった形でその辺からにょきにょき生えてきたようなイメージしか浮かばない。
「真赭。この橋はまだ渡れるかや」
「なんとか大丈夫かと存じます」
「よかろう」
真忌名はうなづいて橋に歩み寄った。蔦を幾重にも編んで作られた、旧式の橋である。 旅をしていると時々深い山奥やまともな橋を建てられるだけの資金に乏しい村々などに見られるが、今どき珍しいものだ。足場はさすがに木材を使っているが所々腐り落ちていて、両手がしっかりと左右の蔦の手すりを掴まっていないと、腐った足場を踏み抜いて崖下へ落ちてしまいかねない。ゼルファは試しに眼下を見下ろしたが、底も見えないその高さに目がくらみ、背中に冷たい汗が流れて胃が痛んだ。
ぎし、ぎし、という大変居心地悪い音と共に揺れる視界。すたすたといつもとまったく変わらない様子で吊り橋を渡る真忌名の背中を恨めしい思いで見つめながら、ゼルファは何度か真剣に己の短い人生が終わるところを想像した。そしてその度に、おかしな想像をするものではないと自分を戒め、襲いかかるめまいと戦いながら必死に前に進んだ。永遠とも思われる長い橋渡りの後、げっそりして彼がふと気がつくと、そこに真赭の姿はなかった。
(あれ……)
珍しいことだ、と思ってげんなりと膝に手をついてかがむようにしていた姿勢から真忌名を伺うと、彼女は果たして自ら我が家と呼んだ建物をじっと見上げていた。
―――――
ゼルファは再び胸を衝かれた。
それは、エド・ヴァアス本国に入国するときのような、絶対的な氷を秘めた孤独でもない、そして今までの旅の道程で見せてきた、非情な無関心でもなく、また何もかもを知っていてそれでいて自分は一切無関係という距離を保つ口元の笑みでもない、得体の知れない表情であった。悲しみでもなければ憎悪でもなく、何か見たいような見たくないような甘苦い思い出の一ページをこれからめくるような顔だ。
真赭が消えた理由はこれなのかもしれない、ゼルファはちらりと思った。使い魔たちは真忌名の側を片時たりとも離れないが、真忌名が一人になりたいときは黙っていなくなる程度の気遣いもできる。真赭がいなくなるとき、それは真忌名が用事を言いつけるか、或いは真赭本人が黙って姿を消す時かどちらかだ。そしてそうした時の真忌名は、別段それに対して何も気に留めることはない。
「では行くか」
特別なんの感慨もないように言うと、真忌名は進みだした。
正面は両開きの鉄の扉である。ゼルファが大きな取っ手に両手をかけ、思い切りまわそうとしたが、茶色の錆の粉がパラパラと落ちただけでびくともしない。長い間放っておかれたがゆえに錆びついてしまっているのだ。
「面倒な」
真忌名は近寄りながら右手を、まるでうるさい虫でもいるような無造作さでぱっと払った。途端、ゼルファがぎょっとするような意外な大きい音をたてて、扉がゆっくりと開いた。蝶番がぎいぎい言う様は、まるで長の眠りを邪魔されて抗議をしているようにも聞こえた。
内部は埃が高く積もっていて、ちょっと踏み出しただけでもあもあと白い煙がたった。 扉が開いたとはいえ、降り続く雨のせいで光も射さぬ。
真忌名が歩き出し、ゼルファも恐る恐る歩き始めた。中は真っ暗で何も見えない上、動くたび埃がたって視界だけが白くなる。しかもそのおかげで息もできない。
激しく咳き込みながら、ゼルファは
「歌が歌えなくなったらどうすんだ」
とぼやいた。
真忌名は何も言わずに周りを見ていたが、立ち止まり、辺りに霧のように漂う白い埃を見ながら、
「仕方ない」
と言った。
舞い上がった埃はしばらく辺りに漂っていたが、二人が立ち止まっているせいで徐々に納まっていった。ふと暗闇のなかで光を感じてそらちを見れば、どこからか空いた穴から光が漏れ、一本の筋となって床を照らしていた。
「場所が不気味ゆえ艶どころを呼ぶとするか」
そのわずかな光に照らされた真忌名の顔がいたずらっぽく笑っているな、とゼルファが思った途端、真忌名は口を開いていた。
「夜椿」
スゥッ……
ゼルファは文字通り喉から心臓が飛び出るかと思った。実際、彼はそこに立ち尽くした。
