第四章 3
8
「この間の騎士の話によると、私が国を出た翌日触れ書きが既に全世界の騎士団に発信されたそうだ」
真忌名は高速で走る馬車の振動に怯みもせずに腕を組んだまま言った。
「『騎士ラステラヴュズィ、生国及び付属国エドヴァアスより追放、引退。但しこの追放と引退は一週間後に直ちに解除するものとする』」
「なんだそりゃ」
「続きがあるぞ。『追放のちの立ち合いは騎士本人の事情と責任によって一任されるものであるが、騎士ラステラヴュズイが追放・引退の解除を知らない場合は、騎士ラステラヴュズィがそれを疑問に思うまでは口にせぬこと』」
「…………つまり、あんたが自分は引退したと思ってるのならそうさせておけ。あんたが自分は引退したんじゃなかったけか、と強く疑問に思って問いただすまでは、敢えて口にするな。そういうこと?」
「そうじゃ」
「なんで」
「知っていたらこんなことはしておらん」
もっともなことを言われてゼルファは言葉に詰まった。
二人を乗せた馬車は、道という道を無視して時空を飛行し、ゼルファは数分前に好奇心に駆られて窓の外を見、自分を乗せている馬車が渓谷を飛び越えているのを見、そしてエド・ヴァアスに着くまで二度と窓の外を見るまいと心に誓った。
なにをどうしたものか、三時間もして馬車は急に止まった。到着したのだ。
ゼルファは凄い勢いで走っていた馬車の中にいたがゆえに、車輪の音が回転する音が耳の中で耳鳴りとなって彼の頭を苛む上、腰も尻も背中も痛くなって、馬車から降りてしばらくは自分がどこにいるかもよくわからずに地面を睨んで腰をさすっていた。
しかし真忌名が歩くのに従い、睨んでいた地面がじきに草原となってきたのに気づいて、ふと顔を上げてそして硬直した。
抜けるような青い空に、突き刺すようにというよりは自らを主張するように堂々と聳える、無数の白い塔。四角錐のものもあり、円柱のものもある。頂の部分がぷっくりと膨れた形のものもあり、四角いものもある。形状に統一がないようでいて、その統一のなさが統一を生み出している。時々日の光を受けてきらきらと光るさまは夏の海の白い波を思わせる。外から見てもよくわかる、複雑に入り組んだ、その建物の荘厳さと高潔さ。秋の青い空を背に、それはまるでこれから長い旅に出る大きな大きな帆船のようにも、空に羽ばたこうとする一羽の白鳥のようにも見える。
世に名高いエド・ヴァアスの法王庁―――――法皇の住む宮殿の異名をとる建物である。
話には聞いていたが、ここまで美しいとは思わなかった。口をぽかんと開けたままそこに立ち尽くし、その圧倒的な美しさと迫力、空気のもつ荘厳な歴史の重みを測りかねて、ゼルファはただひとつのことを考えていた、自分は、この美しさと荘厳さ、重みと迫力を表現できるだろうか。
その場に立ち尽くして絶望的なまでに自分の能力と感動とをとりもってどう折り合いをつけるか無言で格闘しているゼルファを、真忌名はただ立ち止まり振り返ったまま急かしもせず見守っている。
過去現在未来すべてを見透かす真忌名の目に、間もなく開花しようとする大きな美しい才能が見える。自分といたからか、それともいることによって本人が努力した結果なのか。
蛹はまもなくやぶられる。
ふと地面に降りた影をみとめ、真忌名が顔を上げると大きな鳥が悠々と空を飛んでいた。
―――――自由だの
鳥は、飛ぶことを疑問に思ってはいない。だから鳥が飛べると、決して羨んではならないのだ。
「………………」
引退という名目で追放されて、自分は自由だと思っていた。したいことをしたいだけしてきた。が、その自由も結局は仕立て上げられたものだったということだ。
真忌名には、それを疎ましいと思う気持ちはない。彼女は自分の身の上をよく知っている。知っているがゆえに、わが身を呪うということもない。
空を悠然と見上げる真忌名を、やっと我に返ったゼルファが今度は見守る形になった。 見とれていたとも、呆然としてどうしていいかわからないといってもいい。
そこから溢れるばかりの、圧倒的な孤独。
そして孤独だからこそ、孤独なものにしか持てない、磨きあげられた澄んだ美しさ。
今までずっと側にいて、迂闊にもゼルファは今まで自分が気がついていなかったということに気がついた。
この女は独りなんだ―――――。
その事実にゼルファは目の前が真っ暗になり立ち尽くした。
自分は物心つく前に両親に捨てられ、身寄りのまったくない天涯孤独の身である。しかし自分を独りだと思ったことはなぜかない。それはなぜかとふと考えた時、自分には歌があり歌と共に生きていくことによって周囲の自然と生きていく気持ちがあるからだと思ったことがある。
一方の真忌名はどうか。
