第一章 1

 その女が酒場に入ってきたのは夜半も夜半、時間は一時をまわった頃であったろう。細い肩、明るい茶色の髪は天然なのだろうか、かなりウエーブしている。肌は白いのだが、普段の生活はどうなのだろうと思うほどに荒れていて、なめらかさを失っている。唇はやや厚めだが魅力的な形だ。そしてその眉は、もう少しまるくなっただけで、その角がとれただけでも大分と感じは違ったものになろうに、どうしてこんなにきつい眉をしているのだろうと誰もが思わず考えてしまうほどにきつい形をしている。しかし、見るからに勝ち気で性格のきつそうなこの細い眉の形とは裏腹に、女の顔立ちは柔らかく、ここまで優しい顔立ちをしているのなら眉も丸くすればいいのに、と思うほどだ。しかも糸のように細い。そしてその服装―――――どぎつい紫のヒラヒラしたその服が、茶色い髪と白い肌を悪い方向に手伝って、彼女の存在そのものをこの上なく下品に見せている。基本的には互いに不干渉が暗黙の掟の酒場の客たちも、異質な闖入者に訝る視線を送らざるを得ない。

 女はひどく息を切らせ、必死にどこか隠れる場所を探しているように見える。しきりに後ろを気にしては、追いつかれないうちにどうにかしなくてはと、その瞳は狂気すら帯びている。追われているのだ。

 女は真忌名のいる奥の座敷までやって来て、はあはあと息を切らせながら死に物狂いで隠れ場所を探している。真忌名はその様子の異常さに思わず目を向け、低く、

「……細い眉だの」

 と呟いた。そして女のことなどまるで忘れてしまったか見えないかのように、手を上げて店の者を呼ぶと食事の注文をした。

 異変は次の瞬間起こった。

 屈強の男たちが三人、突然すさまじい音をたてて酒場に入って来て辺りを睥睨するように見回したかと思うと、目ざとく女の姿を見つけてどかどかと大股に近寄り、女の髪の毛を引っ張って隠れていた物陰から引っ張り出した。

「きゃああああああああ」

「手間とらせやがって…………」

 男の一人が憎々しげに女に言うや、もう一人の男がパン、と女の顔を張った。大して音は大きくはなかったが、その分痛い叩き方だということに、一体酒場の何人が気づいたことであろうか。

「足抜けは重罪だ。知っていて……」

「マイエルさまにきつく叱ってもらうからな」

「その後は俺たちで腰が抜けるほどかわいがってやる」

 三人はいっせいに下卑た笑い声を上げ、女の顔には恐怖が疾った。

 この女は娼婦なのか。

 酒場の人間の声なき納得の声が聞こえてくるかのようだ。ならば、あのいかにも商売女ふうの細くてきつい眉も、ちっとも似合わないどぎつい服も、合点がいくというものだ。 女は腕を掴まれながらも尚も抵抗を続け、暴れながら悲鳴を上げ、来ないとわかっていて尚助けを呼んだ。

 酒場の空気が重く沈む。助けてやりたいのはやまやまだが、娼婦が足抜けすることは重大な犯罪だ。理由がどうであれ、彼女が借金を返してしまってそれでも尚好きで娼婦をしているというのならともかく、娼妓屋が足抜けを取り締まることは悪いことでも何でもない。なにしろ彼女たちは、金でやり取りをされた挙句に取引された大事な商品なのだから。 抵抗を続けているのに、がっちりと掴まれた腕はとうてい離れそうにもない。その内大きく肩を出していたそのひらひらの服が、胸元から乱れ始める。男たちは女を引きずるようにして真忌名のいる座敷のすぐ近くを通り、店の主人はこの招かれざる客に早く帰ってほしそうだ。誰もがそう望んだその瞬間である。