立兵庫の髷を大きく左右に張って結い上げた髷に挿された、三枚の鼈甲の櫛。赤、白、桃色の椿の花を象った簪を左右に三本ずつ、さらに真紅の珊瑚の大玉を上から二本挿した、まことに豪華絢爛な髪。髪型のせいではあるまい、その白い顔があまりにも小さく見えるのは。目は、黒目が大きい。そのためか全体的に童顔だ。なだらかな丘陵のようなまるい眉。まだ何も知らない少女のようだが、それでいて少しの油断で簡単に痛い目に遭わせられるだろうことは、そのあどけない瞳の中に光る、妙に醒めた知性の光でよくわかる。 しかしその完璧なまるい眉とあどけない顔に騙されて、一目でそれとわかる者はすくないだろう。
黒地の羽二重に、白玉椿が一面に咲いた内掛け。その白玉椿の花びらの上に光るのは、夜露であろう。中は品の良い濃い灰色地の着物に、真紅の椿が飛び散った血のように点々と咲いている。俎板帯と呼ばれる前結びの帯は淡い淡い黄色。濃緑の水も滴るようなつやのある葉の刺繍が大胆に大きく施されている、これはまぎれもなく椿の葉である。
「お側に」
夜椿と呼ばれた太夫姿の女―――――使い魔は、そのたおやかな手に細い金属の棒を持っていた。その先には鎖からぶら下がった銀の玉があり、精巧な彫刻が施されているその隙間からは、なんともいえない香りと共に煙がじわりじわりと漏れている。
「葛葉」
ゼルファの驚きはそれだけではなかった。
またもや別の使い魔が現われたからである。
楝色と呼ばれる、淡い紫地の打ち掛け。楝は栴檀の花の別名で、この薄紫色は花の色からきているものだという。打ち掛けの背には、日暮れ時であろうか、なだらかな丘が幾重にも連なる向こう側が淡い黄色と橙色に染まっていて、そこここに芒が風になびいている。 あちこちに咲く桔梗、萩、孔雀草、竜胆の花の美しくも寂しげなたたずまい。そしてよくよく注意して見ると、隅のほうに黄金色の狐が一匹そっと佇んでいるのがわかるだろう。 中に着る着物は、あざやかな若草色地に、松緑色の葛の葉、そしてあざやかな紫紅色の葛の花がたったの一輪。帯は同じく俎板帯、明るい群青色にあかあかと夜空を照らす満月、そして滝糸と呼ばれる飾りがまるで雨のようにきらきらと光りながら垂れ下がっている。
髷は夜椿と同じく大きく張った立兵庫、しかし櫛は二枚挿し、前挿し六本、後挿し八本だ。後挿しは髪掻きと耳掻きの間に定紋をつけてあるが、その定紋は唐草模様に仕立てた葛の葉だ。なめらかな艶を放つ、左右に三本ずつ挿された鼈甲の簪。そしてそれらはただの平打ちではなく、よく見ると実に精巧な彫刻の施されたものである。さらにそれを手に取れば、様々な秋の草花のものであるというのがわかるだろう。
全体的に寂しげだが奥が深く味わいのある衣装の拵えの通り、葛葉の容姿も秋の夕暮れそのものであった。
さっと一息に潔くひいたような、一文字の美しい眉。
抜けるような、というよりは、もう透明にも近い肌。この女は本当に血が通っているのかと思うほど、なんの赤みもない白い肌。うつむきがちの瞳が、ますます寂しげである。
葛葉は手に桜材の煙草盆を掲げていた。そこから素晴らしい細工のされている長い銀煙管を取り出すと、葉を詰め火をつけて真忌名に差し出した。
「どうぞ」
その声も、いかにもどうしたの、と覗き込んで聞きたくなるような、何かが起こったのにそれを必死に隠しているような声だ。ゼルファはぞくっとしたのを隠そうとして唾をごくりと飲んだ。却って逆効果だった、と気づいたのはその後だった。
真忌名は差し出された煙管を一息吸うと、煙を吐き出しながら言った。
「不知火」
スウッ……
あざやかな火が舞い降りた、ゼルファはそう錯覚した。
全体が青地の羽二重打ち掛けの裾は、何艘かの漁船である。その漁船も、赤や青の幟、珊瑚や瑠璃の装飾のある舟で、一見して漁夫が魚だけを目当てに乗り回すような舟には見えない。その漁船が、遠巻きにして沖のほうを見ている。その向こうには、赤、緋、橙、黄の様々な色の重ねられた火が、幾つも幾つも浮かんでいる。水面に映る、その火の美しさ。
中の緑地の着物は、一転して夜の山だ。ほとんど黒に近い紫の、大きな大きな闇に映える山。そのあちこちに、まるで夢の中の何かのように、ちらりほらりと火が見える。不知火である。