多くの使い魔に囲まれ、また引退・追放が解けた今は彼女は世界に君臨する 〝白の教団〟の法皇の側近の一人であり、騎士の中の騎士という畏敬の的となるマスターAAAの騎士なのだ。
なのに、空を見上げるその姿だけでもわかってしまうほど、この女がこんなにも孤独だという事実は、決定的にゼルファを打ちのめした。
「どうした」
立ち尽くすゼルファの視線に気がついたのか、真忌名がこちらを見ている。いつもと同じ戦士の姿、いつもと同じ姿勢。
「あ、え、いや」
「行くぞ」
歩き出した真忌名の背中はもう、先ほどのような孤独を纏っていはいなかった。
しかしそれでも、誰も寄せつけない何かがあった。
入国審査は馬鹿みたいに簡単なもので、天下のエド・ヴァアスに入国するのにどんな審問を受けるのかと身構えていたゼルファをがっくりさせた。もっとも、真忌名と一緒に入国するとわかっている時点で彼はそれも考慮に入れるべきであった。真忌名は追放が解けた今、九人いる内の枢機卿の一人であり、騎士の最高峰マスターAAAなのだ。その真忌名の連れを、どうして他の入国者と同じレベルで審査できよう。
街並みを歩いていて、ゼルファは、
「あまりきょろきょろすると転ぶぞえ」
と真忌名が呆れるほど辺りを見回した。
世界に名だたる景勝の地・エド・ヴァアス。
この国の美しい理由の一つは水が豊かだということである。道の脇や大小様々の広場や公園にしつらえられた凝った意匠の噴水の数々、中央公道をちょっと逸れて道の向こうを見やると、数ブロックごとに水の溜まり場があって男女がそこで野菜を洗ったり洗濯をしたりしている。美しく、それでいて日常的だ。このような生活の形態もあるのかと、いくつもの国々を見てきたゼルファは感動を抑えられなかった。この国は豊かだ。金銭的に豊かということもある。しかしエド・ヴァアス以上に金のある国をゼルファはいくつも見てきた。しかしこれだけ美しいと思ったことはなかった。住んでいる人も美しいからだろうか、ゼルファは思った。それは、エド・ヴァアスというお国柄だろうか。世界最古にして最大の宗教〝白の教団〟の本拠地という。
しかしそこまで思い立ってゼルファは否定した。
エド・ヴァアスは確かに教団の本拠地だが、だからといって教団の信者しか住めない、あるいは教団の信者が国民の大多数を占めているかというとそうではない。同国に住む教団信者は、実際のところ人口の三割程度でしかなく、他教徒は色彩教団とそうでない教団も含めて一割、後の六割は無信心、つまりどの教団にも所属していないということになる。 どの教団も教義や信条は違うが、信仰の強制をしないという点では一致している。だから、この国を美しいと思ってそれが信仰のゆえだと思うのは違うのだ。
ではなんなのだろう―――――
真忌名を早足で追いながら、ゼルファは後ろ髪を引かれる思いで住宅地を振り返り振り返り歩いていった。
「気に入ったかや」
真忌名は口元に薄い笑いを浮かべてゼルファを見た。
「え、うん」
エド・ヴァアスという国の、想像以上の美しさと、想像以上の底力を見て、ゼルファは少々萎縮してしまっている。それに気づいて、真忌名は色々と建物の説明をしてやった。 そうすることで彼の気持ちがほぐれればと、この女にしては殊勝な思いやりでもってしたことである。
「ほれ、あれが公爵邸。紋章があるであろう、あれの冠の形がな、爵位によって違う」
「あれが第一執政の私邸。執政諸氏は平生は私邸には住んでおらん。だいたい子供と執事が留守を守っていて、執政本人は妻女と共に公邸で寝起きしておる」
「あれが出張所だ。旗が出ているだろう。そう、〝緋〟の教団だ」
そしてゼルファはふと気がついた。
真赭がいない。
真赭だけではない、いつも文字通り影のように真忌名の行くところすべてにいつの間にか立っていた是親も、響子も修美も瓊江もいない。ゼルファはそれになぜか急に不安を覚えて心配そうに真忌名を見やった。
もしかしてこの女は、使い魔たちを放逐したのではないのか。
エド・ヴァアスに戻ってきた以上、使い魔を従えているわけにはいかなくなり、彼らと縁を切ったのでは。
「なんじゃその葬式に行くときのような顔は」
「え……」
「何か言いたそうだの。申せ」
「………………」
「どうした」
「なんで……」
「うん?」
「なんでみんないないのさ」
「みんな?」
「だから……あの、真赭さんとか……他の…………」
真忌名の紫の瞳が一瞬大きくなった、ように見えた。
「お主は時々そういう抜けたことを聞いてくれるのう」
「な……なんだよ抜けてるって」
少々ムッとして、ゼルファは問う。心配して言っているのになんという言われ様だ。
「あのなあ。これから法王庁に向かう騎士兼司祭が空を漂ったりちょっと違う姿恰好をしている者共を連れて入ったらなんと言われる」
「あ……」