 真忌名が、うるさそうに杯を柱に投げつけた。

 杯は男たちに当たりはしなかったものの、男の一人の頭をかすめたのだから、充分当てるつもりで投げたと見てよかった。

「なんとまあ先ほどから……選んだ店がよほど悪かったのかの」

 真忌名は眉間に皺を寄せ、さも迷惑そうな顔をして立ち上がりかけた。喧嘩を売られたと知って、男たちは一斉に真忌名を見た。

「な……なんだおめえは!」

「<春立楼>の用心棒と知ってやりやあがったか!」

「品のない名前だの……知らん、そんな売春宿なぞ」 

 男たちをじろりと見上げて、真忌名は言った。

「早う出て行け。うるさくてかなわん」

 この女を助けるつもりなどさらさらない―――――真忌名の全身がそう言っていた。ただ、うるさいのが嫌なだけなのだ。男たちが出て行ってしまえば、それでよしとまた飲み始めるに違いない。

 その方が、真忌名も、―――――またこの男たちにとっても―――――確実に良かっただろう。男たちは、ここで素直に女を連れて帰るべきであった。

「この女ぁ……表に出やがれ!」

 真忌名はやる気のない顔で彼らを見た。

「やれやれ……出て行ってもらうだけでいいのだが……そうはいかんかの」

「なにをブツブツ言ってやがる! 引きずりだすぞ!」

 真忌名の目が、ギラリと変わった。男たちはそれに気づかなかったが、逃げようとしてもがいていた女は、思わずひっ、と小さく叫んで身を竦めた。

「なんじゃ汝ら……喧嘩を売っておるのか」

 高い場所におり、背が高いことも手伝って―――――真忌名は男たちを見下ろすようなかたちとなった。鈍いこの男たちには、単に真忌名が凄んだようにしか感じられなかっただろう。しかし側にいた、騒ぎの張本人の女や側の卓の者は顔色を失い、他の客に酒を運ぼうとしていた店の従業員などは、真っ青になって持っていた盆を落としてしまった。

 冷たい炎にも似た凄まじい気迫が、真忌名の全身を取り巻いている。

「ならば買おう」

 獲物を狙う狼のように目をギラギラさせ、舌なめずりをして真忌名は言った。男たちは自分がどういう相手に喧嘩を売ったのかまだよくわかっていないらしい、ニヤニヤとしながら真忌名が座敷から降りるのを待って表へ行こうとしている。

「へっ、あの女もなかなかよさそうじゃねえか。滅多におがめない上物だぜ」

「交代だからな」

 男たちはそこまで言うと下品な笑い声を一斉に上げた。

 自分に降りかかる厄介事は御免なくせに、こういうことは大好きな酒場の連中が早くも道に出て、人だかりをつくっている。当事者である限り、この人垣を越えるのはちょっと無理だろう。見物人は口々に彼らをはやし立てるようなことを叫び、或いはどちらの勝ちに賭けるかを口々に言い合っている。 

 店から出る際真忌名は、運ばれてきた肉を今しも切って食べんとしていた者の手からナイフを奪い取り、またその男の連れの者の手元にあった、これは使ってはいなかったようだが、とにかくもう一本ナイフを取ると、

「あ奴らなんぞはこのナイフ二本で充分じゃ」

 と呟いた。

「女が相手だ。特別に素手で勝負してやらあ!」

 男たちの一人が見物人に向かって叫んだ。繁華街であるし、先ほどの正体不明の爆発のおかげで警備隊の人間はあらかた街の警備や周囲の警戒に出かけている。武器を使った喧嘩をしたところで、彼らが今夜駆けつけることはないだろう。

 真忌名は二重三重に自分を取り巻く見物人のはやす叫び声にも、彼らの血走って興奮した目に晒されても平然としている。自分の置かれている状況がわかっていないのか肝が据わっているのか、器用にも左手で先程のナイフをお手玉よろしく弄んでいる。

