第三章 3

 リセラを乗せた大きな馬車に乗り、二人は翌日の昼過ぎに出発した。響子の手当てがどこまで効いたのか、リセラの顔は青いを通り越してどす黒い紫色に変化してしまっており、その息もひどく荒い。あれだけ早く毒を吸い出したのにも関わらず、その毒は体内に入った途端一瞬に近い素早さで彼女の体内を巡ったのだ。

「鍛えた人間になら身体が数日痺れる程度のものじゃがか弱い娘には致死量じゃ」

 真忌名は馬車揺られながら言った。

「強烈な毒ゆえすぐに治療をすると身体に負担になる。相手は人間ゆえ響子も少しずつしか手当てができぬ…………参った」

 元はと言えばすべて自分のせいでこうなったことに、真忌名はかなりの苛立ちを感じているようだ。自分に降りかかる火の粉なんぞは簡単に振り払える上に痛くも痒くもないが、自分が被るはずだった災厄の数々は、自分を標的としているだけに一般人には荷が重い。 彼女はそれをよくわかっているのだ。

 今二人は息も絶え絶えのリセラを乗せ、大きな馬車に揺られている。

 奥にベットが置けるようにしつらえてあり、側に人一人程度が座れるスペースもある。 そこから扉を隔てて、ふつうの馬車のように向かい合う椅子があり、二人は今そこに座っているのだ。扉は今開けられており、座ったままでも様子が見られるようにしてある。

「また狙われるってことはないのかい」

「わからん。千里眼で視てみたが何かに阻まれてよう見えなんだ。従ってどこの誰がやったかまで今すぐにはわからぬ。未来なんぞは今私がため息をつくかつかないかでも変わる不確かなものゆえ視る気にもならぬ。今大事なのはこの娘を治し、無事故郷に連れて行くことじゃ。なればあの街の環境は良いとはいえぬ。いつまたどこで襲われるかわからんからの」

「今は」

「使い魔が四方を固めておる」

「そっか……」

 ゼルファはちらりとベットのほうを見た。

 あれだけ溌剌と笑っていたあの娘が、今は息も絶え絶え、時々黒く濁った汗を出したり、小さく身体を痙攣させたりしている。本当に助かるのだろうか。

「この娘になにかあったら恋人の前で腹を切らねばならん」

 ゼルファの心を読んだかのような真忌名の呟きだけが、いやに不気味であった。


 街を出て翌日には賑々しい光景はなくなり、緑が濃くなったと思っていたらすぐに山が近くに見え始めた。ここが、紫の星が示した折りに街の人々に避難させたという山であろうか。森は深くなり、時々日の光も遮られるほどだ。鳥の声が耳に心地よく、馬車にコトコトと揺られるのも悪くないと思えたのも最初の二日だけであった。若いゼルファはすぐに飽きた。何個目になるかもわからぬ林檎をかじりながら、ゼルファはひたすら外を見ている。

 なんとなれば、歩いていれば目につくものが心を慰め、真忌名という連れがいればそれについて話すこともできよう。場所によって微妙に匂いの変わる空気を吸い、風に吹かれ、泉を見出し、湖で休み、大地に座り込んで焚き火を見つめる。そういった暮らしに今や慣れっこになってしまっている彼には、ただぼぉっと馬車から表の風景を見るというのは退屈なのかもしれない。しかも、病人を乗せているという気遣いから細心の注意を払って走行しているため、遅々としてなかなか進まない。大型の馬車だけに通れない道も多く、回り道をしているのならなおさらだ。使い魔を使って宙に浮かせれば早いのに、とも思ったが、少なからぬ旅人の目があってはそれもままならぬ。馬も怯えて使い物にならぬであろう。

「尻が痛くなっちまったよ」

 休憩しようと言われて馬車が止まり、扉を開けて太陽の光とそよぐ風ににこにこしながら、ゼルファは大きく伸びをした。続いて背中を鳴らし、肩を鳴らす。

「体中痛くてたまんないや。お貴族様ってのは、どうしてこんなのに乗って旅なんかできるかね」

「向こうは向こうで徒歩で旅をするお前をそう思っているであろうよ」

 へへへへへ、と笑って、ゼルファは外へ出た。

「ちょっとその辺歩いてくるよ。どうせ見えない護衛つきだろ?」

「心得が良くて結構じゃ」

 しかし気をつけるよう言い含めると、真忌名はしばし射し込んでくる日の光に顔を上げた。ピチュ、ピチュ、と名も知らぬ鳥がそこここで鳴き、木々の緑が時々風に揺れてさやさやと音を立てる。光にきらきらと光ってそれは、どこぞの国の王の冠につけられている宝石を思わせる。

