第二章 3
「明珠! これだけ言うてもまだわからぬか。今後一切あの男と会うことはまかりならぬ。
「いいえ! 紫白様は、わたくしを愛していると確かにおっしゃってくださいました。その目に、何の偽りもございませぬ。わたくしは紫白様を信じております」
「
「お盟姉様は紫白様を誤解なさっておいでです! 世間で言うところの評判とはかけ離れたお方です。わたくしはあの方を愛しているのです」
「明珠。これが最後じゃ。よいか。二度と会うてはならぬ。会うというのならこの真忌名と縁を切ってから行け」
「真忌名様……!」
側にいた誰かが驚いて声を上げる。誰なのかは、記憶にない。
明珠も驚愕で大きな目をさらに見開き、固まってしまっている。
「どうじゃ。お前があの男と結婚するというのならそれでもよい。しかし私の盟妹としては許さぬ。あの男を取るか、私を取るかじゃ」
「………………」
明珠は何かをこらえるように唇を噛み締め、必死に何かを考えているようだった。拳を握り、震えを止めるかのようにじっとしている。
「わかったかや明珠。あれはそういう男じゃ」
しかし明珠は―――――キッと顔を上げ、しかしそれ以上は何も言わず、走って出て行ってしまった。
「明珠……!」
そして―――――……真忌名はそっと目を閉じた。瞼に焼き付いて離れない、あの日、あの場所の光景。
骨のようにやせ衰え、生気を失った明珠の肌のぐにゃりとした感覚、抜けるように白く健康的な薔薇色を放っていた真珠の肌は、どんよりと曇って渋皮のような色をしていた。
探そうと思えば、真忌名は明珠を探すことができた。
明珠はその日の内に丁 紫白と手に手を取り、エド・ヴァアスを出奔したのである。
探そうと思えば探せたのだ。
しかし当時の真忌名は己れにふりかかる不穏なものに対処する為、それどころではなかった。連日宗教裁判にかけられ、質疑応答のために暮らしていたようなものだ。千里眼を使うゆとりもない上、そんな気持ちにもなれなかった。真忌名は真忌名で己れの対峙すべき暗澹たるものへの対処で精一杯であった。
しかし使い魔達には全力を上げて明珠を捜索するよう命じてあった。当時の真忌名の側には、真赭以外には四天王の残りの面々も、是親ですらもいなかったのである。
職業柄もあり、盟姉妹である以上真忌名はすべての盟妹の真名と、その深奥にあるものを押さえている。しかし当の真忌名が捜索にあたらないのなら、使い魔は無論のこと千里眼などではないし、使い魔が相手の真名の秘密を知ったところでどうにもすることができない。
ともあれ、真忌名が『引退』という名目で追放される直前に―――――明珠は瓊江と是親の手によって発見された。報せを受けそこへ到着した時の真忌名の、空間に貼りつくように硬直した顔を、真赭は忘れることができない。
明珠は、古い洞窟の中で半ば死んでいるようにしているところを瓊江が発見した。名前と容姿、そして何より生存していることを確認し、是親に伝え、是親は真忌名の元へ急いだ。その場所へ文字通り飛んでいった真忌名は、明珠の変わり果てた姿と対面した。
「明珠…………!」
是親たちの手によって太陽の光の下へ運び出された明珠は、もうかつての明珠ではなかった。
骨と皮のみまでに痩せ衰えた、枝のような四肢。日光にすら充分に当たっていなかったような、病的な肌の色。なのに、それは白くはなく、渋皮のようなくすんだ色なのだ。ひどい栄養失調で荒れ果てた肌、落ち窪んだ眼窩と、一気に十も二十も年をとってしまったような、疲労と苦労しか見られない顔。髪は痩せ、抜け落ち、かつての輝きなどどこにも見られぬ。修美と響子の報告と自らの千里眼でわかったことだが、丁 紫白はこの陽も射さぬ洞窟の中に明珠を鎖でつなぎ、噂を知ってやってきた男たちに身を売らせていたらしい。一日に五人以上などざらで、ひどい時には四人に交互に犯されることもあった。食事はそれらの男が最低限与えたもののみで、逃げることも、叫ぶことも許されず明珠は息も絶え絶えであった。
「明珠……しっかりいたせ。明珠」
何度目かの呼びかけにようやく目を開けた時、その曇り淀んだ瞳は初め眩しそうに目を細めた。それが真忌名に対してなのか、久し振りの太陽に対してなのかは、今でもわからない。明珠は一度目を開け、再びそっと閉じてから、何かを確認するかのようにその目を開けた。
「明珠……」
かさかさの唇が、もどかしいくらいにゆっくりと開かれる。何日も出していなかった喉が、声を出すということに驚いてうまく反応しない。かすれた声がようやく絞り出され、明珠はやっとのことで言った。
「お…………ね……さま………………」
「しっ……口をきいてはならぬ」
「ゆ…………して……ゆ……るし…………くださ…………」