俎板帯は、あざやかな橙地に緋色、真紅、黄色の三色を交ぜ織った炎の車輪だ。その髪型はいかにも豪華な文金島田の髷を大きく左右に張って結い上げている。炎の紋様の櫛を三本挿しているが、その内の一つは蒔絵、もう一つは鼈甲、もう一つは銀細工となっている。
簪を前に三本後ろに二本、この女はよほど舟が好きなのであろうか、その内の何本かは舟の彫刻がされている。びらびらと呼ばれる、簪の先から鎖でぶら下がる種の簪は、これも一つは宝船、もう一つは燃え盛る炎のそれである。帯から下がる滝糸は、火の粉を思わせる金糸が白い糸に織り込まれており、それがわずかな光を反射して本物の火の粉に見える。
気の強さをよく表わした、きりりとした眉。やや吊り気味の目尻、きゅっと引き締まった唇、よほどの気概の持ち主でなくては、この女に話しかけようとも思うまい。
不知火と呼ばれた女は、右手に大きな提灯を下げていた。パッと辺りが明るくなったのはそのせいだ。提灯も不知火模様に山型である。
不知火は何も言わずにちょっとだけうつむいて目礼とした。煙管を口からはなし、真忌名はそれにうなづき、
「曙立」
と何もない空間に向かって言った。
スッ……
音もなく現われたのは、同じく文金島田の髷を大きく張って結い上げた髷に、簪を前六本後ろ三本に挿した女である。その簪笄は金銀珊瑚と様々で、主に牡丹や芍薬などの花を象ったものが多い。一つだけ大玉珊瑚の簪を挿しているが、この白珊瑚は牡丹の花の満開の形を彫刻したものだ。花びらのふちも、ただの白ではなくわずかな桃色である。
打ち掛けは今にも夜の明ける山の頂から望んだ雲海。一面の白い綿の波の向こうから、徐々に現われようとする太陽、放たれる光だけが見える。黄金と黄色と橙、紫と紅と淡い淡い緑、それらが目では識別できないほどの細かさで交ざりあい一体となって明けの空を現わしている。
中に着ている着物は一転して夜の海のようだ。裾は濃い紫地だが、上に行くにしたがって徐々に淡い紫となり、さらに淡い黄色になり、彼方の水平線からちらりと顔を出した太陽が曙を告げている。空を渡る美しい鳥の群れ、太陽に照らされて映る美しい水底の風景。 魚が泳ぎ、珊瑚が揺れている。ゆらゆらとそよぐ海草は形も麗しく、きらりきらりと光るは縫い付けられた真珠の玉か。
俎板帯は橙色地に金銀錦で飾り立てた雲が連なった模様。日の光はどこにも見えないが、帯がきらきらと光る様で充分だろう。滝糸はついていないが、ついていないほうが却って輝きが強調されるというもの。
曙立は口元に優美な笑みを湛えていた。その光がにじむような、あたたかい笑み。眉も、まるでのぼろうとしている太陽の弧のようにまるく、角がない。他と比べるとやや太めだが、それもこの女の柔和さを物語っているようで、特別目立つわけでもない。終始笑みを絶やさない瞳からは、作り物ではない本物の癒しが感じられる。が、少しでもこちらがおかしな気を起こそうものなら、その笑みが血を含んだ凄惨なものになることを知っているのは、今のところ人の身では真忌名くらいだろう。
曙立は左の手に提灯をぶら下げており、こちらは山から日がのぼる形になっている。
曙立のにっこりと笑いかける挨拶にうなづき、真忌名は煙管を吹かしながら言った。
「薄墨」
スゥッ……
そしてゼルファは―――――女、或いは女という姿をしているものを見て戦慄し鳥肌をたてる、という体験を、その生涯で初めて、経験することになる。幸か不幸か、彼がこういった経験をするのは後にも先にもこの一度きりのみだ。
現われた女は、髪型こそ前述の二人と同じく、左右に大きく張って結った文金島田髷だが、前後合わせて十六本の簪櫛笄を挿しているのには、ゼルファも言葉を失った。その飴色の笄のつやの美しさ、簪の数々の、細かで流離な細工。そしてその、枝葉のような簪の派手派手しさにも負けずにそこにしれっとしてあるのが薄墨の小さな顔だ。白い肌は、葛葉の肌が水晶のそれだとしたら、薄墨の肌は磨きぬいた極上の白玉というべきだろう。透けそうでいて、ぎりぎりのところで透けない白さ、そんな表現しか浮かばない。その切れ長の瞳の、吸い込まれそうな黒い瞳。どこか人を小馬鹿にしたような、醒めた瞳。笑いたくなければ、たとえ白刃を喉に突きつけられても万金を積まれてもにこりどころか一瞥もくれようとはしないだろう。高慢だが、同時に高い知性がそれを和らげているようにも見える。なにもかも知っていながら、知らないふりをしている小憎らしさが、低めに描かれた眉の山からも窺える。口元の小さなほくろが、彼女の匂うような妖艶さと美しさをますます強調しているようだ。
