第三章 5

「真忌名様」

 いきなり現実に引き戻されて、真忌名はハッとなった。

「到着でございます」

「―――――」

 真忌名は幾分放心した面持ちで顔を上げた。自分は一体どれだけの間過去を回想していたというのだ。〝緑〟の教団の儀式を特別に通過させてもらったことまでは覚えている。 これで合計山を二つ越えたことになるが、その後の谷三つというのは考えてみればそう大変なものではなかったのかもしれない。

 鞠村のことを考えていて時間を忘れたということか。

 表に出て嬉しそうに伸びをするゼルファと、突然やってきた大型の馬車を遠巻きにして見ている村人とが見える。真忌名は降りながら、

「飛ぶな。あの娘が後々好奇の目にさらされるかもしれん」

「かしこまりました」

 真赭は答えてからするりと地面に降り立ち上がった。しかし、この使い魔が歩いている間中、とうとう彼女の着物が汚れるようなことはなかった。

 響子の静かな声が、馬車の中に向かってなにやら指示を出している。ギッ、ギッ。という木が軋む音が幾たびか聞こえた後、是親ともう一人、これはゼルファの知らない男が大きな担架のものようなものを運んで出てくるのが見えた。

「寄家。ご苦労」

 真忌名が声をかけると、寄家と呼ばれた青い直衣を着た使い魔は立ち止まって会釈した。

「修美」

「お側に」

「あの娘の名前はリセラだ。親でも婚約者でもとにかく探してこい。家に入れてやらねばならぬ」

「かしこまりました」

 修美が手で小さく合図すると、馬車の背後にいたものか、数人の人相の良い男たちが連れ立って彼女についていった。よくよく見ると、それらの使い魔たちが青い直衣を着ていることがわかる。色はまちまちで揃いではないが、みな青系統の着物である。そういえば真赭も響子も修美も、瓊江も真忌名も、模様も様式も素材も違うが、みな着ているのは青い服である。

 その使い魔たちがそのままあちこちの村人に何か話しかけているのが見える。

 時間は昼過ぎで人通りも多いし、こんな大型の馬車は見たことがないのであろう、大勢の人が家の中から出てきてこちらを見ている。この分ではリセラの両親なり婚約者なりが見つかるのは時間の問題だろう。

 しばらくして修美が別の使い魔たちと戻ってきた。

「ご案内申し上げます」

「ん」

 真忌名は響子に視線を送りうなづき、自分はさっさと歩き出した。ゼルファは響子が是親と寄家にゆっくり、と指示を出すのを見ながら自分も歩き出した。

 村としては中くらいの、特にこれといった特徴のない村である。ただ山間でもっと小さくて貧しいのだろうなというゼルファの期待を裏切って、そこそこ大きいことにはおどろいた。貧しくないといえば嘘にはなるだろうが、食うに困るというのでもなさそうだ。ただ、若い人間がずっといたい場所かというと違う気がする。手っ取り早く金を稼ぐなら、やはりもっと賑やかな都会のほうがいいに決まっている。

「なるほどねえ」

「おかしな感心をしているの」

 歩きながら真忌名はゼルファを見た。

 真忌名は、この少年の内に潜む大きな才能を知っている。また、絶えず変化する予測のしづらい未来に目を馳せても、いかなることがあってもこの少年の未来が変化しないことがわかっている。

 国王、英雄、芸術家、これらの種類の人間は、大成する人物であればあるほど、予測不可能な未来というものを持たない。

 英雄として生まれ英雄になるために生まれた者は、偶然の左右する運命のいたずらによって『英雄になることはない』ということはないのだ。

 未来は絶えず動くものである。だから、未来を予測することは難しい。逆に言えば、そんな予測しにくい未来という大きな風の流れの中で、これらの人間は吃として立つ大きな大木のようなものだ。風の流れは変わるが、その中で大木の存在は揺るぎないものである。 真忌名は、いかに現在が揺れ動いてたった今あるべき未来が変わったとしても、ゼルファの未来が変わらないことを知っている。しかし、それを彼に言うことは賢明ではない。 彼はもう少し、自分の人生と戦い、翻弄され、内なる怒りと憎しみと折り合いをつける術を知らなければ、真忌名の見る未来の彼とは違った彼となるであろう。それでも大成することには変わりはないが、それは誰にとっても好ましいものとはいえない。

 自分といることでこの少年がどうなっていくのか……真忌名はその過程を見ているのが面白くてたまらないのだ。

「なんだよ人の顔見てニヤニヤして」

「別に」

 ある家の前で立ち止まりこちらを待っている修美を横目で見ながら、真忌名はゼルファを見た。

「……なんだよう」

「ふふ。別に」

「ちぇっ、なんか変だな」

 修美の訪いに応えて、家人が中から出てきた。背の高い、若い男である。修美が何か言うごとに、彼の顔色が変わり、その顔が険しくなっていく。

 真忌名が近づいて彼に言った。

「お初にお目にかかる。エド・ヴァアスのラステラヴュズィ・真忌名・ヴァカリオンと申す。この度はこちらの不手際でこのようなことになり申し訳もござらぬ」

「一体……」

「響子」

「はい」

 180センチの真忌名の少し後ろに174センチの響子が並んで、男はギョッとなった。

「貴殿の婚約者は私に忘れ物を届けようとして、私に射込まれた毒矢に当たりこのようなことになってしまった。申し訳ない。ラステラヴュズィ・真忌名、この通り謝罪に参った。 重ね重ね申し訳ない」