「武器はなしだ。女が相手だからな!」

 男たちの別の者がもう一度誇示するように叫んだ。

「女相手に武器を使うのも恥なのであろう」

 真忌名はぼそりと呟き、いまだに見物に向かってがなっている男たちを見て早くしてくれんかのう、と低く言った。

 いよいよ男たちの自己顕示欲も満たされ、下卑た笑みで地面を踏みしめ真忌名と適当な距離を置くと、その分だけ見物の輪が縮まった。

「いい度胸だなねえちゃん。あとでたっぷりかわいがってやるな」

「それはどうも」

 真忌名は無表情に言い、先程からずっと左手でしていたお手玉ナイフをやめ、指でそれらを掴むと、

「これ使うけどいい?」

 と言った。

「好きにしな。それでも少ない方だ」

 男たちは顔を見合わせ、したり顔でうなづきあった。真忌名が酒場に入ってくるのを見たわけでもなく、だから彼女の荷物も目に入らず、真忌名が旅人だとわかってはいても、くつろぐ為外した鎧がなければもはや戦士だとは露とも思うまい。

「しかしこれはもしやして果し合いか?」

 真忌名は喧騒をものともせず男たちを見据えて言った。

「ならば名を名乗れ」

 男たちは顔を見合わせ、それから馬鹿馬鹿しくて仕方がないとでも言うかのように大声で笑い出した。

「おもしれえ。立ち合いの真似事かねえちゃん!」

「いいとも名乗ってやらあ」

「<春立楼>の用心棒よ!」

 がははははは、と男たちは哄笑した。

「ねえちゃんはどこの誰だ?」

「後でいい仲になるんだから名前くらい聞いとかねえとなあ!」

 男たちはおかしくて仕方がないらしく、腹を抱えてげらげら笑っている。それはそうだろう。見世物小屋の三文芝居ではあるまいし、今時この程度の喧嘩で名を名乗りあうなどとは聞いたことがない。

「名乗られた以上は名乗らねばなるまい」

 真忌名はまったく意に介さないように言った。

「生国はエド・ヴァアス―――――マスターAAA《スリーエー》のラスティだ」

「な……ん?」

 男たちはよく聞いていなかったようだが、側にいた見物たちはその声をしっかと聞き取ってお互いの顔を見ては、自分の聞き間違いでないか確認し合っている。

「マスターAAA……」

「…………」

「―――――」

「騎士……?」

「騎士だ―――――!」

 見物がざわめき、その様子に男たちも笑うのをやめてそちらを見、なんだかよくわからないが早く勝負をつけてしまおうと囁き合う。

 審判をかって出た男が自らの帽子を脱いで頭上高々と振り上げ、両者が準備できたと見て勢いよく帽子を振り下ろした。

「はじめえ!」

 タッ

 意外にも、消極的そうに見えた真忌名が先に動いた。持っていたナイフの内の一本をピッと投げてそれが地面に突き刺さり、思わぬ動きにハッとした男たちがそのナイフに気を取られた瞬間、真忌名はそのナイフを蹴り上げ、ナイフは男たちの内の一人の頬を掠めた。 それにぎょっとした直後である、真忌名は持っていたもう一本のナイフを男のうちの一人の喉に突きつけた。

「う……」

「まずは一本」

 真忌名は氷のような冷たい声で言うと、同時に両脇から襲いかかってきた男たちに向かって飛び上がり様に両足を百八十度開いて蹴り上げた。

「そして二本だ」

 真忌名はナイフを突きつけられたまま脂汗を出している男に向かってにっこりと笑って言うと、突然真顔になりナイフの切っ先をそのまま真下へと急降下させた。

 切られた!