打ち掛けは、一見して見るとふつうの平原である。なんだただの緑の草原か、とゼルファはちらりと見て言葉を失った。
背面に施された、金糸銀糸を基調にした色とりどりの刺繍。平原もただの平原ではない。 冬の立ち枯れの草原。そのはるか彼方から、朝日がもれている。
手前に見える草は枯れ色なのに、向こうの方の草は朝日を浴びてつやつやと濃い緑色なのだ。ただの朝日ではない、癒しの朝日、恵みの朝日だ。そしてその草の繊維の細かいところにも、一本一本刺繍がされている。草も、ただ緑一色ではない、濃緑、松緑、鶸色、鶸萌黄、若草色、萌黄、萌葱、裏葉、柳葉、青竹、若竹、老竹、千歳緑、山藍摺、木賊、海松、鶯、青白橡、山鳩色、麹塵、緑青、白緑、青磁と、決して一色ではない。また朝日の色も然りで、太陽に近ければ近い場所は真紅、牡丹色、躑躅色、臙脂色、蘇芳、赤蘇芳、紅緋、猩々緋、朱、銀朱、黄丹と濃いめの赤や橙の糸が使われており、空の上のほうになるにつれて、粗染、一斤染、撫子、紅梅、鴇色、珊瑚色、曙色、宍色、赤白橡、柑子色などの淡い色や、刈安、黄蘗、欝金、藤黄、支子、山吹などの黄色系になっている。そして手前の方、まだ明けきっていない、夜の気配の残る部分には、滅紫、濃色、菫、桔梗、紺青、菖蒲、紫苑、楝、藤紫、紅藤、藤と濃い色から徐々に淡くなっていき、群青、白群、瑠璃、金春、浅葱、瓶覗となっていく様は見事としか言いようがない。こんな刺繍のみの打ち掛けを羽織ってさぞかし重たいことだろうなと、ゼルファは無粋なことを思った。
中の着物は、これは一転して夕暮れである。
鳥が線になって山に帰ろうとしているのが見える。山の向こうは、濃い橙と赤で燃え立つようだ。そしてその手前から、その炎を消すかのように静かにやってきている夕闇の薄い青と紫の色の涼しさ。迫る夕闇、去る陽を、これもまた見事な刺繍で表わしている。そしてゼルファは、その前身頃に、書くともなし書いたのであろう和歌の上の句を見つけ、なにげなく足元を見て、やはりそこに下の句を見つけた。
薄墨にかく玉章のここちして 雁なきわたる夕闇の空
俎板帯の、優雅な海の情景。雲もない、波もない、凪いだ海。しかしこれも、決して一色ではない糸の色目が、平凡であるはずの情景を見事に美しく描いているのだ。滝糸も、銀色に輝いてまるで海の波のしぶきのようである。
薄墨は、後の二人よりは少し大きめの提灯を持っていた。そこにはただ一枚、桜の花びらが風に煽られて落ちていく様が描かれていて、他にはなにも描かれていない。そういえば簪笄、櫛の模様もすべて桜の模様や彫刻であった。
薄墨は何の表情も浮かべていないはずだが、どこか醒めたような、人を小馬鹿にしたような目をしている。
真忌名はふっ、と煙管の中の灰を吹き、煙草盆を優雅に差し出した葛葉の顔も見ずそこにカン、と雁首を打ちつけた。葛葉が片手で煙草を詰め、爪に火をス、と点して煙草に火を点けた。
真忌名はそれをまたゆっくりと吸いながら、
「花魁五人衆。いつ見ても艶やかだの。なによりじゃ」
と言った。
五人の使い魔は同時にす、と会釈したが、真赭や是親といった他の使い魔たちとは違って手をつくというわけでもなく、頭を深々と下げるわけでもない。真忌名も、またそれに対して何を言うわけでもない。
「さて…………」
三人の持つ提灯に照らされ、うっすらと様相を見せる周囲を見回し、真忌名は言った。
「養父の日記がどこかにあるはずだ。恐らくは研究室であろう。案内いたせ」
「ご案内申し上げます」
薄墨が初めて口を開いた。深みのある、華やかであでやかな声である。
