第四章 2
白昼の公道のど真ん中で騎士が立ち合いをした。
ただでさえそれは目立つ上、人々の口にのぼることは必定である。しかも怪しげな教団に狙われている真っ最中、彼らから隠れている時にそんな目だった行動を取れば、それは相手方にこちらの動きどころか場所まで知られてしまうことは逃れられないことであった。 ゼルファも真忌名も、それは重々承知していた。承知してはいたが、まさか立ち合いがあったその日の夜に〝紫〟の教団が襲って来ようとは思ってもいなかっただろう。
その夜、真夜中も過ぎた頃、ゼルファはそっと自分の口を押さえる手の感触にぎょっとして目を覚ました。旅の空、旅人が宿で襲われる話など腐るほど聞いてきた。そんなことは自分には起きないと高を括っている者に限ってそういう目に遭うというのは本当だ、と思って目を静かに動かすと、自分の手を押さえているのは修美だということが薄闇を通してわかった。
「お静かに」
修美は手を引くとそこに膝まづいて囁くような声で早口に言った。
「不審なものが近づいております。さ、これを」
ベットからゼルファを連れ出しながら、修美は手早く白い布を差し出した。
「口にお当てください」
何がなにやらわけもわからないまま、ゼルファは修美の逼迫した様子に問いただすこともできず素直に応じた。渡されたのは、ただの白い布だ。それを口に当てながら、ゼルファは修美に部屋の隅まで連れて行かれた。そこは、真忌名の寝ている主寝室に通ずる扉の蝶番の部分にも当たる場所だ。
「しっかり布をお当てください。間もなくです」
何が、と聞こうとする前に、一、二、三、と修美が数え、それと同時に、布を通してでも強烈に鼻腔を突く匂いが辺りに充満した。その凄まじい臭気と刺激に、ゼルファは目から火が出るかと思ったほどだった。見る見る、ぶわっと目から涙が出てくる。続いて吐き気を催して、ゼルファは泣きそうな顔で修美を見た。
「もうしばらくの辛抱でございます」
もうしばらくって具体的にどれくらい、と涙を浮かべながらゼルファが修美に聞こうとした時、スル、と隣室で身体を起こす音がした。真忌名だ。続いて息を呑む音。
「ばっ馬鹿な―――――」
「この薬が効かない人間など―――――」
「はずれだ」
絶望的な声をかき消すように、笑いを押し殺すような真忌名の声が不気味に響いた。
「私は人間ではない」
「―――――」
その言葉に、ゼルファは全身が硬直し鳥肌がたつほどの戦慄をおぼえた。
しかし彼の思惑がなんであったにしろ、続いて聞こえてきた低い、何かと何かが強烈な力でぶつかり合うような鈍い音と骨の折れる音、う、というあるかないかの悲鳴でそれらはかき消された。
「修美、おるか」
「お側に」
立ち上がり、あざやかな声で答えた修美は扉を開けた。一瞬臭気が強くなって、ゼルファは顔を顰めた。
「窓を開けてやれ」
「はい」
窓が開けられる音がしたかと思うと、すう、と夜の冷たい風が入ってきた。
(ああ…………)
空気がこんなに甘いとは。ゼルファは冷たい外気を胸いっぱい吸った。
「気をつけろ。まだ臭気が残っているゆえ」
と言われて慌てて深呼吸をやめ、いくらかむせてゼルファは真忌名を見た。
この女は、自分が隣の部屋ですべてを聞いていたことを知っている。知っていればこそ、修美に窓を開けてやれ、と命じたのだ。
ならばさきほどの真忌名の言葉は、あれは冗談だったのだろうか。彼が隣で聞いているのを知って、或いは相手の絶望をいや増ししたくて言ったのであろうか。ふと扉の側を見ると、人が二人倒れている。二人とも、濃紫のローブを纏っていてフードをかぶり、顔はしかとは見えないが、しっかりとした骨格の顎がちらりと見えた。
「…………この人たちが例の?」
「そのようじゃ。昼間少々目立ったからの。思っていたよりも早かったわえ」
真忌名はベットに座ったままの姿勢で低く言った。考えている。昼間からずっと考えている顔だ。同じ顔だ。ゼルファは唾をごくりと飲んだ。
「四天王、是親、白糸、出でよ」
スッ……
その場に一瞬にして現れた真赭、瓊江、響子、側にいた修美、是親、そして白糸が現われると、真忌名はベットの上で胡坐をかきながら腕を組んだ。
「お主ら、私がエド・ヴァアスから追放されたのでもなければ騎士を引退させられたのでもないということを知っておったな」
「―――――」
使い魔たちの表情はどれもぴくりとも動かない。肯定の表情とも、叱責を覚悟の表情ともとれる。
真忌名はため息をついた。
「なぜ今まで言わなんだ」
白糸が答えた。濃緑地に銀糸の水滴模様の束帯姿である。
「それが上層部の方々の思惑のようでしたので、敢えて我々が差し出がましく口を挟むこともないと存じ、御注進を控えさせて頂きました」
「上層部だと? エド・ヴァアスのか」
「正しくは―――――」
次に、芥子色地に淡緑糸で刺繍した蔓唐草の直衣を着た是親が答えた。
「正しくは、法皇猊下の思惑にございます」
「法皇の? どういうことじゃ」
「―――――」
是親は即答を控えた。常時冷静なこの使い魔に珍しく、返答を迷う表情が伺える。
「是親。いかがした」
「いえ……我らに返答の権利が果たしてあるものかと」
「―――――」
真忌名は目を細めた。
―――――あのタヌキめ……
「直接あ奴に聞けということか」
そこはかとくなく忍び寄る恐ろしいものの気配が遠くから近付いてくるのを感じながら、ゼルファは思った。
法皇を奴呼ばわりできるのは、この世に真忌名たった一人だろうと。
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