第四章 8

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 ゼルファの予想では真忌名はこのまま博士のいるところへ行くと思っていた。ところが彼女は一旦エド・ヴァアスへ帰国し、枢機卿たちと再び会談、そして法皇と面会を済ませて後部屋に戻ってきた。その間ゼルファは、枢機卿は九人で満席、なぜそんな中途半端な数字なんだろうねと真赭に何気なく言ったところ、法皇は正式名称を最高枢機卿といい、十人目の枢機卿のことをさして法皇というのだという話を聞いていた。

 真忌名が戻ってきたとき、二人はソファで双六をしていて、ゼルファは十戦全敗を喫しようとしているところであった。空中で真赭は丁寧に手をつき、それに気付いてゼルファは振り向いた。

「ようお帰り。彼女強いねえ」

「………………」

 真忌名はちょっと呆れたようにそこに立ち尽くして、

「魔物を相手に双六するお主も変わっておるわ」

 と言った。真赭は彼女の側へふわりと空中で近付くと、よい香りのする蒸しタオルを出し、さらに真忌名がそれで手を拭っている間に緑茶を取り出して絶妙のタイミングで差し出した。ゼルファはソファの背もたれに寄りかかって、真忌名が緑茶を立ったまま飲んでいる様を見つめていた。

 怯まなかったと言えば、それは嘘になる。

 しかしゼルファにとって真忌名の出生の秘密とは、あまりにも難しすぎて正直言ってピンと来ないというのも事実だ。確かに、高次元の話で言えば彼女の存在というのは忌まわしいものなのかもしれない。しかし真に忌まわしいのは、実際のところ創られた立場にある彼女ではなく彼女を創った者とそれを許した環境ではなかろうか。生まれたのは彼女の意志にもとづくものではなく、ならば彼女を責めてどうしようというのだろう。

 ゼルファがこの一年近く行動を共にしてきた真忌名という女は傍若無人で態度がでかく、怖いもの知らずで口が悪く、食欲だけで物事の左右を決めるとんでもない女だが、だからといって無神経で気が利かない、人の心にずかずかと土足で入り込むような女かといったら違う。傍目から見ればどうでもいい小さなことにも必ず義理を感じ、筋を通して物事を進めようとする。実はこの女は見かけと言動ほどには無礼ではないと感じた最初の出来事は、一体何であったろうか。ゼルファは、もう少し真忌名について行こうと思っている。お前はもういい、必要ない来るなと言われるまで側にいて、事の動向を見守るつもりだ。それを知ってか知らずか、真忌名は彼に何も聞かない。

「何か決まったのかい」

 ゼルファはタイミングを見計らって尋ねた。

「養父の居場所がだいたい掴めた。エド・ヴァアスの機動力はこういう時役に立つ」

「この前の騎士が教えてくれたんじゃなかったのかい」

「あの騎士は単に噂を耳にしただけだ。騎士では、司祭の居所を調べることは不可能だ。 騎士が持つ特殊能力の範疇は命であってその命を縛る真名ではないのだ」

 互いの真名を縛りあって蜘蛛の巣状に張り巡らし、互いの真名に影響し合う司祭たちは、こうして法皇を守っている。だからこそ、エド・ヴァアスの司祭は放逐されたりヴァーザフェスト博士のように失踪しても、その本人が法皇に何かするということはない。できないのだ。そうすれば張り巡らされた蜘蛛の巣状になって連ねられている自分の真名に引っかかるからである。誰が考えたかは知らんが性格が悪いわえ、と真忌名はしれっと言うと、ゼルファの前にどっかと座った。

「勝負の時じゃ」

 ゼルファはごくりと唾を飲み込んだ。

 何かを予兆するように、遠くでまた雷が光った。

 夏が来ようとしている。


 さく、さく、さく、さく。雨の中砂利を踏む音を聞きながら、真忌名は、最後に養父を見た日の天気も雨であったと、そんなことを思い出していた。類稀なる能力を持つ騎士として司祭として、そして魔術師としてエド・ヴァアスにやってきた真忌名、その真忌名を連れてきて法皇に引き合わせたのは他ならぬ養父・ヴァーザフェスト博士であった。あの日も雨で、真忌名は養父の膝の裏を見つめながら、さく、さく、と音をたてる砂利の音を聞いていたのだ。

 雨が降りしきっている。傘もささず、真赭も連れず、真忌名は今一人である。一人で、激しく降りしきる雨の中を歩いている。雨は激しいはずだが、霧のように細かく、粒を見ることすらかなわない。そのくせ、手を伸ばせば乾いたところなど何もないかのような激しい霧雨なのだ。

