第三章 4



 カリオン大陸ほぼ中央部―――――地図を広げるとこの大陸を右隅に見出すことができ、それをぐるりと星の形として見てみると、この大陸は北過ぎず南過ぎずちょうどいい人が暮らすのにちょうどいい気候であることを示している。その大陸のさらに中央部には、背後に天然の要塞ともいうべき不落のティス山脈を控え、ぐるりと美しい草原に囲まれているエド・ヴァアス法皇国がある。春は街道筋の桜並木の花びらがひらひらと舞う中をうらうらと若草色の草が風に揺れ、夏になるとその若草は一層濃さを増す。大人の膝くらいまでの長さだというが、それがきらきらと太陽に照らされて輝く様はいつまで見ていても飽きないものだという。秋にはそれが稲穂のような黄金色となり、冬には枯れ色になって雪に埋もれる。カリオン大陸は他のどの大陸のそれよりも四季の移り変わりが豊かで美しいというのを、旅人はこの地に足を踏み入れて初めて知るのである。

 さてエド・ヴァアスだが旅人はここを訪れると他国の例に漏れず簡単な入国審査を受ける。巡礼の場合は申告しなくてはならないが、他の宗教の信者である場合も特に申告する義務はない。水の豊かな国というふれこみを裏付けるように、街のあちこちの広場に様々な意匠の美しい噴水があり、その水はそのまま水路となって街を縦横に巡っている。住宅地のはずれをひょいとのぞくと、そこには当たり前のように水路の溜まりがあり、野菜を冷やす者、別に区切られた場所で洗濯をする者と様々だ。中央公道は誰にでもわかるように城門からまっすぐに法皇庁まで伸びており、他の道のそれと区別するため白い石畳なので一目でそれとわかる。そしてなんとなくその道を目で追って、その終着点まで行ってたどり着いたところで顔を上げると、そこには世界に名だたる法皇庁がある。もっとも、エド・ヴァアスに住む人々は簡単に「お城」と呼んでいる。国王の住まいではないから城であるはずはないのだが、国の中心人物たる法皇が住まう場所に変わりはないので、同庁は敢えてこの通り名を受け入れている。

 冬の晴天の日の、太陽の光をまっすぐに受けてきらきらと光る瑕も曇りもない白の壁。 なめらかに、それでいて崇高なたたずまいを見せている。天に向かって迷わずに聳え立ついくつもの尖塔、そこからのぞくバルコニーには、大抵警備の衛士かまたは騎士の姿が見え、たまに城下を臨む司祭の姿も見られるという。そして公道からぐるりと左にそれると、そこはこの国で最大の広場と言われる『白の広場』に出ることができる。ここから、広場に一番近い『祈りの塔』と呼ばれる場所のバルコニーから、二週に一度法皇が出てきて信者に説教をし祝福を与える。その際には、常時九人いる枢機卿が法皇の左右に控え、塔の下には当番でそこを警備している騎士たちが睨みをきかしている。年に一度開かれる大祈祭ははるか彼方の大陸から見物が来るほどのものというが、その際式典が行われるのは『白の広場』とは線対称の場所、すなわち公道を右に行った『祈りの広場』で行われる。 ここもまた『白の広場』と同じくらい、いや、もしかするとそれ以上広いと言われているが、式典専用の広場なので普段は開放されておらず、市民も馴染みが薄い。

 そして今日もまた、月に二回ある法皇の説教を聞くべく世界中から信者―――――それに混じって時々物見高い信者や信者ですらない観光客などもいるが咎められることはない―――――が集まっている。

 予告の鐘が二回、さらに一時間して鐘が一回鳴ると、説教が始まるのと同時に法皇がお出ましになる合図だ。説教はほんの三十分ほど、その後で広場にいる人々は頭を垂れて祝福を受ける。聖なる右手で四方を照らし、丁寧にまんべんなく信者たちを見下ろして法皇の祝福は五分ほどもかかる。そして祝福の終了を告げるように鐘が三回ゆっくり鳴らされると、信者たちは頭を上げて法皇が塔の中に入っていくのを見守るのだ。

 二週に一度、これは開闢以来絶えたことのない〝白の教団〟にとって大切な行事の一つである。

 そしてそれが終わると、法皇は奥に続いている執務室へと向かう。大抵は後ろに枢機卿が一人ついていき、ねぎらいの言葉と共に説教の後のだいたいの予定を反復して聞かせている。法皇ライデュス・フュールバリウスⅣ世ははそれを聞きながら、執務室の自分の椅子を目指す。その椅子こそが彼のもっともお気に入りの場所であり、二週に一度の説教の後でゆっくりとくつろぎ疲れを癒せることのできる場所なのだ。それは大振りの背もたれがあり、その背もたれの背そのものはとても高い。座るとどっしりと座った者の体重を吸収し、肘を置くアームも太めで具合がよろしい。