 誰もがそう思った。見物も、審判をかって出た男も、そして当の男も。

「うっそー」

 真忌名が真顔のままそう言うと、次の瞬間男が着ていた衣服がナイフの辿った軌跡のまま真ん中から裂けた。

「ひッ……」

 哀れ男は、もう充分すぎるほどに脂汗をかいていたのにも関わらず、白目をむいてそのまま凄い音と共に昏倒してしまった。

「口ほどにもない」

 つまらなさそうに言うと、真忌名は、

「真赭」

 と側の空間に向かって叫んだ。そこからは少しずれた場所から、先程のように真赭がスッと現れると、真忌名は気絶している男たちを見下ろし、

「ろくな服を着ておらんの……まあ武器程度なら少しは売れるかや。見ぐるみはいで売って来や」

「かしこまりました。この者たちはいかがなさいます」

「興味ない。素っ裸にして両足を左右から縛って開いた格好にさせたまま街の入り口にでも逆さ吊りにしておけ」

「ご随意に」

 真忌名は省みることもせず、肩をコキコキ鳴らして店の中に入って行った。

「ん……」

 入り口の柱の脇に、腕だけ縛られてつながれていた先程の娼婦が、真忌名を見てびくりと身体を動かした。同じ女の、というよりは、女そのもののするどい勘で、この女は真忌名が只者ではないということを先程からよく理解している。

「お主か……追っ手は今ごろ逆さ吊りじゃ。じき部下が戻って来よう。それまでお前の身柄はあ奴らに勝った私のものじゃ。来や」

 真忌名はいとも簡単に縛めを解くと、さっさと元いた座敷まで歩いていっている。沿道では、まだ賭けの勝敗の配当金配りに見物たちが賑々しい。女はそれを茫然と見ていたが、やがて逃げるようにして慌てて真忌名の後を追った。

「真忌名さま」

 しばらくして真赭が帰ってくるのに、そう時間はかからなかった。

「ご苦労……いくらになった」

「銀貨五枚ほどに」

「少ないのう」

 真忌名は不満そうに唇を尖らせた。先程のような目にもとまらぬ技を使うくせに、こういう表情を見せたりもする、その著しい差に、女は目を白黒とさせた。

「銀貨五枚などとは宿代一泊分にもならん。しけた男どもよの。最低じゃ」

 真忌名はぶつぶつと言いながら瓶から酒を注いだ。

「まあよい」

 ため息と共に、真忌名は瓶をドン、と卓に置いた。そして女の方に目をやると、

「名をなんと申す」

 と聞いた。女はそのするどい視線と低い声にびくりとしたが、すぐに怯えたように真忌名を見上げ、

「ア、アイシャ」

 と小さく言った。

「ならばアイシャ」

 真忌名はつまらなさそうに言った。

「しばし待っておれ。身請けしてやる」

 真忌名は向き直り、

「真赭」

「はい」

「<春立楼>のアイシャだ。多分色街の一番いかがわしい界隈であろう。向こうの言い値を払って来い」

「かしこまりました」

「あ、え……」

 何か言おうとするアイシャの言葉をだいたい予想していたのだろう、真忌名はうるさそうに手を払い、

「次はもっとマシな酒場にするゆえ」

 と言って、後は一人で黙々と飲みつづけた。その態度に、アイシャは何も言うことができないままでいた。

 翌朝、そのまま酒場の二階に泊まった真忌名は、簡単に食事を済ませて宿を後にした。 ふと見ると、真赭が隣にいる。真忌名は長身だし、真赭は子供の姿をしているから、実際二人が並ぶと真赭は真忌名の膝辺りになるはずだが、今彼女がそんな高い位置にいるのにはわけがある。

 浮遊しているのだ。

 真赭は正座し、内掛けの襞も美しく、そのまま何か、見えない透明な板にでも座っているかのように座ったまま浮遊しているのである。もう少し高い位置に行かないのは、主である真忌名に対する敬意からであろう。本日の真赭、茶色縮緬地に桜繋ぎ麻の葉に青海波模様の小袖、白地に三日月の刺繍のある半幅帯、萌葱色の打ち掛けを纏っている。濃い緑地のその内掛けに、うす桃色の桜の花びらが散る様が美しい。

