第四章 1
「―――――で?」
ゼルファは呆れるを通り越して、もうかなりどうでもいい気分で、座敷の隅に座り、肘をつき、冷たい果汁の最後を飲み干した。今日は冬にしては暖かく、ちょっと歩くと汗がにじんでくる。カロン、と細長いグラスに残っていた氷が音をたてた。
「で。とは」
「いやだから」
ゼルファは座りなおした。正面に座る真忌名、これはいつもの鎧の旅姿ではなく、どこぞの会社の事務服を着ている。ブルーグレイのブラウスに、薄いグレイの、身体にぴったりつくタイプのスカート。丈はいかにも中途半端で膝下まであるが、長身の真忌名が着るとその辺の地味な事務服も変わって見える。宿を決めてしばらく真忌名が帰ってこないのでなにをしているのかと思えば、真赭に言いつけた食事の場所で真忌名が向こうから歩いてくるのを見たゼルファは持っていたメニューを落とした。
「なんてカッコだよ~」
「お前は私が何か着ると決まってそれだのう」
「―――――」
言葉もないゼルファを無視して、真忌名は自分の注文をさっさと済ませてしまった。
食事を終えて、ようやく頭のすっきりしたゼルファが聞いたセリフがこれである。
「―――――で? どうすんの。っていうかなんでそんなカッコしてんの」
真忌名はこの日、ある小さな貿易の会社の事務を臨時で募集しているのを知り、どういう小ずるい手を使ったのかは知らぬが、そこで事務の仕事を数週間することになったのである。
「だからオレが知りたいのは、なんでそんなことするのかなって」
「どうもこの前私を狙ったあの紫の矢…………気になるのじゃ。それがわかるまではしばらくおとなしゅうどこかに潜るのが一番」
「いや……あんたが地味に、とか目立たないように、とかするのって無理だと思うけど」
「うん?」
「いや…………自覚がないみたいだからいい」
真忌名は背が高い。
数え切れない修羅場をくぐってきた人間独特の弓のように張りつめた空気、それでいてまた達人だけが達することのできる、張りつめたなかにも柔和な雰囲気。それだけでも人は真忌名を常人とは見ないであろう。それは騎士、最上級の騎士の持つ品格だからだ。たとえ道行く人が真忌名を騎士と知らずとも、その迫力には誰でも容易に気がつくであろう。 ピンと伸びた背筋、絶えず周囲に配られる鋭い視線、幼い頃から騎士として振る舞うことを常としてきた真忌名にとっては、それがふつうなのだ。
そしてその瞳。尋常ならざる、すみれ色の瞳。その瞳に宿る強い光、時折見え隠れする、獣の光。鎧を着ていれば、それこそが本来の姿であるがゆえに人は目で追ったり振り返ったりする―――――しかしそれは勇壮であったり美しかったり珍しかったりするからで―――――が、まるでちぐはぐな格好をしていると、その時に表現として使う『目立つ』という言葉は、前者のそれとはまるで違う意味を持っている。
鎧甲冑に身を包んだ戦士が道端で花を売っているのを見たときのようなぎょっとする目立ち方をしているということに、多分真忌名は気づいていないのだろう。しかしゼルファはこうも思う、
この女は多分こういうことをしてみたいんだろうな。
と。
いつだったか真赭が、真忌名は七歳だかそれくらいの時から騎士として司祭としてエド・ヴァアスにいるという。それはすなわち、ほとんどふつうの生活をしてこなかったということになる。あれをしてみたいこれをしてみたい、しかし騎士という致命的な能力の為にそれはしてはならないという自制が、引退という形で弾けたのだろう。
と、二人が昼食を終えた頃であったか、是親が入り口から歩いてくるのが見えた。
「真忌名様」
「ご苦労。何かわかったようだの」
「は。先日の紫の矢の件でございますが」
「ほう……」
「―――――やはり〝紫〟の教団のものと判明しましてございます」