「来たな真忌名。我が娘よ」

 人影は突如として現われた、霧雨の中から、まるで隠れていたかのように突然現われた。 さく、真忌名の砂利を踏む足が止まった。

「久しぶりだな博士」

 真忌名は口元に笑みを浮かべて言った。霧雨の薄闇の中で、雨に濡れたその黒髪は鴉、その色は黒き濡れ羽色、その肩にかかる形は羽根。

「引退を楽しんだようだな」

「おかげさまでな。短くはあったが満悦だ」

「そこまで法皇に義理立てをせずともよいのだ、娘よ」

「……………………」

 真忌名は押し黙った。薄明かりの中で、真忌名は眼を細めた。

 こけた顎の線、細く、狡猾そうだが非常な知識を秘めた瞳。しかしさすがによく眼を凝らすと、変わっていないな、と言うことはできない。細かい皺が見えるし、膚も前に見た時よりもずっとたるんでいる。しかしこの男こそが、まぎれもなく真忌名を養育し、そしてまったくの無の中から彼女を作り出した天才中の天才でありまた希代の狂人、真忌名の養父であり同時に創り主、類稀なる能力を持つ司祭でもあるのだ。彼を取り巻く気配は、真忌名に対して一定の距離を保ち、その口ぶりがどれだけ親しみに満ちていようと、真忌名がおかしな動きをすればたちちどころにその真名を縛る準備はできているようでもあった。養父であり創り主であればこそ、彼は真忌名の真名の深淵にある存在の意義を知っているのだ。

 博士は雨に濡れそぼり、従来の顔色の悪さも手伝って、霧雨の中薄明かりの中で鬼気迫る容貌であった。

 真忌名は目を細めた。何の感情も湧いてこない。懐かしさや、親しみや、怒りが湧いてこない。憐憫すらもだ。さく、と音がして、博士が一歩こちらに近寄った。唇が釣りあがり、一種の確信を持って真忌名を見つめている。彼は右手を伸ばして真忌名に言った。

「真忌名……今こそ我らが手を組む時だ。私は血のにじむような努力の結果お前を創り出した。騎士と司祭の能力を持つお前こそが神だ。そして私は神を創り出した。私と共に行こう―――――世界を手にするのだ」

 真忌名は白けた目で博士を見下ろした。それでいて、彼女は養父の元へ歩み寄り、その腕の中に収まるだけ近くに行った。そしてまるで恋人のように、彼を抱擁すべくその首に手をまわした。

「世界―――――」

 しかしそのなんとも愛すべき態度とは裏腹に、彼女の声はひどく覚めたものだった。降りしきる霧雨の粒よりも、冷たい。

「興味ない」

 ジャキッ、という金属質の音がした。真忌名は父の背中に回した手の中で、父がうめき、その背中が緊張に固まり、次いで自分に倒れかかるのを感じた。

「ま、真忌……」

「すでに我々は背徳の入り口まで入り込んでしまった」

 ずるずる、次いでドサッ、という音がした。真忌名は腕の内側から出ていた鎌の刃をしまうと、何の感情も移さない瞳で冷たく博士を見下ろした。

「昴矢。お前の功罪は私が背負ってやる。お前はもういないほうが良いのだ」

「お、お……のれ…………真……」

「無理だよ。世界なんて」

 真忌名はそこで初めて口元を歪めた。皮肉で、人を馬鹿にしていて、


 そしてどこか悲しかった。


 血が大地に広がり始めた。降りそぼる霧雨の中で、それはじわりじわり、まるで薔薇の花が徐々に開いていく様にも見える。真忌名は大地に倒れた博士をそのままに、ゆっくりと背を向けて立ち去ろうとした。その背中に、ヴァーザフェスト博士は呪いを吐きかけるように呻きながら言った。

「ふ……遅いぞ真忌名………………既に手は……打ってある………………あの男……騎士でありながらお前を忘れられないあの男が私の代わりに動くだろう………………お前は自分の宿命からは逃れられないのだ……」

「―――――」

 真忌名はその言葉に振り向いた。驚きも怒りもない、ただの紫の瞳が暗闇の中で光った。 その瞳は、既に息絶えただの肉の塊となったかつての父の姿をじっととらえている。


 ―――――鞠村。


 真忌名は目を細め、何も言わずに歩き始めた。さく、さく、土を踏む音だけが霧の中に静かに響いた。

「―――――」

―――――雨降る日に、育ての親を殺した。





 悪いことに、博士の言葉は負け惜しみでもいまわの際の嘘でもなかった。

 その死をまるで待ちかねていたかのように、各地で突然、異変が起こり始めた。それはまるで、この大地が始まり月と星が生まれたときから入念に準備され、ただただじっと機会を待っていたかのように、忽然と、そして完璧な形で現われた。各地で起こった異変、それは、地中から得体の知れない魔物が現われては人々の真名を食い散らかし、真名を奪われたその人々の肉体を貪り骨も残さぬという、恐ろしい事象であった。