「いくらかかった」

「大金貨五十枚ほど……」

 真忌名は視線を前に据えたまま、大した感慨もないように言った。

「ふん……ぼるのう。売春宿というのはよい商売じゃ」

 大金貨とは一枚で普通の金貨の十倍の価値を持つ、巷ではそう簡単には見られない大型の貨幣だ。ふつうの金貨よりも大ぶりで分厚く、表面の細工も細かい。もっぱら商人やら金持ちやらが使うので、単位の計算には便利でも庶民がそうやすやすとお目にかかれるものではない。金貨一枚の価値といえば、だいたい金貨二枚で四人家族が一月の食費として毎日問題なく腹いっぱい食べられる金額だからその半分ということになる。金貨五枚で大金貨一枚だ。ちなみに言うと銀貨一枚で大人一人分の昼食代になるかならないかであり、銀貨十枚で大銀貨一枚となる。

「まあよい」

 真忌名は息をついた。昨夜は休むつもりであの酒場に行ったというのに、予期せぬ客やらなんやらで、ろくに休んだ気持ちには到底なっていない。

「腹が減ったのう」

 ぼそりと呟く声を聞いて真赭が呆れていたその時である。側の建物から出てきた若い女が、真忌名の顔を見るや、あっ、と声を上げ、真忌名が身構える前にそこへひざまづいた。

「ラスティ様!」

「―――――」

 虚を突かれ、真忌名は思わずかたまってしまっている。

 朝っぱらからの尋常ではない光景に、周囲も二人をじろじろと見ている。その内の一人が宙にふわふわと浮遊する使い魔を連れているのなら尚のことだ。よく見ると女は生まれて間もないほどの赤子を連れていて、今出てきた建物は病院かなにかであろう、消毒液の匂いが微かにする。

「な……」

「ラスティ様! このようなところでお会いできるとは光栄でございます。是非この子に洗礼を……」

「待て待て待て待て」

 真忌名はますます増えていく周囲の野次馬たちを横目で見ながら慌てて手を振った。

「なんじゃお主は〝白〟の者か」

「はい。故郷を遠く離れ、よもやこのようなところでお会いできるとは」

 女は抱いていた赤子を示し、

「この間生まれました私の子供でございます。名前はキリスウェル……キリスウェル・ミラディンでございます」

 真忌名はなんだなんだと口々に言いながら集まってくる野次馬を見て慌てた。

「しーっ。こ、これ……やめぬか。引退した身じゃ。誰か他の者に頼むがよかろう。出張所も……」

「いいえ!」

 思わぬ女の強い声に、真忌名は完全に気圧された。

「ここで偶然お会いしたのも何かの縁でございます。わたくしの末の弟は、その昔ラスティ様に洗礼を頂いたのですから」

「………………」

 真忌名は片手で顔を覆い、これは絶対に、なにを言ってもこの女は諦めまいと思った。

「困ったのう」

 真赭を見るが、自分は管轄外とでも言いたげに、真赭はしれっと真忌名を見ている。

「…………」 

 真忌名はちょっと思案し、それから女を見て、

「わかった。わかったからまず立て。目立ってかなわん」

「は、はい」

 それから女を路地裏まで引っ張っていき、

「頼まれた以上断ることはできん……引退した身であってもな。しかし目立ちすぎるゆえここで洗礼を施す。よいな?」

「願ってもないことでございます」

「~~~~」

 真忌名は目頭を押さえた。滞在する理由がなければ、こんな街はさっさと出て行ってしまいたい気持ちでいっぱいであった。

「では」

「は、はい」

 女は何重にも重ねた清潔な白い布の中に収まっている自分の子供をそれごと渡すと、胸の前で手を組んで事の成り行きを見守っている。

 真忌名はため息をついた。引退して尚、この女のような者は各地に大勢いる。そしてどんなに面倒であれ、たとえ引退している身体であれ、真忌名は信者に依頼された以上断ることはできないのだ。

 真忌名は腕の中にすっぽり入ってしまった幼子を見下ろした。鳶色の目が、じっとこちらを見返している。その翳りのない目。真忌名のその目を見る内、赤子は急にむずがり始め、やがては小さく泣き始めた。


   千里眼の私が怖いか……賢い子じゃ 


 真忌名はさらに赤子の目を見続けた。次第に周囲の音や街の喧騒が遠のいていき、辺りも街並みから段々と暗闇のど真ん中のような空間に感じられて来る。神経が次第に研ぎ澄まされていく。