真忌名は大して驚くわけでもなく、伏し目がちになってテーブルに手をついたのみだ。
「ふ。やはりな」
真忌名は足を解いてくつろいだ姿勢になりながらさらに言った。
「しばらくおとなしゅうしておったに…………また騒ぎ始めたか」
「は…………いかがいたしましょうか」
「ほっておけ。相手にするべくもない」
「……は…………」
「是親。不満そうだの」
「いえ、そのような…………」
「顔に書いてある」
無表情が常の是親の顔に、一瞬動揺が疾った。
この使い魔は、真忌名の身を案じているのだ。真忌名を取り巻く危険や彼女を狙う刺客は決して一方向から来るものではない、無論第五層の悪魔たちがやろうと思えば、真忌名の身を護ることくらいはものの数ではない。真忌名を付けねらう相手は人間であり、彼らは人外の最高峰の内の一、第五層の悪魔なのだ。
しかしそれも、真忌名が極力やめるように命令しているのでは手も足も出ない。是親に不満があるとしたら、それは主の身を案じてのことなのだ。
「一体何の話?」
氷を噛み砕きながらゼルファが聞いた。是親がハッと顔を上げ、真忌名の連れである彼に対して何の説明もしなかった非を詫びた。
「〝紫〟の教団…………て……あんまり聞かないけど」
そんなことには構いもせずゼルファは続けた。この真忌名の恐るべき使い魔たちは、本来ならばゼルファなどは自分たちが歯牙にもかけない相手であるにも関わらず、彼の肉体と魂の奥深くに宿る能力と、真忌名の連れであるということを何よりも考慮して、彼に対する礼を崩さない。またゼルファも、それをよしとして受け止め、別段驕った態度に出るわけでもなく至ってそれを普通に受け止めている。
「〝紫〟の教団とはな」
真忌名が食後の緑茶をうまそうに飲みながら口火を切った。
「現存する世界とは明らかに間違った基礎によって構築されている、と固く信じ、それゆえにこの世界にあるすべての者も一掃されなければならないと信じて世界崩壊の日を待ち侘びておる阿呆な連中のことじゃ」
「阿呆って……」
ゼルファは真忌名の絶妙な言い回しに苦笑しながら、
「でもそれとあんたと一体なんの関係があるっていうのさ」
真忌名は右手でそのこめかみをつんつん、と叩いた。
「この瞳じゃ」
「目ぇ?」
ゼルファの素っ頓狂な声に、周囲の数人が思わずちらりと目を向ける。
「そう。この紫の目。奴らは世界が終末の炎で焼き尽くされ、無に還る日を今か今かと待ち侘びておる。そしてその混沌と混乱の中、新しい秩序で世界を支配するのが自分たちだと信じて疑わぬ。しかしそれには何か媒体がいる。奴らが崇めるは紫。混沌と高貴を象徴する色。この紫の瞳を以ってしてその媒体としようというのじゃ」
「……要するにあんたを操り人形にしてその後ろっから世界を支配しようっての」
「まあそうじゃ」
「ふーん」
あまり感心した風でもなく、ゼルファは後は何も言わなかった。あまりにも現実離れし過ぎていてピンと来ないのだろう。
そしてチラリと真忌名を盗み見た。
その瞳。確かにその濃い紫に魔性を感じないと言ったら嘘になる。
水晶のように透き通った、濃いすみれ色。それは、今まで彼が見てきたどの紫水晶よりもずっと澄んだ、淀みのない色をしている。それでいて時折見せる獣のような危険な光は、神聖というよりは魔物のそれに近い。無論真忌名の常人離れした能力も、〝紫〟の教団の妄想にも近い思い込みに拍車をかけているのだろう。司祭にして騎士、騎士にして司祭、そして司祭であり騎士でありながら、同時にまた魔術師であるという。もしも〝紫〟の教義が世界の破滅であり、それが特別美しい紫の瞳を持つ者を媒介としての破滅ならば、教団の連中が真忌名を掌中に入れんと目論むのもうなづける。彼女にはそれだけの要素があるからだ。