薄墨が先陣を切り、その両脇を曙立と不知火が少し間をあけて歩いた。そしてその後ろに、それぞれ葛葉と夜椿が続いている。ハの字になって歩く五人の、その中に入り、ゼルファと真忌名は歩いた。
もわもわとわきたつ埃も、薄墨が歩いた後はおとなしかった。まるで意思があるかのように、あるはずの埃はあとかたもなかった。
真忌名は悠々と煙管を吹かしながら、辺りを見回すこともなく歩いている。
家に帰ってきて特別感慨があるわけでもないようなしれっとした表情である。
明るすぎないほのかなあたたかい光に照らされ、屋内の七人の周囲は幻惑的な雰囲気に包まれた。提灯を持って主を先導する花魁三人、そしてその後ろにいて、かぐわしい香の煙と匂いを振りまく花魁、主の脇にいて煙草盆を持つ花魁。
彼女たちのそれぞれの趣向をこらした装いと美しさ。
ゼルファは、これは夢だろうか、夢ならもう少し、この情景を頭に刻み終わってから醒めてほしいと何度も願った。
コォロ……コォロ……
低い鈴の音が聞こえる。夜椿の持つ香炉の中に、小さな鈴が仕込まれているせいだ。
その音が、さやさや、さやさやと微かな衣擦れの音に混じり、闇の中に溶けて消える。
ゼルファは周囲を見回した。
広い家だ。いや、屋敷といったほうがいいかもしれない。部屋数は極端に少なく、部屋があっても扉がないものがほとんどだ。そして廊下からちらりとそれらの部屋を見ると、大抵は膨大な書物であったり、紙の山であったりした。建物は全体が吹き抜けのようになっており、中央が広間となっていた。それを取り巻くようにして廊下が連なっているのだ。 その廊下の角を何度か曲がり、階段を幾度か上り下りして、花魁一行はとうとう大きな大きな両開きの扉の前に着いた。スル、と衣擦れの音もたおやかに、曙立と不知火が扉を開け、薄墨が中に入った。それに続いて扉を開けた二人が入り、真忌名とゼルファが入り、夜椿と葛葉が続く。
「………………」
真忌名は大した感慨もないように室内を見回した。
ゼルファはといえば、部屋、というにはあまりにも様子の変わった内部の様子に、呆気に取られて立ち尽くしていた。
奇妙な部屋である。
まず、天井がとても高い。そして恐ろしく部屋が広い。五十畳はあるな、とゼルファが何気なく上を見ると、鉄の手すりに囲まれた小さな通路があり、中になんだか薬屋で見かけるような奇妙なガラスの瓶の入っている棚がいくつか見られた。ちらりと部屋の隅を見ると、申し訳程度の階段がついている。
窓は大きい。壁の高さがそのまま窓になっているといってもいい。そこからの眺めは、ちょうどゼルファが胃に穴が開くような思いをして渡ってきた吊り橋が臨める。
そしてこの部屋を奇妙たらしめているのはなんといっても、入って左側に見られる大きな大きなガラスの円筒状のものであろう。それは全部で三つあった。円筒状のそれは、全体に幅も太く、その高さも長身の真忌名よりもさらに二倍近く高い。根元に当たる部分は、黒い台座のようなものがあってその上に固定されている。大きくて太い試験管といった具合だ。向かって右側の試験管だけ、中に液体でも入っていようものなら部屋中が水浸しになるであろう程度にガラスが割れている。何かあったのかな、ゼルファは真忌名をちらりと見た。
三体の試験管の前には大きな木のテーブルがあり、その上には鉛筆が二本転がっているほかは、実験室にでもあるような、こちらは小さな試験管が木製の試験管立てに収まっている。ゼルファがおや、と思ったのは、街中で時々楽隊が楽譜を見ながら演奏する時のような、楽譜立てのようなものが側にあったことだ。
「日記があるはずだが……机かな」
真忌名は呟いて部屋の隅の階段を上った。カンカンカンカン、と乾いた音がする。それにつられたように、表でまた雨が激しく降り始めた。カッ、と遠い空のどこかで雷が鳴ったような気がした。
ゼルファが見上げて見守る中、真忌名は通路を半周して立ち止まり、屈み込んで何かを探していたかと思うと、引き出しを開けるような音が何度かして、真忌名が何かを取り出し見ているのがわかった。その間、ゼルファの周囲にいる花魁五人は、互いに言葉を交わすわけでもなく、視線を交わすわけでもなく、ただそこにじっと佇んでいるのみだ。
「あったぞ」