 真忌名が深々とその頭を垂れると、その傍らにいた響子、担架を運んでいた是親と寄家、側にいた修美、瓊江、地面に座っているようで地面すれすれの場所に浮遊していた真赭、これは手をついて、全員が頭を下げた。壮観であった。

「あ……あの一体……毒矢って…………リセラ…………」

「まずは彼女を中へ。外気に当たりすぎるのはよくありません」

 響子が言うと、その冷たい容姿に圧倒され、婚約者は、

「え、あ、は、はい。じゃあ……中へ」

 響子がうなづき、振り返って是親に合図を送ると、是親もうなづいて進んだ。

 


 リセラをベットに運び、婚約者のディルと名乗った男は、食堂のテーブルでゼルファと真忌名に紅茶を振る舞った。律儀な彼は響子や修美、是親や真赭や寄家にまで紅茶を出そうとしたが、家の中に入って衆人環視の目がなくなり真忌名にご苦労、と言われた途端に消えてしまった彼らを見て絶句していた。

 真忌名はエド・ヴァアスの引退騎士であるということをディルに告げた。騎士と聞いて一瞬青ざめたディルであったが、婚約者をわざわざ山二つ谷三つを越えて運んできてくれた彼女の義理堅さに思いが及んだのであろう、何も言うことはなかった。引退騎士ゆえに狙われることも多く、というのは、今回の場合は嘘ではあったが、狙ってきたのが誰でどういう目的かわからないまま話を進めるわけにもいかないと思ったのか、そしてまた真忌名が真忌名であるが故に狙われたということもあながち考慮に入れられないわけでもない上、引退した騎士というのが利いて、ディルは何も言うことがなかった。

 現在、リセラの状態は快方に向かっているということである。

「響子、確かか」

「はい。医療に手馴れた者が終始側にいて看病致しますのでしたらもう何の問題もないかと思います。毒が抜けましたゆえ」

「誰が一番適当だ」

「法艫と存じます」

 真忌名は正面を向いた。そのすみれ色の瞳はある一点をじっと見つめている。

「法艫、いるか」

 スッ……

「お側に」

 現れたのは中年の姿をした銀髪の男である。濃緑地に、銀糸で刺繍の施された毘沙門亀甲の直衣を着ている。

「聞いていたか」

「は。一言残らず」

「では役目もわかっておろう。あの娘は婚礼を控えておる。身体に傷の残ることのないようしかと看病してくれ」

「かしこまりました」

「病人は若い娘だ。お前がいくら中年のなりとはいえおかしな噂が立っても困る。誰か助手をつけよう。誰がいい」

 法艫は首をわずかに傾げて少しだけ考えていたが、すぐに、

「では、夜凪を」

 と言った。

「夜凪」

 スッ……

「はい」

「そういうわけだから二人で夫婦の医者ということにして看病を手伝ってくれ。頼んだぞ」

「かしこまりました」

 夜凪は中年の、ふっくらとした女の姿をした使い魔である。黒い髪を無造作に束ね、身なりも気軽な出で立ち、背もそれほど高くなく、ぽっちゃりしていてマシュマロのようだ。 ちょっと見には、人のよい農家のおばさんくらいにしか見えない。

 真忌名はこれらのやり取りを見て呆気に取られていたディルに向かって、

「騎士ゆえのこと……驚かないで頂きたい」

 と言い、さらにこの者たちは使い魔なので食事などの面倒は一切不要、なんでも言いつけてほしいと言った。

 面食らっていたディルであったが、生来順応性が高いのか、それともあまりものにとらわれないのか或いは単に考えていないだけなのか、真顔になってわかりましたと応えた。 そしてなんとなく話をそらしてやろうと気を使ったゼルファが、一人で住んでいるんですかと聞くと、

「僕もリセラも早くに両親を亡くしているんです」

 と言った。

「流行り病で。僕の世代の村人の三分の一はみんなそうです。小さい頃から親がいなくて寂しいとお互いに慰めあって、だから、リセラと一緒にいるのは僕にとっては自然なことなんです」

「そうか。…………結婚するのはいつであったかの」

「来年です。リセラは式はエド・ヴァアスの大聖堂で挙げられたらいいねなんて言ってましたけど…………一応応募はしたんですけどね、まあだめでもともとで」

「おやもう応募の時期か……何通出した?」

「五通です」

 ディルは言ってからハッとなった。

「エド・ヴァアスの方でしたよね。もしかして誰かに口利きとかしてもらえるんですか」

「いや……残念ながらあれは厳正な抽選で行われる。応募の葉書を大きな箱に入れてな、先に錘のある棒を入れてひとつずつ引いていく。口利きできるならしてやりたいところだが」