 ここに在ってここに無いもの、しかし確実に『在る』ものを探すように真忌名は―――しばらくの間そうしていた。いや、それは彼女の主観で、実際には一瞬程度の長さだったのかもしれぬ。やがてその鷹のように鋭敏な瞳に、暗闇の中微かに光るものが映った。それは、気をつけていてもわからないくらいに、通り二つ隔てた誰かのため息にでも消え入ってしまいそうに微々たる光であった。真忌名は目を細めた。


   視えてきたぞ……


 真忌名はまるで後ろから誰かが何かを渡すのに、それを受け取るような手の形を取った。 途端に、その手の中に何もなかったはずの空間からスーッと音もなく小さな白い玉がその手に収まる。真忌名はそれを口に入れ、赤子を抱えなおすと、それを口移しに飲ませた。


   生まれたばかりというに私の千里眼を見抜いたは見事じゃ


   お前の真名は『鋭凛』としよう――――なにものをも鋭く見抜く矢のような瞳


「終わりじゃ」

 顔を上げて真忌名は言った。

「あ、ありがとうございます」

「しかし先程も言ったように引退した身。このまま旅を続けていてこの子が長じてのち会えるかどうかもわからん。代理をたてておく。本国のシリンダルという司祭じゃ。万一私がいない場合はその者に聞くように」

「わかりました。ありがとうございました。あの、どうぞ」

 女は懐から小さな袋を出した。微かな金属音で中身が幾ばくかの金子であることがわかる。真忌名は目を細めた。

「子が生まれて何かと入用であろう。金はいらぬ」

「ですが……」

 真忌名は強いて断ろうともせず、顎に手をやって考えていたが、ふと女の持っている荷物から小さな、多分乳幼児用のものであろうパンのようなものがのぞいているのを見て、手を伸ばしてこう言った。

「これでよい」

「はっ……? あ、え、でもこれは子供用で……あまりおいしくないですし」

「構わん。ちょうど腹が減っていたでな。では達者に暮らせよ」

 がじがじとパンをかじりながら、真忌名はそう言って表通りへと出た。

「うーむ」

「いかがなさいました」

 パンを噛みながら小さく唸る真忌名に、真赭がやんわりと聞いた。

「確かにまずい」

 袖を口元にあてて、真赭が柔らかく笑った。

「どこかで二度目の朝食にでもいたしますか」

「そうだのう」

 と、路地に差し掛かった真忌名は、背後になにかを感じていきなり角に入った。真赭すら予期せぬ動きであった。

「真忌名さま?」

 しかし疑問はすぐに解けた。突然角に消えた真忌名を追って、誰かが慌てた様子で追いかけてきたのだ。そしてその人物は角で待ち構えていた真忌名にその襟首を掴まれ、そのまま持ち上げられて真忌名の鼻先まで吊り上げられた。

「わわわわわ……」

「……なんじゃお主は……昨日の酒場にいた吟遊詩人のガキじゃな」

「ガ、ガキ……」

 真忌名に直接的に言われて絶句したのは、まだ顔にあどけなさの残る少年であった。朝日に透ける茶色の髪、深い海の青を思わせる大きな瞳。顔は丸く、それが彼を実際の年齢より童顔に見せている。ほっそりとしているが、痩せすぎというわけでもない。

 少年は宙に持ち上げられながらじたばたと手足を動かし、真忌名を睨み上げるようにして見た。その拍子に、彼の懐に仕舞われていた林檎がぼとりと落ちた。

「な、なんだよう、離せよう」

「そうはいかん。昨日の酒場にいたということは尾けてきたな? なんのためにじゃ。言いや」

「その前に離してよ……く、くるしい」

 真忌名は離した途端に逃げるであろう、と言おうとした。しかし、それはそれで、別段自分が困るというわけでもない。むしろいなくなってくれるほうが大歓迎だ。そこで離してほしいという少年の希望通り、真忌名はそのままぱっと手を離した。ものすごい音をたてて、少年はそのまま地面に嫌というほど叩きつけられた。