「さて私は戻らねばならん。昼休みが終わってしまう」
「はいはい」
真忌名が去ってしまうと、ゼルファはやることがなくなって辺りを見回した。
「―――――」
昼間の食堂。この中の一体どれだけが、自分の真名に満足して日々を暮らしているというのだろう。自分は、この真名が汚らわしくて憎らしくて仕方がない。そしてこの真名が自分を自分たらしめているというのが一番やるせない。嫌悪しているものが自分そのものを現わすものだとは、なんたる皮肉。真名を変えてもらいたくて真忌名と共にいる、という目的を時々忘れてしまうのは、彼女といると自分の歌の内容に磨きがかかるからだ。それを裏付けるかのように、彼女と出会ってから向こう、歌の数は両手では数え切れないほど増えてきたし、声の調子も良い。経験が声を作っているのだ。時々忘れてしまうが、次に真忌名と食事をする時にでももう一度切り出して見よう。今度こそは、両親の思惑など知ったことではないと言おう。その思惑こそが自分を憎悪する肉体の塊に貶めているのだということを言おう。
やるせない気持ちを抱えたまま、林檎をかじりながらゼルファは自分を今夜歌わせてくれる酒場を探すために食堂を出た。
真忌名は案外早く仕事を辞めた。クビになったと言ったほうがいいだろう。なにしろ態度はでかいし、来客に対する口の聞き方を知らぬし、事務の処理どころか書類の整理もできないのでは無理もなかろう。一度など、職場の人間に、
「カステラ? うまそうな名前だな」
と言われ、
「…………カステラではないラステラヴュズィだ」
と言い返したところ、その男と口論になり、こてんぱんに言い負かしたこともあったという。
なんていうか、とゼルファは思った。
(身の程を知らないよなあ…………オレだったら死んでもそんなことしないぜ)
それが相手が騎士だと知ったら相手の男は一体どうしたことであろう。騎士と口論などしてしまったら、相手の感情に任せて<宣告>されてしまうのではないか、という恐怖が民間人にはある。だからこそ、騎士は騎士と名乗った途端人々が走って逃げ隠れてしまうほどの恐怖の対象なのだ。
しかし一旦身近にいてよく観察すると、そのような一時的な感情の揺れで<宣告>してしまうほど騎士が未熟な存在ではないということも、ゼルファにはわかってきている。それは騎士の持つレベルに関係なく、多分騎士になるための教育課程で徹底されていることのように思えるのだ。騎士という生き物は、完全に感情をコントロールすることから始まる存在である。それが例え最低レベルのノーマルクラス Cでも真忌名のようなマスタークラスAAAでも、そういったランクとはまったく関係のないことなのだ。
クビになってその足で食堂にやってきた真忌名は、
「今日からヒマだのう…………どうしたものか」
と、事務服を着たまま億劫げな顔で言った。
「それはそれとして」
ゼルファは身を乗り出した。
「なんじゃ改まって」
「あんた、いつになったらオレの真名変えてくれるんだ」
真忌名がおや、という顔になった。
「まだそんなことを言うかお主は」
「今日ははぐらかされないぞ。嫌なんだよ。親がくれたものって言うんだろ。でも嫌なんだ。憎い。どんな事情でも子供を捨てる親は犬猫にも劣る。そんな親がくれたものなんて、どうしてオレが大事にしなくちゃいけないんだ」
「………………お主真名をくれた司祭には会ったのか」
「転任してたよ。だからオレは自分の真名の由来も知らないしその向こうの秘密も知らない」
「誰か代わりの者が引き継いでおるはずじゃ」
「その出張所は潰れちまったんだ。オレがいた孤児院の辺りは貧しいし人があんまりいなかったからな。孤児院の人たちも随分探してくれたけど結局見つからなかった」
「困ったのう」