「そうですよね。まあリセラも、そんなズルして選ばれても喜ばないと思います。くじ引きで当たるから嬉しいんですよ」

「なるほどな」

 真忌名は言い置いて、ちょっと考える顔になった。それを見て、ゼルファはまた何かものすごいこと考えてるな、と思った。その予感は当たった。

「真赭」

「お側に」

「去年の応募数は幾つであった」

「はい。去年の応募数は総計で百五十七万八千九百二十二通でございます」

「で、その内五組か。複数応募はあったのであろう?」

「はい。ございましたが当選した方々はだいたい百五十通前後、お二組様は十通程度しか応募なさらなかったそうでございます」

「くじ運か…………」

 真忌名は沈黙した。

「第五層で特に字の達者なのは誰であったかな」

「はい。水刃と自根、額経が相当すると思われます」

「ではそれに加えて柾阡、緋英、颯、彪鐔、黒瀧、爾瑚智、葦穐、有籐、堵伊瀬、宝木、麻鋳都、俊恒、鏑、息康、壬茄、耶枝、留亥、尭時、青葉、玉藻、照梅、美津をあたらせろ」

「かしこまりました」

「ノルマはそうだな、安全圏といったところで……百五十七万だから……一人五千枚だな」

「五千枚!?」

「早速始めさせます」

 ゼルファの驚き、何が起こっているのかいまいちわからないディル、その二人の動揺などまるでないかのように、真赭は真面目くさって答えた。

「大きな声を出すでない。では我らはこれで失礼する」

「え……でもあの」

「旅をしていて急ぐ上大所帯で世話になるわけにも行かぬ。達者でな」

 さっさと家を出ると、真忌名はそのまま歩き出した。追いついたゼルファが周囲に聞こえないように、しかしたしなめるような声で言う。

「一人五千枚葉書書かせるのかよ!」

「おやさすがに慣れていると理解も早いのう。応募は年々増えるという話を司祭の一人から聞いたことがあるから、十万通を越えるくらいの数ではないといかぬ。絶対安全圏でなくては意味がないのじゃ」

「それにしたって五千枚って……」

「案ずるな。人間ではない、第五層の悪魔がやるのじゃ。皆字の達者な者ばかりゆえ安心いたせ」

「安心いたせって……」

「後はあの二人のくじ運じゃ。期せずして命を懸けて救われたことに間違いはない。それくらいはしてやらねば」

「絶句……」

 ゼルファは思わず立ち止まり、馬車へと向かう真忌名の背中を見つめていた。

 そしてふと突然、彼女の真名のことについて思いを馳せていることに気づいた。

 真名というものは、ふつうその人間の誕生を祝福して、見場のいい字やその者になにか関わりのある意味のある字を選ぶのが一般的とされている。

 例えば、響子。

 『響』という字は、字が持つそのものの意味よりも深い味わいのある字とされている。 そして大抵、『子』というのは高貴な生まれの女子につけられるものである。

 真赭。辰砂、といえばいいのかもしれない。かわいらしい童女の姿で、いつも赤い打ち掛けを身につけているが、その実力の恐ろしさも名前の意味が丹というのならうなづける。

 そしてその名前の持つ、なんとも涼やかで知性溢れる響き。このような繊細かつ美しい音の名前は大陸広しといえどそうお目にかかることはあるまい。

 瓊江。なんというたおやかで、気品とやわらかさのある名前であろう。瓊というのは玉のことである。つまりとても貴重で美しいものということだ。江というのは海を現わすが、なるほど春の女神のような瓊江は、日の光を背にうららかに微笑む春の入り江の化身のような姿である。

 このように、真名とその真名の持ち主はなんらかの意味合いで繋がりを持っている。

 ―――――真忌名。

 ようく考えを巡らせてみると、この名の持つ、なんという禍々しく不思議な響き。

 真名とは、その者の誕生を祝福する意味から美しい響きのものや見場のよい字を当てるものであったはずだ。真忌名。これは一体どういう意味なのか。

 真に忌まわしき名?

 だとしたらそれは、ゼルファの知っている真名の常識の中でももっとも歪んだものだ。 なんの祝福も、期待も、喜びも伝わってこない。

 しかしゼルファはまだ知る由もなかった、その真名の深奥にある、彼の憶測よりももっと深くて恐ろしいその真実の意味を。


 話は変わるが一年後、エド・ヴァアスで開かれた大祝祭で、その年抽選で選ばれた五組の男女が法皇の祝福の元で婚姻の儀式を挙げた。ちなみにこの年の〝白〟の信者は五組中一組だったそうである。

 それぞれ形の違った純白のドレスを纏い、五人の花嫁は式が終わった後も上気した顔のままそれぞれの家族や友人が執り行うパーティーに出席した。

 その内の一組―――――この男女の出した葉書を引いた司祭はその字のあまりの達筆さに瞠目したと言うが―――――パーティで友人にこう語った。

「法皇さまは思っていたよりもずっと柔和な感じの方だったの。法皇さまは私たちに祝福をしてくださった後、手にキスを許してくださったのだけれど、法皇さまの手はとてもいい匂いがしたわ」


 この花嫁は、エド・ヴァアスから山二つ谷三つ越えたところから来たそうな。



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