 その椅子にいそいそと向かいながら、法皇は背中で枢機卿の言葉を聞いている。

「お疲れ様でございました。暖かくなると、やはり数も増えますようで」

「うむ。真夏にかけてさらに増えような」

「は。で、本日のご予定でございますが、この後午後からレダ・ウェイアの巡礼団の方々と会食、その後は会議が二本。最初の方は騎士たちも交えての予算会議でございます」

「うむ。夜の礼拝の後の会議はどうなっておる」

「はい。枢機卿八人と、それから筆頭騎士の中からアズラ、リンティエン、それから城下評議会からオフィン様、ネラル様、ボワエ様が出席予定の他は未定でございます」

「うむ……」

 と、部屋に入って、あるはずのない人影を見とめたような気がして、法皇は顔を上げた。 本来法皇その人のみが座ることを許されるはずのその椅子に、見慣れた人物が座っていた。足を組み、その組んだ足をぶらぶらとさせて、肘をついてこちらを見ている。

「相変わらずだな法皇」

「な―――――ま、真忌名……」

 思わず絶句の呟きを上げたのは、これは法皇ではなく側にいた枢機卿である。当の法皇は、眉を上げてむ、と小さく言ったのみであったが、小さくて低い声であった上枢機卿は大層驚いていたので、法皇の呟きは誰にも聞き取られることはなかっただろう。

 驚きのあまり真忌名を指差したまま硬直し、口をぱくぱくさせている枢機卿を尻目に、真忌名は余裕綽々の笑みでにやりと法皇を見、久しいなと低く言った。

「な、な、な、おおおお主追放された身でなななななにを」

「話がある。無論お前ではない法皇にだ」

「かつての主である法皇さまに向かって呼び捨てとは!」

「よい」

 狼狽の態を隠せない枢機卿を手を上げて押し止め、法皇は低く言った。目は、まっすぐ真忌名を見据えている。

「何用で来た」

「頼みがある。馬車で移動しているのだが―――――『緑晶の儀』に阻まれて通れんのだ」

「……回り道すればよかろう」

「怪我人がいるのだ。危険な道を通るわけには行かぬ」

「なななななな真忌名! お主自分が何を言っているのかわかっておるのか! 卑しくも追放された身分でありながら法皇庁に忍び込みあまつさえそのような頼み事など道理が通ると思っておるのか!」

 真忌名はぎろりと枢機卿を睨んだ。その、紫の瞳。

「やかましい!」

 さして大きな声ではなかった。が、鞭で打ち据えたような響きは部屋に響いて谺した。

「―――――」

「それを承知でこうして頼みにきている。つべこべ言うようなら協力せずともよい。が、その代わりに法皇の真名、その意味もろともを世間に晒してやってもよいのだ」

 叩きつけるような言い方と、その言葉の恐ろしい内容に枢機卿はわなわなと唇を震わせた。

「ななななんという恐ろしいことを……そそそそのようなことができるとでも……」

「……よいだろう」

 しかしそれまでのやりとりを黙して聞いていた当の法皇は、狼狽することも、立腹することもなく、真忌名を見つめたまま言った。落ち着いた声であった。真忌名がどんなことを言って脅そうと、本当にはやるまいという一種の信念のような信頼の籠もった目をしている。

「な……法皇様!」

「先ほどからお主の叫び声を聞きすぎて耳が痛い。下がりなさい」

「ですがこの者は……」

「よいから下がりなさい」

 静かだが、有無を言わさぬその声。枢機卿はう、と息を飲み、にやにやと笑い二人のやりとりを見ていた真忌名に一瞥をくれると、ぷいと出て行ってしまった。法皇に一礼して退室することも忘れなかった。

「やっと静かになったの」

 歩み寄る法皇を見て真忌名はくすくす笑いながら言う。そして法皇が側に来ると立ち上がって椅子を譲り、自分は側の机に浅く座っている。

「枢機卿が八人しかいなかった。後釜は決まらぬか」

 さして興味があるとも思えないような口ぶりで、真忌名は部屋の中を見ながら聞くともなしに聞いた。

「お主のすぐ後に入ることのできる実力者がいるとは思わぬ」

「―――――」

 そのすみれ色の目を伏しがちにし、真忌名は答えようとはしない。

 〝白〟の教団は凡庸と善良を信念とする団体である。真忌名が例えどれだけ破天荒であろうとも、立場のある人間を理由もなしに追放などそもそもできるはずがないしすることもない。しかし当時、周囲の激しい追及の中、魔界へ赴いた理由を決して口にしようとせず、それによってますます苦しい立場に追いやられる真忌名を追放処分としたのは、他ならぬ法皇その人であった。魔界に行った理由もわからなければ、その確たる理由もなしに枢機卿という立場を汚すような真似をしたわけでもない真忌名を理由なしに追及するのは難しく、追放という処分は妥当とも甘すぎるとも囁かれた。しかし法皇の決定であるならば誰がそれに異を唱えることが出来ようか。

 しかし追放という一見厳しすぎるように見える処分の裏に、実は法皇が真忌名を守る目的でその決定を下したことに気づく者は、当の二人以外には恐らくいないだろう。真忌名が魔界へ行った理由を知るのは、法皇と真忌名本人のみなのだから。―――――そう、言うわけにはいかなかった、言えば開闢以来五千年続いてきた教団の存在そのものが危ういものになるからだ。嘘は大きければ大きいだけばれないと言うが、秘密を知る者の数は小さければ小さいほどいい。