真忌名は眉を寄せてまんざら嘘でもないような口調で言った。
「ちょっと聞くがどこの教団じゃ」
「え……」
「いいから言うてみい。色は」
「う…………黒…………」
「『不惑の教団』か。どれ」
―――――
真忌名はゆっくりと目を閉じ、そしておもむろにその瞳を開いた。そしてもうその瞳は、目の前に座るゼルファを見てはいない。千里眼は地を越え時を越えて、その〝黒〟の司祭をめまぐるしい速さで探している。
〝黒〟の司祭、司祭、司祭………………
彼女がなにをしているかを大体のところで察して、ゼルファは居心地が悪くなった。そんなことをしてくれと言っているのではない、真名を変えてほしいだけなのだ。彼はこの女との旅の最初の方で、彼女に真名を縛られて身体の自由がきかなくなるという体験をしている。真名を知り、その向こうの秘密を知っているからこそできる芸当なのだ。だからこそ、通常の司祭が冒すであろう危険を避けて真名を変えられるだろうという目論みがあってのことなのに、どうしてこんなことまでしようというのだ。理解できない。
〝黒〟の教団は別名『不惑の教団』と言われている。平和と共存とを教義とし、そのシンボルである黒はなにものにも染まらないというところからきている愛称である。〝白〟の教団と同じく、その馴染みやすさとわかりやすさで世間の人気と信頼は高い。
―――――おや…………
………………見つけたぞ………………
―――――しかしこれは………………
真忌名のすみれ色の瞳には、人知れぬ山奥で突然心臓がおかしくなりそのまま息絶えてしまった黒衣の司祭の姿が映っている。
―――――年寄りが無理をするからじゃ
おや……
この男の魂はまだ彷徨っておるな
抱えた真名の秘密を誰にも継承しなかったことがよほど心残りと見える
―――――殊勝な……
ならば助けてやろう………………
しかしこの少年の存在の秘密だけはもらっておこう………………それが条件 じゃ
少しだけ抗議するように抗う感触が感じられた。しかし自分の立場をわきまえているのであろう、それはすぐに静かになった。
ならばお主がこれはと思う者のところまで連れて行ってやろう…………
そして真名の秘密を受け渡すがよい
司祭の魂が彷徨っていては恰好がつかぬからのう
―――――
「よし」
突然姿勢を正して戻ってきた真忌名に、ゼルファはぎょっとした。今まで千里眼を使うにしても、こんなに長い間あちらに行っていることはなかったからだ。
「お前の言いたいことはわかった。しかしやはりすぐに真名を変えることはできん」
「そんな……!」
「理由はいつか話してやる。しかし今はまだその時期ではない。死にたいか」
「う……し、死にたくない」
「ならばいま少し待つがよい。時が熟したら話してやる。そしてその時、理由がわかって尚お前が真名を変えたいというのならそれもよかろう。よいな」
「………………」
不満だった。理由もなにもあったものではない。今すぐにでも変えてもらいたいのだ。
しかし何を視たかは知らぬが、真忌名の態度が変わったことも確かである。今まではダメの一言であったのに、いつか話してやる、それでもまだ真名を変えたいのなら変えてやるとまで言った。これはゼルファからすれば大変な変化であった。その日のために、ゼルファはもう少し待つことにした。
ジャキッ、という場違いな音に顔を上げれば、真忌名はまだ例の腕から刃を出す練習をしているのか、掌をじっと見ている。
「もう少しじゃな」
「やれやれ……」
ゼルファが呆れて呟き、ふところから林檎を取り出そうとしたとき、彼のは自分の視界の隅に違和感を感じた。そちらへ目を向けると、それは果たしてこの酒場兼食堂の入り口にあった。