間の抜けた声を出してそうかそうだったかと得心するゼルファを尻目に、真忌名はずんずん歩いていく。ゼルファは慌てて彼女を追った。
「でもさ、だったら別のかっこさせるとか」
「好かん」
「すかん?」
「真赭はあの姿をしているからこそ真赭。無論姿を変えろと言えばあれは逆らわん。しかし私が嫌なのだ。物事の本来の形を歪めるのは好かん」
「はあ……」
変なとこでワガママだなあ、と思いつつ、吟遊詩人として考えるとその真忌名の姿勢は正しいと思う。元々ある歌に別の節をつけたりしても、一時は流行るがすぐに廃れてしまう。本来のものが真に良いからこそ、付け足しても引いてもいいものではないのだ。
「まだ何か聞きたい顔をしているの。申せ」
「いや……前にさ、使い魔のひとたちの姿かたちのこと聞いたときさ」
「うむ」
「ああいうかっこしてんのはあんた、自分の趣味だって言ってたじゃん。何人いるのか知らないけどいちいち好みを言ってるのかなあと思って」
「ああ……」
そのことか、と呟いて真忌名はふと地面にさした影に気づき空を見上げた。が、そのときにはもう影の持ち主は姿を消していた。
「正確に言うとそうではない。それは衣装の話じゃ。使い魔たちは私が古風で美しいものを好むのを熟知しているがゆえにその方面に気を使う。形式はともかく、色や文様に細心の注意を払うのだ」
「じゃあ」
「そう。真赭が童女の姿をしているのは、あれが真赭という第五層の悪魔の本質なのだ」
「よく………………わかんないけど」
「真赭の姿をどう思う」
「どうって………………かわいい女の子だよね、見かけだけだと。あんな実力の持ち主にはとても見えないよ」
「そう。それこそが真赭の本来の姿そのもの。真赭というのは丹、水銀のことじゃ。見かけが美しくかわいらしいから、童女の姿をしているから、だからといって油断をしてはならぬ……水銀の毒そのもの。あのかわいらしさこそがあれの最大の武器なのだ。そうであろう」
「……なるほど……」
ゼルファは頭をかきながら小さく呟いた。
知らずに戦いを挑めば、手痛い目に遭う。それこそが第五層ナンバー2の実力を持つ真赭の真の姿なのだ。
「別の意味でいえば是親は、そう派手な見かけではなかろう」
「んー……まあそう言っちゃ悪いけど確かに」
「それがあれの武器じゃ。目立つことはすなわち敵に覚えられ発見されることも早く印象にも残りやすいということにつながる。しかし真の実力者こそ、そっと目立たずいつでもどこでも己のしたいように動けるという利点を最大限に生かせるものなのじゃ」
「なるほどなあ」
しきりに感心するゼルファを、真忌名はくすくす笑いながら見守っている。
そしてそんな風に歩いているうちに法王庁の入り口に立っていることに気がついたとき、ゼルファは突然訪れた緊張で胃の辺りがきゅっと縮むのがわかった。濃い汗が背中を幾筋も伝う。心臓が、自分でも大丈夫なんだろうかと不安になるほど激しく動いている。
まるでそこだけ別の生き物のようだ。
そこで気がついた、
いくらなんでも自分は、真忌名と共に入庁できるのだろうか。
腐っても司祭、腐っても騎士だ。流しの吟遊詩人など一緒に入れてくれるだろうか。
しかしそこまで思い至って、ゼルファは自分にも言い聞かせるように首を振った。
真忌名は今まで、なんだかんだ言って自分の安全を確保してくれている。もし一緒に中に入れれば今まで通りに自分の身の安全を保障してくれるだろうし、もしだめだと言ったらそれは本当にだめなのだ。覚悟を決めよう、ゼルファは生唾をごくりと飲んで荘厳な構えの門、その両脇に立っている鎧に全身を包み槍を持った兵士を見た。
二人の兵士は異形の二人をみとめると眉を寄せてこちらを睨んできた。背の高い旅姿の真忌名、どう見ても中途半端な吟遊詩人のゼルファ、この二人が並んで近寄ってくれば、法王庁の兵士ならば不審に思って然りであろう。
「何者だ」
「警備ご苦労。マスターAAAのラステラヴュズィ・真忌名である。帰庁したゆえ通りたい」
兵士は胡乱げな視線を、正に真忌名のつま先から頭のてっぺんまで向けていたが、すぐにその姿恰好と名前、そして通知されていたことの内容に思いが到ったのであろう、あっと声を挙げてその場で敬礼した。
「お通りくださいっ!」
「ご苦労」
「ご案内いたします」
「いらん。報告だけ頼む」
「はっ」
短いやり取りであった。片方の兵士が敬礼してすぐに入り口の奥へ消えた。誰か上役に真忌名の登庁を報告に行ったのであろう。もう一人残った兵士はちらりとゼルファを見やったが、行くぞ、と真忌名が彼に声をかけているのを見ると何も言わずに彼を通した。
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