真忌名がいつものような無表情な声で言い、また通路を歩いて階段を下りてきた。ザッ、という音がして窓を見ると、降りしきる雨が窓をひっきりなしに伝っている。嵐が来るな、とゼルファは思った。
真忌名は一冊の革張りの手帳を持っていた。手帳、と言っても、一抱えほどもある大きな大きなものだ。日記である。
真忌名はテーブルにそれをドサリ、と置くと、パチンと指を鳴らして側の燭台に火を点した。葛葉がやってきて、ス、と椅子を差し出した。それをまるで知っていたかのように、振り向きもせず座ると、真忌名は日記を取り出してページをめくり始めた。パラリ、パラリと無造作に紙を繰る音が響く。
ある一点に目を留めて、手をも止めた真忌名はそこで日記を読み始めたようだ。その瞳からは、なにも読み取れない。驚きや、発見すらも。
案外短い時間でそれを読んだ真忌名は、パタン、と日記を閉じ、
「わかった」
と言った。
そして立ち上がろうとするのに、ゼルファが慌てて言った。なぜこんなにも慌てたのか―――――後になってもわからないほどこの時彼は慌てた。
「ちょ、ちょっと待って」
ゼルファは両手を突き出して歩き出そうとする真忌名をとめた。
自分だけが不当に置いていかれたような、おかしな孤独感があった。真忌名は、自分をここまで連れてきておきながら、なにも言ってはくれない。言いたくないのか、言うつもりがないのか、ならばこそ連れてこなければ、見せなければいいのに、ここまでされて何の説明もないのは生殺しに近い。ゼルファは多少腹立たしい思いで言った。
「一体なにがあったんだよ…………説明してくれたっていいじゃんか」
真忌名はゼルファをじっと見た。
自分を怯まずに見返す瞳。出会った当初は、こんな風ではなかった。見れば、なんだよ、と物怖じする瞳であった。成長したのだ。
「言いたくないならそれでもいいけど…………なら最初っからこんなとこ連れてくんなよ。ずるいよ」
「―――――」
真忌名は一旦立ち上がったものの、そこにどっかと座りなおし、なるほどな、と小さく呟いた。
「お主の言うことはもっともじゃ。説明してやろう」
真忌名はちらりと側の五人衆を見ると、
「下がってよい」
と言った。五人はてんでに会釈したかと思うと、その瞬間にスッ、と消えてしまった。
香の匂いだけが残り、室内は燭台の炎のみに照らされることとなった。
ザッ……
強い風が何かの予兆のように吹く。
「座るか」
真忌名が珍しく椅子を勧めてきた。普段彼女はそういった気遣いを一切しない。ゼルファは無言で椅子に座り、どきまぎして真忌名の第一声を待った。
真忌名は顎の下で両手を組んでそこに顔を乗せた。何かを思案しているような、思い出すような顔だ。
「私は、ここで生まれた」
ザッ……
―――――カッ
すぐ近くで雷が光る。
「―――――いや違うな………………生まれたのではない、創られたのだ」
「創られた………………」
訳がわからず、ゼルファは聞いたままを繰り返した。
真忌名は透明な眼差しで部屋の中を見回した。ゆっくりと、それはまるでここで暮らしていた日々を懐かしむかのように。そしてその視線が部屋の中央の巨大な試験管に注がれたとき、真忌名の動きは止まった。
「養父…………ヴァーザフェスト博士はな。司祭とは限られた命の範囲でしか命を授けられないものだと固く信じていた」
自身も司祭でありながら、彼は人間に与えられた限られた可能性を厭った。
神というものの創造物である女の胎内から生まれる命は、所詮は神の掌の範囲内の行為しかできない。
司祭とは、単に神の代理として人々にその真名の秘密を授けているだけの存在なのだ。 司祭司祭と人は崇める。しかし司祭は神ではないのだ。神に委ねられた特殊能力を、惰性で人々に分けているだけに過ぎない。
彼はそう考えた。
司祭が神の代理人でありながら神の創造物であるというのなら、所詮司祭は神に踊らされている玩具だ。
彼はそう考えた。
そして彼は教団を飛び出した。神に踊らされつつもすまし顔で人民に命を与えることに我慢ができなかったのである。