松緑地に、紺と金の糸であしらった紗綾形文様の上品な着物を着た男。背は高く、銀髪に近い白髪は一筋の乱れもなく一つにまとめられている。口髭をたくわえているがそれも見事な銀白色だ。まるで生まれたときからそうであったかのように、髪が黒い時などなかったかのように、それは表の光を受けてときどきにぶく光っている。深い海を思わせる青い青い瞳は知性と威厳とに輝き、それを誇るふうでもなく静かに瞬いている。美しい老い方、という言葉が頭にひらめいた。その、なんともいえない高貴な空気。適度の緊張感を感じるが、場を制するほどでもないのはこの男の妙に和む雰囲気のせいだろう。圧倒的だが、同時に癒すのだ。声は静かで、眼差しは夕暮れのように深かった。
男は静かに真忌名とゼルファのいる入れ込みまで歩み寄るとそこへ上がり、座るかと思いきや胡坐をかく形となり、次いで両脇に親指だけを出す形で拳をついて頭を下げた。
「真忌名様」
「お前か白糸。束帯姿とは相変わらず物々しいな」
白糸と呼ばれた男はそれには答えず、
「間もなく立ち合いの騎士が訪れます」
「……そうか…………」
真忌名は大して驚くでもなく、飲んでいた緑茶の湯飲みをたん、とテーブルに置くと、
「ついて参れ」
「は」
立ち上がった。
食堂にいる客たちがなんとなく見守るなか、二人は悠々と歩き出した。そこにいるだけで威圧感を放出する事務服姿の真忌名、それに付き従う、束帯姿の上品な老人にしか見えない白糸、誰がどう見ても異形の二人であった。
「剣を」
真忌名がス、と手を横に差し出すと、白糸が黙って後ろから剣を両手で差し出した。
真忌名は今、ブルーグレイのブラウスに薄いグレイのスカートという、完全にどこかの会社の事務職の出で立ちをしている。その真忌名が剣片手に、道で沈黙したまま立つ姿は人目をひいた。
「なんだ?……」
「さあ…………」
ガヤガヤと人の声が大きくなり、人々が立ち止まり始めて、真忌名は道の向こうに待っていたものを見た。
口をキリリと結び、一種悲壮なまでの覚悟を秘めてこちらへ歩いてくる鎧姿の男。青みがかった黒い髪、ほっそりとしてはいるが、鎧をひとたび脱げば鋼のような肉体があらわれることだろう。男は静かに道の真ん中を歩んでいたが、道の端に佇む真忌名をみとめると立ち止まって軽く会釈し、言った。大きな声ではないのに、それは道の隅々まで響き渡った。
「エド・ヴァアスのラスティ殿とお見受けする。わたくしはゼラ・ティラス騎士・マスターAのキィル・ラーラスと申します。一手の立ち合いを申し付ける」
騎士だ、騎士だという囁き声が周囲に起こり、人々は急いで建物の中や物陰に隠れ始めた。
真忌名は剣を小脇に抱え、腕を組みながら答えた。
「何度も言うが…………引退した騎士に立ち合いを申し込むのは禁じられている。貴殿で四人目だが……どうにも解せん」
騎士ラーラスはむ、と口の中で低く呟き、わからないほどわずかに目を細めた。
「では貴殿がご存じないという噂は本当でありましたか」
「存ぜぬ? 何をじゃ」
「貴殿は引退も追放もされてはおらぬという事実をです」
「なんだと?」
真忌名は声を高くして聞き返した。
「――――――――――」
あまりのことに真忌名、しばらく言葉が出ない。
どういうことだ。
しかし真忌名はサッと無表情になり、
「白糸」
「は」
「調べよ」
「……は」
その少しの間で、ゼルファは察した、この使い魔はとうの昔にその事実を知っていたなと。そして恐らく真忌名も気がついたであろう、ふうむ、と呟き、
「まあよい。今は立ち合いじゃ」
真忌名は騎士ラーラスに視線を向けた。
「話は後じゃ。立ち合いを申し込まれ名乗られた以上は答えなければならぬ。エド・ヴァアス騎士・マスターAAAのラスティじゃ。立ち合い謹んで申し受けよう」
騎士ラーラスは黙ってうなづいた。
ジャキッ!