 椅子に座ってくつろいだまま、法皇は机に座っている真忌名を見据えて言った。

「間近く」

「………………」

 真忌名は黙って机から降り、ゆっくりと側に歩み寄った。そしてひざまづき、黙って法皇の前に頭を垂れる。

「顔を」

 真忌名は顔を上げた。法皇の青い目がすぐ近くにあった。自分の行く末を懸念し思いやる、慈愛に満ちた瞳。生まれた子どもに祝福を施すかのように額に触れる指先から、法王の彼女を思いやる気持ちがにじんでいる。

「息災のようだな」

「病気になる暇もない」

 真忌名は立ち上がり、何事もなかったかのように答えて部屋の中を歩き回った。

「たまに立ち合いを求める騎士が来る以外は至って平和だ。…………いい休暇よ」

「む……」

 立ち合いのことはさすがに耳に入っておらぬらしく、法皇はちらりと眉を動かしたが、結局何も言うことはなかった。

「済まぬと思っている」

「……なんのことやら」

 真忌名は知らぬふりをして窓の外の緑に目をやった。

「私が何者かを知っていて尚、教団に迎え入れてくれたのは法皇、お主だ。それに比べれば大したことではあるまい」

 使い魔が沢山いていいぞ、としたり顔で言った真忌名に、

「うむ」

 と複雑な顔をして返事をした法皇は遠慮なく笑い飛ばされた。

 真忌名はベランダに通じる窓へと向かい、枠に手をかけ振り返りながら言った。

「ふふふふふ。お主も変わらぬようで何よりだ。ではそろそろ行かねばならん。儀式のこと頼んだぞ」

「真忌名」

 静かな、しかし有無を言わせぬ声で、法皇は言った。

「…………鞠村が行方不明だ。――――出奔した」

「――――――」

 一瞬硬直はしたものの、しかし背を向けたまま何も言わず、真忌名は窓を開け、ベランダに出ると止める間もなく音もさせずにそこから飛び降りていった。下には見張りや警護の者たちがいるはずだが、誰何の声は一切聞こえず、たまに槍が床に触れる冷たい音が聞こえてくるのみであった。



「よし。通ってよくなった」

「はあ?」

 ゼルファは食べかけていた林檎をあやうく落としそうになった。

 突然いなくなったかと思いきや、いなくなった時と同様の唐突さで戻ってきた真忌名は、またそれと同じくらいの唐突さでこう言った。ゼルファの混乱たるや筆舌に尽くしがたい。

「なにそれどうゆうこと」

「ちょっとしたコネを使ったのじゃ。怪我人を抱えていて何十日も待たされるなどという悠長なことをしているわけにはいかんのだ」

 どっかと座り、近寄ってきた真赭に何事か短く呟くと、真忌名は疲れたため息をひとつついた。この女にはついぞ珍しいことゆえ、ゼルファはおやと思ったが、言う気があるなら自分が聞く前に言うだろうし、言う気がないのならどんなことをしても言わない真忌名の性格を自分でも嫌というほどわかっていてたから、敢えて気がつかないふりをしていた。 同じように足止めをくらった周囲の目もあってか、一行の馬車は夜中にひっそりと移動することを条件に通してもらえた。通れるというのなら、例えそれが十頭引きの大型馬車であろうと、音もさせずに移動する程度のことは、真忌名の使い魔たちにとってはわけもないことだ。

 ゼルファは儀式の最中ゆえ、外を見てはいけないものと思っていたのだが、外を見るなとは言われてはいまいと真忌名が言ったのをいいことに、窓に張りついて外をじっと見つめている。もっともじろじろ見ていて却って睨み返されても気まずいので、儀式の祭壇らしきものの側を通るときはさすがに遠慮してあまり見ないようにしていた。

 一方の真忌名は、忘れようと努力をしているわけでもなく、昼間法皇に言われたことをぼんやりと考えていた。

(鞠村――――……)

(――――……鞠村か―――……)

 その名を思い起こして気がつく、なんと長い間、自分はこの名を口にしなかったどころか、その持ち主のことすら思い出さなかったことか。

 自分が告発された時唯一かばってくれようとした同僚。厳しい訓練の中、共にマスターAAAを勝ち取ったライバルであり友であった男。上等の翡翠と当時囁かれた明るい緑の涼やかな瞳、春の草原に光るやわらかい日差しのような髪。心地よい声、高い背丈。隙のない足取り、鋭い太刀風。どれをとっても懐かしい。

 真夜中の音もないひそやかな移動の途中、真忌名は思い出すともなしに自らがまだ教団にいた頃を思い出していた。それはまだ、騎士としてその名を轟かせるずっと以前のこと、マスタークラスに昇進する前のことであった。

 それが司祭であろうと騎士であろうと、あらゆる組織の中に彼らを見る時、そこに女性を見出すのは至難と言われている。女というものは本来、命をその身に宿すものゆえに、命を与えることも奪うこともしなくていいのならしないのが一番だからだ。だからといって女性司祭女性騎士が世界に皆無かというと、両手の数くらいは存在するという。それゆえに、またどこの組織でも目立ずにはいられない。