 静かであった。

 と、そこへ、馬車のステップのすぐ側に、膝まづいた格好のまま響子がいつものように姿を現した。真忌名は無言でうなづき、奥の部屋に向かって顎をしゃくり、前を通れとでも言わんばかりに組んでいた膝を解いた。響子は立ち上がって一礼し、音もなくステップを踏んで中に入ると、相変わらず思わしくないリセラの様子を見て、何事か処置を施している。それはちょうど真忌名のいる場所から対角線を描いた場所なので、響子のちょっとした手の動き、目の見ているものや、息遣いまではっきりと真忌名には見てとれた。

 脈を測って、しばらく処置を施していた響子がほどなく動かなくなり、じっとリセラを見つめているのをみはからって、真忌名は口元に薄い笑みを浮かべて言った。

「思い出すの、響子」

「―――――」

 響子はリセラを見つめたまま、動きもせず答えもせぬ。

 初めゼルファが冬のようだ、と第一印象に思い形容したその白皙たる容姿は、動いていれば動くのかとぎょっとするだろうし、動かないでいれば彫像のようにしか見えない。きつめの眉、真冬の月の光のような銀の髪。闇夜にも光る金の目、ひそやかで、冷たすぎずそれでいて大理石のようにひいやりとした心地の良い声。響子を見る人の目というのは、いったいどんなものであろうかと真忌名は時々考える。

「かつて私が魔界に降り、お主ら第五層の悪魔どもと熾烈な戦いの後私の傷をこうして診たのもお主であった」

「………………」

「傷を診、癒したのもお前ならば、また一番初めにこの方について行こうと他の悪魔どもをなだめすかし最初に私に膝をついたのもお前であったな」

 響子は相変わらず、動きもせぬリセラをじっと見つめている。水晶の彫り物のような横顔を生き物たらしめているのは、その銀色の長い睫毛が瞬きする時に動いた瞬間のみだ。

「そしてそのおかげで戦いは長引かずに済んだ。私の怪我もあの程度で済み、おそらく考えられる限り最も小さい被害で済んだはずだ。私は多少の傷を負いながらも無事に目的を果たし、おぬしたちも気に入らぬまでも、するだけの抵抗をすることがかなった。第五層で最も古く格式のある名門家のお主の言葉ゆえ、な」

「―――――」

 響子は相変わらず動かない。

 真忌名は表へ目を向け、足を組みながら独り言のように言った。

「悪魔というのは名誉と格式を重んじる。言うなれば、深いところに行けば行くほど、魔界というのはまた歴史も古い。第一層の悪魔の千年は、聞いたところによるとお主らの一年にも満たぬとか」

 チチチチチ、と、新しい鳥の声がした。それをなんとなく目で追いながら、真忌名はまたも続ける。

「魔界で最も古い第五層の、さらに最古の家の者が言えば、なるほど他の悪魔たちも考え直さずにはいられなかったようじゃな、」

 真忌名は振り返って言った。

「古き血筋を物語るその金の瞳の前では」

「………………」

 響子がそっと目を伏せた。真忌名は再び外へと顔を向け、呟くように、いや、本当に呟いてこう言った。

「それには、今だに感謝しておる」

「―――――」

 すると、今まで黙っていた響子が、相変わらず顔を上げず、リセラを見据えたままあのひいやりとした、妙に涼やかな声で言った。

「お仕えすべき方と見極めての事……今でもその選択は正しいと思っております」

 ほ、と真忌名は口元を歪めた。

「嬉しいことを言ってくれる」

 一介の人間ごときが浴する恩恵にしては、私は大分恵まれてきた―――――真忌名は寄り掛かり、すう、と息を吸って静かに目を閉じた。過去の様々なことが思い出されて、それはそれで気持ちがいい。苦い思い出というものも、自分が庇護する立場の者たちが味わうのでなければ、真忌名自身にもたらされた周囲の扱いそのものは真忌名には痛くも痒くもなかった。この女は、ただ悠然として自分の周りで起きることを他人事のように見て目を細めているだけなのだ。

 しばらくしてゼルファが帰ってきた。大きな泉を見つけたという。見ると、ちゃっかり真赭に水筒を出させて水を汲んできたようだ。

「ほらお土産」

「気が利くのう」

 ついさっきまで真忌名と響子の間に交わされていた会話など知る由もなく、ゼルファは上機嫌で馬車に乗った。そして響子の姿をみとめると、ああいたんだねと気軽に声をかける。