真忌名が信じられない速さで剣を抜く。騎士ラーラスも静かに抜刀する。その立ち居振る舞いといい落ち着いた物腰といい、とてもとてもマスターとはいえAとは思えぬ。
「―――参る!」
ザッ!
騎士ラーラスがまず動いた。
彼は目にも留まらぬ速さで石畳を蹴り上げ、高く飛ぶのではなくほとんど地面から足を離さない高さで飛ぶというよりは摺るように急接近してきた。
その速さは、遠巻きにして見ていた見物たちも、白糸と少し離れた所で見ていたゼルファィも、思わず息を呑み小さく声を上げ、事務服などという動きにくい服を着ている真忌名には到底避けきれるものではないと思った。
ギィン!
火花が散った。真忌名はぴっちりしたスカートの狭い幅が許す限り足を開いて騎士ラーラスの剣を高い場所で受け止め、受け止めたまま自分の目線まで下げ、拮抗する腕力に震える剣の向こうから騎士ラーラスを睨みつけた。
ギリ……
「……なるほど良い腕だ」
真忌名は静かな声で言った。
「なにゆえ貴殿がAに留まっているのかわからんな」
「ぬっ」
意表をついた真忌名の言葉に低く呻き、自らの動揺をかき消すかのように騎士ラーラスは腕に力を込めた。が、真忌名の剣はビクともしない。
ギリ……
キィン!
真忌名の強烈な力に跳ね飛ばされて、騎士ラーラスは飛び退いた。
真忌名は、攻撃を受けた位置から一寸たりとも動いてはいない。顔を傾げ気味にして、真忌名は剣を斜めに構えたまま言う。
「しかし迷いがある。迷いがある内は、騎士は決して最高峰まで行くことはできない」
スッ……
真忌名は滑らかに動いた。それはまるで、骨がないかのような恐ろしいほどすべらかな動きであった。その身体はまったく不自然な様を見せないままくるりと小さく回りその反動で騎士ラーラスの後ろにするりと回った。
そしてトン、とその背中を押すと、玄人の強い突きに騎士ラーラスはつんのめった。Aとはいえマスタークラスの騎士がである。それは騎士ラーラスの実力がどうとかいう話ではない。真忌名がマスターAAAゆえだ。そしてつんのめった体勢の騎士の正面にまたもや恐るべき速さで回った真忌名は、その手に握られていた剣の柄を蹴り上げた。
「あ……っ」
ゼルファは思わず声を上げた。その速さと容赦のなさは、今までの立ち合いでは決して見られなかった奇妙な無慈悲さであった。
キラリ、騎士ラーラスの剣が陽光に光って一瞬反射した。
そしてそれが落下するのを待つよりも前に、真忌名は空中で回転する剣を見上げてトン、と極めて気軽に、しかし高く飛び上がると、今しも地上に落下せんとしていた剣をまたもや空中でトン、と蹴った。剣はそのまま勢いを増して地上に落ちた。そしてそれは、つんのめってそのまま膝まづく形で地面に倒れた騎士ラーラスの目の前に突き刺さった。
真忌名は軽やかに着地すると、面白くもなさそうに言った。
「これがAAAの実力じゃ。わかったようなら、」
真忌名は剣を構えなおした。
「再び参れ」
「あしらってやがる……」
ゼルファは真忌名の人間離れした技に汗をかきながら呟いた。そしてそれと同時に、騎士ラーラスが剣を突き刺さった石畳から引き抜いて猛然と真忌名に向かっていくのも見えた。いつぞや、かつて真忌名が騎士であった時代に彼女の部下であった男が立ち合いを申し込んで来たことがあった。その時のその騎士の動きも、始めこそ迷いがありはしたものの、真忌名に打ち込む内真忌名から剣を弾かれるたび、その目から迷いが晴れ身体の動きに切れが見え始めた。ゼルファは今、騎士ラーラスの動きに、まさにそのかつての若い騎士を思い出していた。