 女で、騎士で、最年少若干七歳でノーマルクラスBから訓練を開始しただけでも当時はかなり話題となったのに、その上司祭の能力もあるという、それだけでも真忌名は周囲から変わり者として、と言うよりは、異端者として迎えられ扱われた。ノーマルクラスB と言えば、階級で言えば下から四番目で決して高い方ではない。しかし七歳で入団試験に合格し、その年齢ですでにこの階級から始めたということが、関係者からすれば一種の驚異なのだ。この子供は訓練次第でいくらでも能力が伸びるぞ、と試験担当者が興奮気味に言ったのを、真忌名は後々までよく覚えている。

 もっとも周囲をして真忌名を異端者扱いさせた原因はそれだけではなかった。

 騎士であれ司祭であれ、七歳で能力を見出されエド・ヴァアスに来たということは、その能力を見出す者がそれ以前にいたということになる。それも特異なことだ。

 真忌名をエド・ヴァアスまで連れてきたのは、彼女の養父であるゼファストラ・ヴァーザフェストだ。

 ヴァーザフェストの名を知らない者は、近年のエド・ヴァアス教団内においていないと言われている。この男は、対国外の最高地位である高司祭と、対国内の最高地位である大司祭を長年に亘って歴任した後、枢機卿まであと一歩というところでいきなり教団を出奔し行方不明になったとされている。科学者としても高名で、随時高尚というよりは、今一歩踏み込んで常人には理解不能な、少々危険な思想で周囲から孤立していたことでも有名だ。

「そも、司祭とは所詮命の範囲内でしか命を与えることのできない存在だ」

 これが彼の口癖であったという。詳しいことはあまり知らされていないが、人間の許される範囲を超えた行いを成功させようとしていつも枢機卿たちを鼻白ませていたことだけは確かだ。してみると、法皇と一部の幹部たちは彼の研究の内容を知っていたと見える。 そのヴァーザフェスト司祭、司祭であり博士でもある彼が、ある日突然一人の少女を連れてエド・ヴァアスに戻ってきた。

 博士は枢機卿の同席を拒み、法皇と面会しその少女を引き合わせた後立ち去った。法皇直々の許可を得て、その少女は入団の審査と試験を受け、その後に司祭適任審査も受け、両方に見事合格したという。枢機卿たちはその能力の奇妙さに一斉に法皇に慎重になるよう説いたが、法皇は何も言うことなく、黙って首を振り、そのことについては一切取り合おうとしなかったという。

 その少女が真忌名である。

 適正としては、司祭の能力の方が騎士としてのそれよりは大分に高かったというが、とにかくそういった試験や審査の内容は誰のものであろうと決して漏らされるものではないゆえに仔細は不明である。真忌名はそれから、司祭としての訓練を受け続け、十一歳で司祭になった。それと同時に、立て続けに報告される騎士候補生としての昇進の報せを聞くと、異論を唱え続ける枢機卿たちも黙らずにはいられなかった。教団としての体裁を整え、また人民を守るという立場にある以上、戦争を避けることはどんな努力をしても無理な時は無理であり、騎士は必要不可欠の存在だからだ。そしてまた、教団として教えを守り、守るために戦う存在がいなければ、〝白〟の教団はここまで大きくはならなかっただろう。

 マスタークラス最下級のマスターCCCになる前に、真忌名は高司祭へと昇格していた。 十三歳であったという。

 年若の司祭の高司祭任命に際して、法皇は奇妙にも、隣国でいいから外国でも経験を積みなさいと勧めたそうな。大司祭というのは国内で洗礼・儀式を執り行う司祭の最高位だが、国外でそれを行う司祭の最高位は高司祭と呼ばれる。各国各地の出張所や支部で働く者たちはこれら高司祭であったり、彼らの部下であったりする。後年、真忌名が枢機卿になった時に、それに反対した一部の者たちは、あの時もっと早く気がついて高司祭にさせなければこんなことにはならずにすんだのに、と地団駄踏んで悔しがった。大司祭・高司祭をまとめ、法皇の取り巻きとしてまた法皇の良き相談相手良き友人として司祭たちの頂点にいる枢機卿には、大司祭・高司祭の両方を歴任した経験がないとなることはできない。

 してみると法皇は、早いうちから真忌名を枢機卿にするつもりであったとみえる。

 反対派の真忌名嫌いは、ひとえに彼女が若すぎるということと、女であるということ、そしてなにより騎士であるということに由来しており、それはまったく真忌名からすればいい迷惑であった。無論、彼女のこの傍若無人でアクの強い性格が彼らの反対に拍車をかけていたのは言うまでもない。真忌名は歩いて一日程度の、外国とはほとんどいえない隣国で二年間高司祭を続けた。その間、騎士としての訓練を怠ることはできなかったがゆえに、週の内二日はエド・ヴァアスに帰国して訓練を受け、二日目の夜に急いで還って翌朝高司祭としての公務を執るという大変なものであった。周囲は真忌名のその若さゆえに、いずれ音を上げるだろうと高を括っていた。願わくば、司祭であり騎士であるなどという冗談のようなことは辞めて、どちらかに絞ってほしいと誰もが願っていた。予想に反して真忌名は、そんなことはまるで自分にとってなんでもないことのように平然として公務を務めあげた。その驚異的な体力と粘り強さで、真忌名は帰国した時にはマスターBBになっていた。真忌名は枢機卿会議に赴き、騎士としての訓練に専念する間、少しだけでいいから司祭としての公務を減らしてもらいたいと願い出た。隣国での意外にもすこぶる良い評判を幾度も耳にしていればこそ、彼らもこの申し出を無碍に断ることはできなかった。 結局彼らは八人でよくよく相談して後、法皇に意見伺いという形をとった。なんとなれば、枢機卿の数が偶数で票が真っ二つに分かれた時に頼りになるのは法皇の意見のみだからである。この時、枢機卿の内の数人は、法皇がいずれ真忌名を九人目、最後の枢機卿に推すのではないかと看ていた。そしてそれは現実となった。真忌名の申し出を枢機卿たちから聞いた法皇は、わずかに眉を上げて言った。