「ゆるすもゆるさぬもない。お主はまだ私の盟妹。どんなことがあっても責任を負うのが我がつとめ……お主が心配することなどなにもない」
「おねえさま―――――…………」
つ、とそのひからびた頬を涙が伝った。が、水分のない肌に吸収され、それも途中で消える。
腕の中の明珠が重くなってきた。真忌名は覚悟を決めた。
「―――――」
「ほん…………は……あの方は……そ……な方では……魔…………さ…………で……ございま…………わたくしは…………後悔な……てお………………りませ………………あの方を……・・あい…………して……後………………など…………」
「―――――明珠…………」
丁 紫白―――――
「あいし…………て…………」
ふ、と不意にその瞳が閉じられた。顔が傾いた拍子に、地面に最後の涙の一粒が落ちた。
「明珠―――――」
真忌名は無念と共にその骸をかき抱いた。
溌剌としていつも笑っていた明珠は、とても軽かった。
無理をしてでも、少々のことがあっても自分で探すべきだった、今でもそう思う。
結局あの時、自分のことに従事していてもいなくても、結果は同じであったのだ。何を血迷って保身の気持ちが働いたのか―――――少なからず動揺していたのだろうか、あの事件に。そう、動揺していたのかもしれない―――――考えられない事件、あり得ない事件であったからだ。そしてその中心が法皇であったからこその、動揺であったと言える。
しかしそのことはもう過ぎたこと、自分はそれをよしとして処理し、それを受け止めた。 追放されたことについては、何も思っていない。それだけのことをしたからだ。いや、よく追放だけで済んだと感心すらしている。
しかし明珠のことに関しては、真忌名は許しておくことはできなかった。
自分のわずかな気の迷いが、明珠の人生を台無しにしたのだ。生きていれば、時が必ず解決する。しかし死なせてしまっては、もうどうもならない。どうにかなるはずの人生ですら、どうにもならないのだ。
だから真忌名は、沫杜を筆頭とした使い魔の三分の一を丁 紫白の捜索に当て、死んでいようと生きていようと、必ず自分の前へ連れてくるよう厳命した。もし生きていれば手出しは無用、必ず生きたまま連れてくるように付け加えるのも忘れなかった。
そして今―――――発見はされたものの、連れてこられる前に丁 紫白は真忌名の前に姿を現わした。彼は真忌名が血眼になって自分を探していることも、真忌名がどういう女かも重々承知のはずだ。それで尚、真忌名に会いに来た。
金策か―――――
真忌名の瞳が、窓の外の光を受けて怪しく光った。怒り、憎悪、殺意。色々なものがないまぜとなってその光に鋭さを与えている。
真忌名は誰かを呼ぼうとして人払いをしたことを思い出し、仕方なく自分で階下に下りていった。酒場の客たちはぎょっとして彼女を見たが、もう静まり返ったり一挙手一投足に集中したりすることはなく、黙って目をそらしたのみであった。
折りよく、真忌名のその目に窓際で話すゼルファと真赭がいた。
「ご苦労」
「真忌名様」
真赭が慌てて椅子から降りようとしたのを手で留め、後ろの空いたテーブルから素早く椅子を引っ張り出してそこに座ると、真忌名は立てた片膝をテーブルの角に当てて座りながら言った。
「沫杜をこれへ」
「かしこまりました」
真赭が心得て姿を消し、ゼルファが彼女を気遣わしげに見ていても、真忌名は一向に気づかぬ様子でじっと窓の外を見ている。
「―――――」
しばらくして真赭が沫杜を伴って戻ってきた。
「真忌名様」
「ご苦労……沫杜」
「はっ」
「いかがな具合じゃ」
「は……いまのところは、落ち着いておられるようでございます。太経と允息の両者に見張らせております」
「よろしい。のう、これはあくまで推測に過ぎぬが」
「は……」
「明朝、丁 紫白はもう一度私を訪ねてくるであろう」
「……再び、でござりまするか」
「推測の域を越えぬがな。一度追い払われて去るようななまなかな覚悟ならば、最初から私に会いに来たりはせぬはず。なんとなれば私は明珠の盟姉、あの男に貶められた我が名と明珠の名誉、時が経ちもう昔のことだから忘れようというほどのものではない」
「………………」
「あの男もわかっているはずじゃ。わかっていて、わざわざ会いに来た。クソミソに言われるのを承知でな。そして一旦は追い出されたものの、それだけの覚悟をして来たからには、すごすごと帰るわけには行くまい。自分を仇と付け狙っているとわかっていて尚、その付け狙っている相手に会いにくるのにはよほど追い詰められているのであろ」
「なるほど納得しましてございます」