「それとなく辺りを伺ってみたけど、それらしい気配はなかったな。まあ最もオレは戦闘のプロじゃないから」

 相手が気配を隠してしまえばそれまでだと言いたげに肩を竦めて、ゼルファは扉を閉めた。少しして、大きな揺れと共に馬車がのっそりと動き出す。

「森では気配を隠しにくい。ことに昼は、鳥や獣があちこちにおる。樹の上では動きにくいし、それで気配を隠すというのも相当なことじゃ。万が一それができたとしても、今度は鳥が警戒して側には寄らぬ。鳥がいなければ鳴く声も聞くことはない」

「なるほどね」

 大して感心したふうでもなく、ゼルファは肘をついて外を見たまま言った。まだまだ行程は長く、最初の山を半分も越えていない。山を二つ、谷を三つ越えるというが、それでは一体どれだけの時間がかかることやら気が遠くなる。そんなゼルファの思いを見透かしたように、

「なに、途中には村や小さな町もあろう。あまり気を落とすな」

 真忌名が低く言っていた。

 山を一つ越えるのに二週間以上かかった時点で、ゼルファは相も変わらず馬車の旅に慣れない己れの痛む身体を呪いながら、あとどれくらいかかってこの娘を送り届けていくのだろうと辟易し始めた。ただ一日座っているよりは、野宿をし足を棒にして歩いて旅をする方がまだましだ。ただこの馬車の旅の唯一のいいところは、座席の下が簡易ベットになっているので、毎日そこそこ柔らかいベットで寝られるということだ。旅暮らしでは、それがなによりのことなのだ。

 ある日のこと、行っても行っても変わらない森の風景をうんざりして見ていたゼルファは、正面に座る真忌名がおかしなことをしているのに気がついた。彼女のいる辺りから金属音が聞こえてくるのだ。しかし無論誰かが刃を抜いているわけでもないし、真忌名が剣の手入れをしているわけでもない。しかし聞こえるのだ。真忌名はといえば、しきりに掌を裏っ返しにしてはじっと見つめたり、肘の裏を見たり、腕をさすったりしている。

 ジャキッ

 一層強い音がして、真忌名の額から鋭い金属の尖った錐のようなものがにゅ、と出てきたときには、ゼルファはほんとうに心臓が止まったかと思った。

「あれ間違えた」

「な」

 きっと数拍は確実に止まったのではないかと思う。

「なにやってんだよ……」

 ジャキッ

 今度はそれが掌から出てきた。真忌名は何かに挑戦しているらしい。

「んー」

 ジャキッ

「別に。腕から刃を出す練習をしておる。これがなかなかむつかしくて」

「またそんな……」

 身体の一部を鋼鉄化できてしまう女である。そんなことが出来ても、不思議ではなかろう。なにしろ真忌名は、魔術師という一面も持っているらしいのだから。オレも大分慣れてきたな、とおかしな感心をしながら、生ぬるい目でゼルファは言った。

「なんでそんなこと」

「別に。かっこいいと思わんか?」

 真顔で尋ねる真忌名に、ゼルファは最早何も言えなかった。

 街を出て三週間目、響子の手当てのかいがあってか、リセラの容態も安定し、目を覚ますことはないものの、もう嫌な色の汗を出すこともうなされることもなく、寝息も至って平穏になった頃。

 道の途中で、馬車がいきなり止まった。

 本を読んでいた真忌名と、竪琴の手入れをしていたゼルファが、同時に顔を上げて目を見合わせた。

「なんだ?」

「何事じゃ」

 真忌名は窓を開け、御者の姿に身を変えた使い魔の一人に声をかけた。

「足止めでございます」

「なぬ……」

 と、窓の下に膝まづいた格好で是親が現れた。

「申し上げます」

「む」

 突然の不測の事態に、真忌名も少々度肝を抜かれている。なにしろ、旅の最中小さいとはいえ地図にも載っているきちんとした公道で、なにゆえ突然足止めなどをされなくてはならぬのか…………見ると真忌名たちだけでなく、小さな馬車も今は道の隅に寄って立ち往生しているばかりでなく、不満顔も顕わに旅人があちこちに立ち止まっている。

「ただいまこの先の公道にて〝緑〟の教団による儀式が始まりましてございます」

「なぬ……たった今か」

「左様でございます」

「―――――」

 真忌名は乗り出していた身体を戻し、思わず上を仰いだ。そしてやりきれないように後ろに寄り掛かると、何が起こったのかわからないといった顔で自分を見つめているゼルファに、

「困ったことになった」

 と言った。

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