「マスターAAAまで上がる、と……真忌名がそういったのかね」

「は……」

 思わぬその言葉に、枢機卿たちは言葉を失って互いを見た。一番年長の枢機卿が言った。

「そこまで明言は致しませなんだが…………騎士としてもう少し昇格できるところまで自分の力を試したい、と申しまして……・・あれだけの実力者の言うことゆえ馬鹿を言うなとも申せまず」

「………………」

 法皇は小さくふむ、と呟いた。真忌名はマスタークラスに上がってから既に二度戦場へ赴き、そのおかげでエド・ヴァアスは兵をあまり失わずに済んだ。ノーマルクラスにいる頃の真忌名の戦場経験など、枢機卿たちはいちいち数えていない。

 結局、真忌名は週に二度、二時間だけ司祭の公務を務めることを条件に騎士としての訓練に専念することを許された。

 司祭たちと違って、騎士の同僚たちはあまり彼女を煙たがらなかった。女でも、言葉遣いは女のそれからは程遠いし、毎日毎日の訓練の中で剣を交わし、泥だらけになって転げまわってはあらゆる体術の訓練を受け、時には着替えすら一つの部屋でする彼らにとって、真忌名は女である前に同士の一人といえた。

「司祭をしながらこれからの訓練をするのか」

 案の定同僚たちの反応は真忌名の予想通りだった。

「仕方ない。あまりサボると色々言われるし」

「才能がありすぎるのも困ったもんだな」

「欲しけりゃやるぞ」

 こんな軽口も、今だから叩けるものだが、入隊当時は誰も口すらきこうとしなかったものだ。女騎士ということで周りも緊張していたものと見える。

 騎士は自らの意志によって人間の命を好き勝手にできるという特殊能力があるせいで、年若い者に対する嫉妬があまりない。彼らは、年齢が若ければ若いほどその者の致死率が低くなることを承知している。本人たちとて、数年の違いの若い頃から訓練を受けているのだ。だから、若い真忌名をよくこの年で来てくれたと思いこそすれ、嫉妬したり邪険に扱うなどということはしなかった。ただ女性だからどう扱っていいかわからなかっただけだ。

 騎士アレイは、そんな同僚の一人であった。

 十歳の時に入隊したというアレイは、入隊当時ちょっとした噂を呼んだ。騎士として子供が訓練の為に連れてこられる時期は十代前半、十三歳前後が一番多いというから、彼はまあまあ早いほうであったろう。真忌名は早すぎたといってもよい。アレイは十歳の若さで既に美少年と呼んで過言ではない完成された美を持っていた。

 水晶の彫刻のような繊細な顔立ち。それは、神経質な職人が手抜きというものを一切せずに、彫刻刀を入れるときは息すら止めて彫り上げたかのような、単に繊細なだけではない奥行きが見られる。見た途端、ハッとするほど明るい、翡翠のような瞳。柔らかな金の髪。

 同時入隊者よりも少しだけ年の若いこの新入りの案内を申し渡されて、同い年の真忌名は部屋に入って彼を見るなり首をかしげた。およそ騎士の、<宣告>の宿命を背負っている者の容姿とは程遠かったからだ。しかし座っていたその少年が、真忌名の気配を感じて顔を上げた時のその瞳の奥にある微かな翳を見出して、真忌名は自分の疑問を打ち払った。 生まれつきの千里眼が無意識に少年の過去を探りだそうとして真忌名はそれを止めた。 アレイは無口な少年だった。誰とも口をきこうとせず、なるべく一人でいようとした。 陰気な空気さえ、彼の周りにはあった。

 訓練生たちは彼に構わなかった。騎士候補生として連れてこられる前、彼らはその身に潜む騎士の能力ゆえに不愉快な思いを少なからず経験している。水に晒したささがきの牛蒡が意外にうまいなぞといって、生の牛蒡をぼりぼりとおやつがわりに無邪気に食べる真忌名の方こそが変わり者として扱われた。

 しかしアレイの周りに付きまとう影も、エド・ヴァアスでの生活が慣れるにつれて薄くなっていった。訓練生としての厳しい生活は、過去にこだわる余裕など容易に捨て去ってくれる。入隊時68キロの訓練生の体重は、一月後には50キロまで減るという。無駄な肉だの脂肪だのは、訓練生として真っ先に捨てるものというのが新入りをからかう常套文句と言われていた。