騎士ラーラスの動きは凄まじかった。最早真忌名の言う迷いも取れたのであろう、隆々とした筋肉が駆使する剣の素晴らしく速い動きと力強さ、恐るべき脚力で立ち回り真忌名に猛然と切りかかる様は、ゼルファだけでなく物陰から見ていた一般市民をも引き込んで固唾を飲ませるに到った。
立ち合いは三十分以上続いた。
しかし時間が経つうち、両者に著しい変化の違いが見え始めた。
動きそのものに、二人には変化はない。真忌名のレベルが上とは言っても、騎士ラーラスはマスターレベルでしかもAクラスなのだ。
しかし、その顔に先ほどのような精悍さというか、勢いがなくなってきた。汗こそさすがにかいていないものの、交わす剣の速さも、剣戟の音にもほとばしるような何かがない。
「なんでだ…………?」
自身冷や汗をかきながらさの戦いを見守っていたゼルファは小さく呟いた。そしてその呟きを聞き取って、今まで彼の脇で微動だにしなかった白糸が初めて口をきいた。
「それはひとえに真忌名様の腕の力ゆえでございます」
「腕の力? 腕力ってことかい」
「そうともいいます。同じマスターレベルとはいえランクの違う騎士同士が三十分も切り結ぶとそれは判然と肉体に反映されるものなのでございます」
「肉体に……」
白糸は相変わらず冷静に戦いを見守りながら言った。
「左様でございます。マスターAAAは騎士の中の騎士。鍛え方は人間の肉体の限界を超えるものです」
ギッ……
ギィンン!
「その基礎体力、腕力、肺活力、背筋力、バネの強さ、騎士が一端剣を抜いて戦えば、それは全身を駆使して戦うということでございます」
ザッ……
……ィィン!
「ランクが違えば当然それは時間が経つにつれ肉体に反映します。今あの騎士殿の全身は、真忌名様の一度で大岩をも砕かんばかりの破壊力を持った腕の力を受け止めて受け止めて、もう激痛で本来なら腕も上がらないはずです」
そして真忌名は、あれでも手加減しているのだ。
「そんなに……」
ゼルファは今更ながらに絶句した。真忌名の恐ろしさは、その何をも見透かす千里眼、この白糸のようにあらゆる魔物に命令する権限を持つ得体の知れなさだと思っていた。
しかし違うのだ。
あの女の本当の恐ろしさは、そんな目で見ることのできる、肌で感じるだけのものではないのだ。全身で感じる、そうでなければ、真忌名の真の恐怖はわからない。
ィィッ
そして白糸の言葉を裏付けるかのように、騎士ラーラスの動きが一瞬空間に貼りついたようになった。真忌名は、その隙を見逃さなかった。
鋭い、鉄を打つような音が響き渡った。
ハッとして顔を上げると、真円を描いて宙にくるくると回る剣の手前に、首筋に剣を突きつけられて硬直している騎士ラーラスの姿が見えた。
「勝負あったな」
真忌名の低い声が聞こえた。
見ると、騎士ラーラスの表情は今までのどの騎士とも違っていた。
無念でもなく、悔しいのでもなく、ただ清々しい顔をしている。その表情の清冽さに、ゼルファは言葉を失った。
「お見事です」
「自分がすごいのは知っておる。それより伺いたいことがある」
「なんなりと」
真忌名と騎士ラーラスのやり取りを遠巻きにして見守っているゼルファの側に、いつの間にか真赭が来て言った。
「ゼルファ様」
「あ、あんたいたのか」
「はい。申し訳ございません」
「え?」
「真忌名様があちらでお忙しいようなので代わりにご紹介申し上げます、」
真赭は宙に漂ったまま袖で白糸を示した。