 各教団は一斉に動いた。騎士と司祭とが派遣され、騎士が戦い<宣告>する間に司祭が真名を縛り、さらにその間に騎士がとどめを刺すという、物質的に非常に苦しい戦いであった。そして報告によると、地下から現われた魔物たちは、一様に天に向かって伸びる一本角を持っていたという。魔物たちの暗躍は弱まることが無く、多くの司祭と騎士が命を落としていった。場所や時間を問わずに跋扈する魔物たちの跳梁は止むことを知らず、一月後には、七教団会議がエド・ヴァアスで開かれた。法皇をはじめとして、各教団のトップが集まって事の始まり、原因、そして解決の仕方が閣議の中心となったが、こればかりは話し合いでどうにかなるものではなかった。七教団の内騎士司祭共に有しているのは半分ほどだが、その中で唯一国家としての体裁を整えている〝白の教団〟はその歴史の古さと立場もあり、先頭に立って原因の究明とそれを解決するという責任がある。

 真忌名は事が起きるとすぐに、真赭以外のすべての使い魔を各地に飛ばして魔物たちの掃討にあたらせた。鬼であろう、魔物に角があると聞いて真忌名は冷静に言った。死者の住む冥府に住まい死者を苛む忌まわしき者達。

 七教団会議が終わった後に法皇は求められて真忌名と面会した。既に、真名の波動の一つがなくなったことには気づいている。真忌名があの霧雨の日に帰国した時、法皇はなんともいえない複雑な瞳で真忌名を見た。悲しく、わびるような瞳であった。その瞳から目をそらし、真忌名は法皇、会議が終わったら話したいことがあるとだけ言って後は自室で本を読んでいるという。また法皇は、各地で暗躍を続ける真忌名の使い魔たちの波動も感じ取っていた。エド・ヴァアスに対する他国の余計な干渉を避けるために姿を消しているようだが、それを感じられない法皇ではない。

 そして法皇は今、執務室で司祭の礼服を着た真忌名と対峙している。

「鞠村が動いた」

 前触れも無く真忌名は言った。その突然さと言葉に、法皇はわけがわからず硬直する。

「―――――」

「昴矢。あの狂人がやってくれたわ。あれはすべてを鞠村に託し自分の真名がこの世からなくなる頃を見計らってすべてが動くようにしていたに違いない」

「し……しかし鞠村は騎士で司祭ではない。命を殺すだけの者は冥府とつながりを持つことはできぬ。冥府は死者再生の場所であって命に通じる者のみがつながりを持てるはずだ」

「さればさ。昴矢は自らの真名の秘密を鞠村に教え、その存在意義によって鞠村に冥府とのつながりを持てるようにしたのであろう」

「……そんなことが……」

「不可能だ、と言うか。私を目の前にして」

「………………」

「鞠村は用心深い男だ。真名の秘密くらいを明かされないことには昴矢を信用しなかったのであろう。それが幸いしたというか災いしたというか……昴矢はあれで頭が良い、たとえ私があの時あれと共に行ったとしても容易に鞠村を操る方法くらいは知っていたはずだ、真名を取られて尚、な」

「―――――」

 法皇は絶句した。

 昴矢・ヴァーザフェスト。かつての友。彼の天才性は法皇自身をはるかに凌駕していた。 しかしその常人とは違いすぎるという事実が、彼を法皇にすることを拒んだ。そしてそれは正しかった。しかし彼がエド・ヴァアスを出奔する時止めなかった、その法皇の逡巡は間違っていたということになる。その小さな迷いは結果として、真忌名という恐ろしくも悲しい創造物を創り出すことになり、そしてその真忌名を巡って、いま世界各地で罪もない人民が見るも無残なかたちで死にゆく羽目となっているのだ。

「晨宗」

 不意に真名を呼ばれて、法皇はハッとした。白い礼服に尚映える、濃いすみれ色の瞳で、真忌名は自分をじっと見ていた。

「頼む……おかしなことを考えないでくれ。今の私はお前が努力でいるのだ。お前がここを去るというのならまた私がここにいる理由もない。時期法皇になるつもりも、ない」

「真忌名……」

 眉をひくつかせて、法皇は驚愕の瞳を開いた。この女は心が読めるのか。

「これを置いていく」

 真忌名は一通の書状を渡した。それは薄く、封筒に入れるのも馬鹿馬鹿しいほどのものであった。法皇がそれを開いている間、真忌名は流れるような動作で礼服を脱いだ。そして法皇は、その書状の内容に驚いて、それにすぐには気がつかなかった。

「真忌名……!」

「と、いうわけだ。私は諸悪の根源を絶やしに行ってくる。しばらくいなくなるがまあお前なら平気であろ。後は頼んだ」

 真忌名は礼服を投げ捨て、片手を挙げて挨拶する明るさでそこを去っていった。心を許した唯一の友を殺しに行くとは思えない気軽さであった。

『私ラステラヴュズィ・真忌名・ヴァカリオンは、終生エド・ヴァアスの司祭・枢機卿であることに同意はするものの、なんらかの理由によって選挙の対象になる権利を一切放棄する。何人も、この権利を侵害することはできない。自らの真名とその存在意義、それにつながれた法皇の真名において宣言する』

「―――――」

 あまりのことに法皇は声も出ず、ただそこに立ち尽くすのみ。




 真忌名はエド・ヴァアスを去った。

 一人ではなく、歳若い少年を共に連れていたという。



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