 真忌名は誰とでもよく話した。決して愛想の良いほうではないし、口数が多いというわけではなく人気者というのではないが、その面倒見の良さとさりげない心遣いは誰からも好かれた。初めて施設内を案内したのが真忌名ということと、歳が同じということもあり、アレイと真忌名はよく話す機会があった。

「お前出身はエド・ヴァアスか」

 アレイはある日の休憩中に聞いた。

「……まあね」

 彼女の少し間を置いた返答に別段なんの疑問も持たず、アレイは続けた。

「オレもだ。山を一つ越えた小さな村で育った」

「どんなところだ」

「どんなって……普通さ。山羊を飼ってて、狩りをして、あちこちで獲れた果物や工芸品なんかを年に一回近隣で開かれるバザーとかで売ったりするんだ」

「ふうん……楽しそうだな」

 真忌名はこの時心底そう思って言ったのだが、それを知らないアレイは単なるお世辞と受け取ったようだ。

「楽しいなんてことはない。生活に追われる日々さ。お前は?」

「―――――え?」

「どんなとこで育ったんだ」

「………………試験…………」

「うん?」

「いや……試験管のいっぱいあるところだ」

「試験管? ああ……実験とかするときのあれか」

 真忌名はうなづいた。

「ああそうか。お前は確かなんとかいう博士の元で育ったんだったな」

「ヴァーザフェスト」

「うんそれだ。養父だって言うんならなんでお前の名前もヴァーザフェストじゃないんだい」

「…………さあね」

 真忌名が珍しく言葉を濁した時、上官の休憩時間終了を告げる声がして二人の会話は中断された。

「養父はとにかく実験ばかりしていた人でな」

 そちらへ向かいながら真忌名は続けた。

「だから家にいる時の記憶で真っ先に浮かぶものはいつも試験管だ」

「なるほどなあ」

 司祭ならいざ知れず、騎士というものは真名そのものに親しむ機会が少ない。よって騎士たちがお互いに名を呼ぶ時は真名ではあることは滅多にない。知らないからだ。例え知っていても、真名は公共で大声で呼ぶものではないのだ。

 騎士候補生から騎士となり、真忌名は司祭の職務と騎士の兼任で目が回るように忙しく、またアレイもあちこちの国に短期赴任をしたりしてなかなか話す機会がなくなっていった。 しかし昇進試験のたび、二人が顔を合わせていたことは確かである。もっとも、真忌名は司祭の職務上、二回騎士の昇進試験を受けられなかったから、昇進はアレイの方が早かったということになる。

 日々が経ち、真忌名はある日マスターAに昇進した騎士が一人だけという噂を聞きつけ、興味に駆られて昇進した騎士の名前を張り出す掲示板を見に行って久しぶりにアレイと再会した。真忌名の顔を見て、アレイは破顔した。

「ラスティ。オレの昇進を祝いに来てくれたのか」

「………………」

 真忌名はちらりと掲示板を見てなるほどな、と言った。

「アレイリュコスとはお前のことか。アレイ。アレイリュコス。なるほどな」

「なんだ知ってて来たんじゃないのか」

「いや今知った」

 そんなやり取りをし、ラスティが、

「じゃあ私は司祭舎に行かないといけないから」

 と言うと、

「ラスティ。騎士を辞めたりしないよな」

 アレイが聞いてきた。いまいち質問の意味がわからなかったので真忌名は言った。

「アレイ。騎士はやめたりなったりできるものではない。初めからそうあるものなのだ。 マスターAの騎士殿が一体何を言われることやら」

「いやそれはそうなんだが……」

 アレイは言いにくそうに言った。

「ただちょっと心配でな」

「あ?」

「最近お前が昇進試験を受けていないという噂を聞いたんだ。司祭の職務ばかりに専念していると。オレはお前の実力はマスターといえどBクラスで留まるものではないと思っている。だからもし騎士として昇進を諦めたのなら、間違っているぞと言いたくてな」

「それはどうもマスター騎士殿」

 真忌名はにやりと笑って皮肉めいた言葉で返した。

「昇進試験を受けなかったのは受けられなかったからだ。案ずるな、すぐに追いつくから」

「ラ……」

「じゃあね」

 真忌名はアレイの言葉を最後まで聞かずにその場を立ち去った。司祭としての昇進を続けながら、同時に騎士として昇進していくのは肉体的にも、また政治的にも難しい。真忌名の存在を忌み嫌う者たちの風当たりをやり過ごすには、遮二無二突き進むだけではいかないのだ。それを説明するには、アレイはまだ純粋すぎる。そして多分、彼は騎士であるがゆえに、司祭であることの難しさがわかるとは思えない。それを説明するのが面倒になって真忌名はその場を立ち去ったのである。

 真忌名は次の年の昇進試験で昇進し、立て続けに次の試験も受けてようやくマスターAクラス入りを果たした。その後は、まるで今までの遅れを取り戻すかのように真忌名は騎士としての職務と訓練と試験に従事した。出世に熱心なことで、というあからさまな皮肉は、国内の司祭として高位にある大司祭となっていた彼女の前では言われることがなかったし、言われても多分真忌名はけろりとしていただろう。