「魔界第五層の最長老、白糸でございます」
「お初にお目にかかりまする」
白糸は深々とその頭を垂れた。威厳ある白糸に丁寧な挨拶をされて、ゼルファはちょっとだけ困った。
「それではわたくしめはこれにて失礼いたしまする」
「え……も、もう行っちゃうの」
「はい。長居は無用でございます」
「え、あ、はあ……」
呆気に取られるゼルファにもう一度頭を下げると、白糸は真赭にうなづいてみせると、そのままいまだざわめきの止まぬ道の向こうに静かに消えていった。
「―――――」
騎士ラーラスが何か言うたびうなづいて返している真忌名、雑踏の中に消えていった白糸、ゼルファは混乱するばかりであった。
「真忌名様と騎士殿の会見はいま少し長引くなれば、こちらへ」
真赭がいつものように空中に正座したまま先ほどの食堂を袖で示した。ゼルファはそのいつもの振る舞いにいくらか落ち着きを取り戻してうなづき、未だ道の真ん中で騎士ラーラスと話し合っている真忌名をちらりと見て歩き出した。
「さっきのひとが最長老って?」
緑茶を一口飲み、ようやく人心地がついたゼルファは林檎をふところから取り出してかじりながら言った。真赭はうなづいた。
「はい。白糸は魔界第五層最長老、我らを束ねる長にござりまする」
ゼルファはよく事情が飲み込めず、頭をかきながら尚林檎を食べるのをやめずに聞いた。
「一番なのは是親さんだと思ってたけど……」
真赭は真顔でうなづいた。
「はい。実力で一番なのは是親にございます」
「…………よくわかんないけど……」
「第五層に住まう悪魔というものは、魔界の一番深いところ、一番瘴気の濃い場所に住むゆえに、個々の実力の差というものは他層の悪魔たちと比べそう如実ではありませぬ。
ゼルファ様。悪魔は名誉と格式を重んじる生き物でございます。第五層で長く行き続ける、又は古く在り続けるということは、大変なことなのでございます。濃い瘴気の中で生き続けるということのみに留まりません、第五層の住人は始終異相からの侵入者と戦わなければならぬからです」
「へーえー……」
「ゆえに第五層最古参の白糸は長老として我らを束ねる立場にあるのです」
「なるほどねえ。まあ、そんな感じ。顔も恰好も威厳があるっつーかなんつーか」
真赭は口に袖をやり、ころころと笑った。
「真忌名様は我らの主ゆえ、主の御前に出る時には正装の束帯姿というのが白糸の主張でございます。わたくしなどは、今も時々出で立ちが気軽すぎると叱られます」
ゼルファはその言葉にちょっと笑った。なるほど真忌名の前では正装を旨とする白糸からすれば、いつも半幅帯の真赭の出で立ちは確かにそう見えるのかもしれない。
ゼルファは二つ目の林檎を取り出してかじった。口の中に広がる甘酸っぱい味を噛み締めながら、彼はしばらく何かを考えていた。濃い瘴気の中で、果てない侵入者と戦う日々。 休みはあるのか? などという間延びした疑問が浮かび、すぐに彼らは人間とは違うのだと自身で打ち消した。そもそも彼らは人間ではない。疲れ方も違えば、生活の有り様も違うのだ。そもそも悪魔が疲れることなどあるのか。彼らは眠るのか。疑問は尽きない。
騎士ラーラスとの会見を終え、真忌名が食堂に入ってきた。ゼルファは何かを聞こうとしたが、真忌名の苦く、何かを噛み締めて飲み込もうとするような顔を見ると、なにも聞けなくなってしまった。
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