そして長年温めてきた計画に没頭した―――――人間が胎内から生まれてくる以上神を越えられないというのなら、自分が胎内から生まれてこない命を創ればよいと考えたのだ。 彼はあらゆる場所あらゆる女性の黄体を盗み出すことから始めた。そしてそれらをつぶさに顕微鏡で研究し続けた。
「まあ、どうやったかは過去を見に行けば簡単にわかることだが―――――その気にはなれなんだ」
真忌名は口元に薄い笑いを浮かべて言った。知ってしまったが最後、自分も呪われた生命誕生の秘密を知ることになる。自分がそれを知るのは得策ではない、いつ誰になにをされるかわからず、自分の知っている情報をなんらかの方法で盗み見されるかもしれない危険にいつも晒されている真忌名には、そうしないのが一番であった。
真忌名は足を組みながら、その乗せた方の足をブラブラさせて部屋の中央を示した。
「ほれ、その中央―――――その試験管の中だ、私が生まれたのは」
ゼルファは振り返った。
大きな大きな、ガラスのカプセル。
いまだに、よくわからない。真忌名が何を言っているのか、真忌名が何なのか。
「何度も何度も失敗を繰り返して、養父はとうとう私を生み出すことに成功した。軽く何万回の失敗の後だ。司祭能力と騎士能力、千里眼の能力を持ち合わせる私に、養父は夢中になった」
人工羊水の中から見える、部屋の中と窓からの風景、そして正面でいつも実験しているヴァーザフェスト。それが六歳までの真忌名の世界のすべてであった。彼はカプセルの正面に譜台のようなものを置き、分厚い本を置いて真忌名に読ませた。それらの本によって、真忌名は外の世界のことを学んだ。
そして真忌名は、その学んだことから、自分が神の創造物ではないということを知った。 感慨は、なにもなかったことを覚えている。特別な劣等感も、ない。こうして生み出されたのは自分のせいではないからということが、真忌名にはわかっていた。神の創造物ではない彼女は、三歳ですでにそこまで思考できるようになっていたのだから、狂人といえど博士の能力は絶大なものといっていいだろう。
六歳になったとき、養父はガラス越しに言った、
今からお前は外に出る。
一年間私が教育した後、お前は〝白の教団〟に行くのだ。史上初めての司祭・騎士両方の能力を持つ者として。
人工羊水を抜き、カプセルをハンドルで持ち上げ、博士は言った。
「さあ娘よ―――――歩くがいい。お前の一歩は、世界の新しい一歩になるのだ」
「―――――」
両の手を合わせながら、真忌名は天井を見上げている。しかし見ているのは天井なのか、それともあの日の自分なのか。
まだ覚えている―――――人工羊水が抜かれた途端感じたあの肌寒さ。鳥肌がたつ、という表現は本の中でしか知らなかった、その鳥肌を自分で感じた瞬間。ゆらゆらとたゆたっていた世界は、実は水を通していたからだと悟った瞬間。目の前の痩せた男が、自分を創り出した張本人という、複雑な思考。そしてその時には、もう真忌名の騎士としての能力は完成されていた。
「……………………」
瞬きを覚える前に、人の殺し方を覚えた。
「さて……」
真忌名は立ち上がった。ゼルファはぎくりとして彼女を見上げる。
「こうしてはいられん。行くところがある」
「…………博士のところ?」
ゼルファは自分の声がかすれているのがわかった。まだよくわからない事実に、彼はめまいを覚えている。真忌名は変なところだけ察しのいい彼ににやりと笑いかけた。
「そうだ。あの男はとんでもない心得違いをしている。止めなければ」
そして真忌名はポカンと口を開けて自分を見上げている彼に向かって言った。
「来るか」
ゼルファは硬直した―――――真忌名が来るかどうかを真面目に聞いてきたのは初めてのことである。
「う……うん」
わからないままゼルファは答えていた。
このままこの旅を終わらせるわけにはいかない、そう思ってした返事だった。
そして屋敷を出て両者無言のまま森を歩く中、ゼルファは今までの旅を振り返っていちいちを納得していた。
『はずれだ』
『わたしは人間ではない』
そう、〝紫の教団〟が人間を対象に薬を調合したとして―――――それはあくまで人間の胎内から生まれた神の創造物という範疇での話だ。人間とまったく同じ身体の造り、内臓を持っているとしても、真忌名は女という生き物から生まれたものではない。彼女は限りなく人間に近い、人間ではない生き物なのだ。