 マスタークラスを順調に昇進していく日々が続き、ある日のこと。

 どうやら戦地に赴くことが濃厚になったらしい当事の戦局についてアレイと話しながら歩いていた時、訓練所の一つの内部から立て続けに怒声が聞こえてきた。アレイと真忌名は顔を見合わせて立ち止まり、ほぼ同時にその訓練所の扉に駆け寄っていた。

 中では若いノーマルクラスの騎士が言い合いをしていた。

「何事だ!」

 真忌名は声を張り上げた。

 マスタークラスである二人は、ノーマルクラスの騎士たちにとっては上官である。しかしこの当事、真忌名は自分の時間のちょうど半分を騎士として、またもう半分を司祭として活動していたから、つまるところ知らない人間から見れば不真面目な騎士であった。この若いノーマルクラスの騎士は、そんなこともあって平生から真忌名を軽視していた。

「これはこれはラスティ殿。おでましとは珍しい」

「何を騒いでおる」

 この若い騎士以外の騎士たちは、アレイと真忌名の二人に恐れをなしてみな静まっている。特に戦場で真忌名の恐ろしさを見ている騎士たちは、事情を知っていることもあってこの若い騎士の若いがゆえの過ちが軽いうちに済むように小声でたしなめている。この騎士は真忌名と戦場を共にしたことがないのだ。しかしそれを無視して、この若い騎士は真忌名に喰ってかかった。

「いいご身分ですね。なにしろ七日間の内二日しか騎士舎に来ないとあっては昇進も難しいと思っていましたが残りの日々をさぞかし有効に使っているらしい。女のごますりが通用するとは安い騎士団だ」

「何が言いたい」

 真忌名の目がキラリと光った。

「私を愚弄するのはいいが騎士たちを馬鹿にするのは許さんぞ。お主の何倍も厳しい訓練を受けて日々鍛えているのだ。安いはずもない。皆に謝れ」

「ですがその皆にはあなたも含まれているんでしょう。実際どういう手を使って昇進したのかは知りませんがうまくやったものだ」

 さすがに、ここまできて周囲の騎士たちが黙っていなかった。この若い騎士の他は全員真忌名の事情を知っているばかりか、その恐ろしい実力を熟知している者ばかりだ。

「何を言う! 上官に対して無礼だろう」

「口を慎め!」

 彼らは口々に言ったが、その彼らに対しても、この若い騎士は態度を改めずフン、と鼻で笑ったのみだ。

「口で言ってもわからんようだな。口で言ってもわからんのは人ではない、獣だ」

「何!」

「獣を調教するのには言葉ではなく力でせねばならん。抜け」

 真忌名は側にいた騎士の腰から短剣を引き抜くと構えもせずに言った。

「どうした。女が相手では戦うこともできないか」

「!」

 若い騎士は簡単に挑発に乗った。

 剣を引き抜き、真っ直ぐにこちらへと突き進んでくる。サッ、と周りのものが退くのも、この若い騎士が飛び掛ってくるのも、真忌名にはひどくゆっくり見えた。なるほど腕は立つようだが、所詮はノーマルクラスの腕だ。

 殺してはならない、殺してはならない、心の中で呪文のように呟きながら、真忌名は細心の注意を払って襲い掛かってきた剣を片手で薙ぎ払った。

 ブン、と低い音がして、アレイ以外の騎士たちには何が起こったかわからなかったと後に供述しているという。

 結果としては、この若い騎士は思いきり吹っ飛んで壁に叩きつけられ、肋骨を数本折るというものに終わった。

「手当てしてやれ。ついでに上官に対する礼儀作法も教えてやるんだな」

 言い捨てて、真忌名は訓練所を出た。

 後日真忌名は、戦時を目前にしてノーマルクラスとはいえ騎士を負傷させたことを追及された。その真忌名を庇ったのはアレイだった。真忌名は後で知ったことだが、アレイはだいたい次のようなことを言ったという。

「今回あの騎士が戦地に行かなくてよかったのは、彼にとってもエド・ヴァアスにとっても幸運なことでした。今回彼が出兵していたら、間違いなく彼は戦死していたでしょうし、だとすればエド・ヴァアスは貴重な騎士という人材を確実に一人失っていたからです」

 マスタークラスのアレイの言葉と、当事そこに居合わせた騎士たちの証言もあり、真忌名のしたことに関しては不問ということで決着がついた。その代わり、上官に対しての礼を知らなさ過ぎるというアレイの厳しい言葉と、真忌名の、指揮官たちは最近若い騎士達に対して随分甘いようだという皮肉を受けて、訓練指揮官たちが大いに恥をかいたということで例の若い騎士には厳しい訓告処分が下された。

 のちに、この若い騎士は、真忌名が司祭であるということはなんとなく聞いていたが、まさか本当に洗礼を施す司祭ではなく、それを手伝う意味で司祭と呼ばれているのだと思い込んでいたらしい。騎士が司祭であるなどとは考えられない、彼は当事語ったという。

 そしてマスターAAA昇進試験。これは三ヶ月にも及ぶ過酷な試験である。

 文字通り影のごとく審査を進める、こちらからは姿も顔も決して見えないマスタークラス専門審査団が、自分たちを二十四時間で監視している。天井裏、壁と壁の間、彼らはありとあらゆる場所にいてマスター試験を受ける騎士たちを審査しているのだ。