「だからの、沫杜。あの男は必ずもう一度来るはずじゃ。しかしあれだけ言われて、いけしゃあしゃあと戻ってこられるとも思えぬ。そこでお主、あれが迷っているようなら、ここへ連れてきてやれ」
「は……」
「考えがある。行きや」
「かしこまりました」
沫杜が立ち上がり、その姿勢のまま三歩下がってくるりと振り返るのを見届けた真忌名は、
「転ぶなよ」
と付け加えるように言った。次の瞬間、
「ぐああああああああああああああああ」
という声と共に沫杜は何もないところで転び、側にあったテーブル二卓と椅子七つを倒しそれらの下敷きになり、ついでに側を歩いていて注文された酒を運ぼうとしていた娘の手の上からグラスなどが乗っていた盆ごとひっさらった。娘は咄嗟によけたので怪我はなかったようだが、ガラスが幾つも割れ、銀の盆が一緒になってけたたましい音をたて、その音が響き渡った。
それを見ていた真忌名は吹き出し、まったくたまらないといった風に天井を仰いだ。
一瞬上を向いていたその瞳はしかし、笑ってはいなかった。
明朝―――――真忌名の言葉通り、行かねばならぬところを、どうやって顔を出していいのかわからずにうろうろする丁 紫白を沫杜が見つけ、真忌名の言葉と共に彼を宿まで連れてきた。
「ほう……一晩まんじりとして眠れなかったようだの」
「………………」
ゼルファはちらりと丁 紫白を見た。
なるほど目の下には隈ができていて、目も真っ赤に充血している。顔色は優れず、唇も紫色をしている。
「何用で昨晩私に会いに来たのか……だいたいの理由はわかっておる。大方、金であろう」
びくり、と丁 紫白の肩が動いた。それを冷たく横目で見ると、真忌名はフン、と言いながら窓に近づいた。
「図星か。まったくおのれという男は……。―――――…………しかしお主にも何か言いたいことはあろう。許す。言いたいことがあれば存分に言うがよい」
板の間に正座した丁 紫白は、自分の両手を膝の上に置いていた。真忌名に言葉をかけられても、微動だにしなかった。また真忌名も、強いて彼を罵倒したり煽ったりせず、昨夜の様子が嘘のように静かな瞳で、椅子に座ったまま彼をじっと見ている。
やがて……。
その両の膝に置かれた手がわなわなと震え、肩にそれが伝染し、丁 紫白がうつむいてその震えを抑えようと必死になっているのが傍から見ていてもわかった。
泣いている。
「わ……わたくしは………………―――――明珠を愛しておりました」
やっとのことで彼がそれだけを言った時、真忌名の目がわからないほどわずかに細められた。
「今更こんなことを言って、信じていただけるとは思っておりませぬ。ただ―――――それでも尚、申し上げておきたい。愛していました。明珠を愛していました。どうかしていた―――――彼女にあんなことをしてしまうなんて。悔やんでも悔やみきれず、自暴自棄になり、今は落ちぶれ…………命まで危のうございます。しかし昨夜貴女様に怒鳴られてよくわかった―――――私はもう、生きるべきではないのです。明珠が呼んでいる、そんな気がしてならない。悪あがきはやめて……殺されるのもいいでしょう。
もう……疲れました。逃げるのも、明珠のいない人生を送るのも」
「……」
真忌名は何も言わない。それをどう受け取ったのかはわからないが、丁 紫白は深々と一礼して立ち上がると、そのまま部屋を出て行こうとした。ゼルファはそうやって同情をひこうとしてるのかな、とちらりと思った。そこまでやって、相手がわかった、助けてやるから行くなと止めるように相手に言わせるよう仕向けるのは常套手段である。
しかし丁 紫白は本当に扉を開け、そのまま廊下に出て、振り向きもせずに出て行ってしまった。本気で死ぬつもりなのだ。
「ラスティ…………」
「……」
真忌名は顎に手をやった。そしてちらりと窓の外を見ると、打ち拉がれた、しかしどこかせいせいとした顔で道を歩く丁 紫白の姿が見える。
「修美、呼び戻せ」
「は」
修美がスッと姿を消し、ゼルファがいよいよ何かが起こると感じた時、真赭がすかさず淹れていた緑茶を真忌名に差し出す。黙って受け取り、一口飲み、しかし真忌名の視線は窓に固定されたままだ。やがて扉が開き、修美が丁 紫白を連れてこの部屋に戻ってきた。「真忌名様、お連れいたしました」
「ご苦労」
真忌名は立ち上がった。
丁 紫白はどうして呼び戻されたのかわからない様子で、不安げに立ったまま落ち着きのない様子で真忌名を見ている。
「お前の真意はわかった。しかしそれだけで許すと思うほど私は甘くはないしお前の罪も浅くはない」
真忌名はゆっくりと振り返った。
「償ってもらおう」
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