そして旅の始め、彼女を生贄にしようとした男はこう言った、
『卑小なる人の子』
真忌名は人の子ではない。だから邪神は、捧げられた祭壇のどこにも人の子がいないことに腹を立てたのだ。
歩く道々、真忌名はつぶさなことをゼルファに話してくれた。魔界に行ったそもそもの理由。今は使い魔となった魔物たちとの戦い。
「本当はお主が他言しないように真名と真名で縛っても良いが…………まあその心配もあるまい」
法皇の秘密を知って真っ青になったゼルファに、真忌名は薄笑いを浮かべながら言った。 ゼルファは膝がかくかくと震えているのを覚えた。
この女は、法皇のために魔界へ行き、今聞いたような凄絶な戦いを魔物たちと繰り返したのか。数万の魔物たちと。真赭、是親、修美、瓊江、響子、白糸、あの花魁姿の魔物たちとも。
「法皇はな。私が何かを知っていてそれでいて尚、私を受け入れたのだ。なまなかの男にできることではない。あれは心根が優しいだけでなく、肝の据わった男だ。すべてが万が一露見すれば、あれは背徳者として断罪されるだけではすまぬ。〝白の教団〟の権威も地に墜ちるだろう。それはすなわち、周囲に睨みを利かしている口うるさいのがいなくなるということだ。そうするとな、自分たちが頂点に立とうとし他教団間の抗争が激しくなる。 人民の面倒を見ることはおろそかになり、教団の意味がなくなるだろう。色教団だけではない、他の宗教も台頭しようとするだろう。世界最古の教団である〝白の教団〟はそれを牽制する役目も担っているのだ」
真忌名はつまらなさそうに森の木々を見上げて言った。傘もなく、真赭も側にはいないので、彼女の黒い髪はしっとり濡れている。
「これからどうするの」
雨に濡れただけではなく、途轍もない寒さを感じてゼルファは己を両腕でかき抱きながら聞いた。
「博士……ってお父さんなんだろう」
「誤解するな。私はあの男の細胞から生まれたわけではない。あの男が私を創り育てたのだ。父ではない養父だ。大きな違いであろう」
しれっと言う真忌名に、ゼルファは寒気を覚えた。その横顔を見ていると、この女は間違いなくその養父を殺そうとしているのがわかるのだ。それだけの濃い付き合いを、彼はこの恐るべき女と続けてきたのだ。ゼルファは養父を殺すことを想像してみた。無論彼には養父はいない。彼は孤児院で育ったのだ。しかし彼を育ててくれた人々はいる。他人とはいえ、慈愛と厳しさでもって彼をあるところまで育ててくれた。彼がその生い立ちの割にまっすぐなのは、その生活が基盤となっているからだと、彼は固く信じている。その、彼を育ててくれた人々を殺す、ということを、彼は想像だけでもしようとした。したが、どうしてもできなかった。例え彼らが心得違いをして、世界をどうにかとようとしているとか、悪いこと―――ゼルファの意識の中での悪事などたかだか知れているが――――をしようとしているとしても、それを止めるために殺すというのは短絡的すぎる。
その心を読んだかのように、真忌名は歩む足を止めずに言った。
「あの男だけは殺さねばならぬ。あれは心得違いが服を着て歩いている。司祭としては優秀な男であった。優秀すぎたのであろう。そして法皇は、その生来の優しさゆえにあの男を手にかけることができなかった。しかしそれで法皇を責めることはできぬ。あれは私のことを考えてわざわざそうしなかったのだ。なんとなれば、あれだけの優秀な司祭を殺すのには名目がいる。名目はなんじゃ。私を創ったこと、そしてその向こうにある目的の為ゆえじゃ。そしてそれを言えば今度は私が弾劾される。法皇はそれを恐れたのだ」
自分が弾劾されることではなくな、と真忌名は取ってつけたように言った。真忌名が全幅の信頼を寄せる法皇とは、一体どれだけの人物であろう。ゼルファはそんなことを考えながら雨ですべる山道に足を取られながら歩き続けた。
遠くで雷が鳴り、長く続くであろう雨の気配を思わせた。
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