 最上級の騎士としての自覚と品格、体力は無論のこと、<宣告>の際に設けられる厳しいを通り越して不可解な程の高い基準をクリアせねばならず、語彙の使い回しや単語にも騎士としての気品と知性を要求された。昼夜を問わず襲ってくる刺客や魔物を警戒している為に神経はぼろぼろになり、それらがいつ来るかわからないのでおちおち眠ることもできない。それらを返り討ちにしても、殺し方も審査基準に入っていて、あまりにも見苦しい殺し方をしている場合はいかなる例外もなくその場で失格となる。また日によって相手を倒すのは剣のみが許される日や、<宣告>することだけが許可されている日などもあり、これもやり方を間違えると即刻失格となる。これは寝不足から来る集中力の低下が招く昇進試験中の一番の悲劇で、真忌名も二回ほどこの間違いを犯しそうになったことがあった。 試験に臨んだのは八人だったが、終わる頃には四人にまで減っていた。

 マスターAAA、それはすべての騎士が憧れる騎士の中の騎士。騎士の最高峰。

 だからこそ、間違いや踏み外しがあってはならない。絶対のものであるには、また絶対の実力が要求されるのだ。故に、絶対の精神力を昇進試験中に培ったマスターAAA合格者は、昇進後極限状態における失態というものを犯すことがない。それはどの王国でも例に漏れないことだ。

 マスターAAAの騎士を持つことはどんな王国にとっても最高の栄誉、それだけに、彼らがプレッシャーに負けて何かをしでかすようなことがあってはならないのだ。

 そしてその三ヶ月の試験が終わり、不正を防ぐ為結果はその日の内に出される。試験が終了するのは日没までと決まっているが、結果が出るのはだいたい二時間から三時間後である。試験を受けた騎士たちはその間、あらゆる監視の目からようやく解放され、刺客も魔物も襲ってこない入浴を楽しみ、毒の混入している恐れがあるかないかを確認しなくても良い食事を楽しむのだ。

 結局、最後まで残った四人全員が昇進試験に合格した。

 掲示板の名前を見上げて、真忌名はにやりと笑ってアレイに言った。

「言ったであろ、」

 同士たちに肩を叩かれながら、アレイは真忌名を見た。

「すぐに追いつくと」

 そして就任式だが、これは試験を受けた後の労いの意味も込められて、『合格者全員が起き次第』という心憎い慣習がある。それを裏付けるように、四人の合格者が泥のように眠って起きたのはおおよそ十日後であったという。

 法皇直々のマスターAAA就任式の後、真忌名はある種の確信を持って国内で大司祭としての公務にも励み、半年後法皇の推薦で枢機卿となった。エド・ヴァアスで長年空席だった最後の枢機卿、九人目の枢機卿である。

 そしてあの事件―――――。

 誰もが自分に降りかかる災いを恐れて真忌名を無視したあの事件後、裁判でなにものをも恐れずに彼女を庇ったのはアレイだけであった。彼は言った、

「騎士ラスティは誰にもどこにも憚ることのない立派な騎士である。態度はでかいし言葉遣いも変わっていて彼女を敬遠する者が多いのは認める。しかしそんなことは彼女を現わす真実とはならない。私は誇り高いエド・ヴァアスのマスター騎士として、私よりも優れた騎士ラスティを援護する」

 アレイは、ラスティが盗賊たちに対して行った処置は、残虐と言われればそれまでかもしれないが、彼女は決して無意味に、或いは歓心でそういうことをする騎士ではない、必ずそうしなければならなくてやむをえずそうしたのであり、なぜそうしたのかという理由を言わないことそのものは自分にはわからないが、言えないだけの理由が必ずあるはずだと熱弁をふるった。にも関わらず、結局真忌名が放逐されたのは、普段の彼女に対する世間の嫉みの強さといってよかろう。アレイ一人の弁護ではどうしようもなかった。

 追放の朝、荷物をまとめてひっそりと騎士舎から出ようとする真忌名を、アレイは呼び止めた。

「行くのか」

 真忌名はふふ、と笑った。

「行くのではない、行かねばならんのだ。もうここの騎士ではなくなった。ここにはいられない」

「しかし……!」

「お前は充分すぎるほどよくやってくれた。もうあまり私のことに関してここで騒ぐな。 煙たがられて邪魔にされるだけだ」

「ラスティ…………」

「嬉しかったぞ、宗教裁判のような特異な場所であれだけ私を庇ってくれる同士がいようとは思わなんだ。礼をしたいが物で報いるのも違う気がする上今の私には何もない。アレイリュコス、私の真名は真忌名だ」

 アレイはハッとなった。その顔が喜びで見る見る上気し、赤くなっていくのがわかる。

「真忌名。オレの真名は鞠村だ」

 わかった、と低く応えて、真忌名は歩き出した。

 それは言葉だけのやり取りだった。

 言葉だけのやり取りだったが、二人の友はそれがなにものにも代えられない贈り物だと知っていた。

 鞠村は、真忌名の姿が見えなくなるまでその後ろ姿を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る