「いたたたたた……な、なにすんだよう」

「なんじゃお主は……離せというから離したのであろうが」

「いきなり離したら落ちるよ」

 口をとがらせ、少年は長身の真忌名を見上げる形となった。

「あれこれとうるさいのう」

 真忌名は呆れ顔で歩き出した。どうやらこの少年は、自分の希望通りにそれではさようならと消えてくれるわけではないらしい。

「用はなんじゃ。早う言いや、腹が減っておるゆえ」

「あんたさっきの酒場で朝食食べてなかったっけ?」

「あれは朝食前の軽い食事じゃ。これから本番の朝食にとりかかる」

「ひっでえ……」

「人の食生活に口出しはやめてもらおう」

 少年は小走りになって真忌名の正面に回ると、彼女を見上げてこう言った。

「だったら安くてうまいとこ知ってるよ。それに量もたっぷりあるんだぜ」

「ほう……ならば案内しや」

 用事はそこへ着いてから言い出すつもりらしい―――――それがなにであろうと、真忌名は聞き入れてやらないつもりで、少年の後に着いて行った。

 真忌名が少年に連れて行かれたのはドヤ街であった。木賃宿がいくつもならんでいて、そこのうちの一つに少年は迷わず入って行った。

「今日の食事は何?」

と、彼が食堂で聞いている間、真忌名は辺りをざっと見回した。多くは日雇いなどの労働者がここで寝泊りしているのだろう、使い魔を連れている女というだけで、真忌名は周囲からいいだけ目立っている。が、もとよりそんなことを気にする女ではない。

(なるほどな……こういう手もあるのか)

 真忌名が心中、感心していると、少年が何かの乗った皿を二つ持って近づいてきた。

「朝からカレーかや」

「もう昼。文句言わない。ほらあっち空いてる」

 これで一人銅貨三枚。こういう所は値段が安くて量も多いのだと少年は言った。

「オレはゼルファ。吟遊詩人……と、言いたいところだけど、まあまだ目下修行中」

「ふむ。それで? 私を尾行した理由を聞こうか」

 単刀直入に言われて、ゼルファは手元に視線を落とした。言うか言うまいか、まだ決めかねているらしい様子が伺える。

「あの……さっきあんたがこどもに洗礼をしているのを見たんだ」

「…………」

 彼が黙っている間、黙々と食事をしていた真忌名の手が止まった。

「オレ……自分の真名が嫌なんだ。嫌いなんだよ。だから真名を変えたいんだ。あんた司祭なんだろ。頼むよ……オレ、新しい真名が欲しいんだ」 

 昨日今日の思いつきという目ではなかった。

 その目は真剣であった―――――まだ少年とも言うべき歳から考えれば、それは充分すぎるほどに。潤んでさえいるその目には、軽い気持ちで頼んでいるのではというこちらの思惑を簡単に霧消させてしまう強さが秘められている。

「………………」

「なあ、頼むよ。金ならなんとかして払うから」

「なぜ出張所に行かぬ」

 真忌名の低いが、ピシリと馬を打つ鞭のように鋭く容赦ない言葉に、ゼルファは決まり悪そうに、それでも言った。

「…………だめだって……親のくれた真名だから……理由なしに変えることはできないって」

「どこの出張所で言われた」

「……全部……」

 真忌名は豪快に笑った。

「さもあろう。宗派を問わず、真名を勝手に変えることなどできん。真名は真名であって、宗教に確立されたものではないからの」

 言いながらも、まだおかしそうに真忌名は喉の奥でしばらく笑っていた。

「な、なんだよ」

 ちらり、と自分を見た真忌名の、意外に鋭いその視線に、ゼルファは少しだけ怯んだ。

「何故真名を変えたい」

 キラリ、その紫の目が光った。危険なほど強い光であった。その光の強さに、もしかしたらという気持ちもあったのか、ゼルファはまだ半分も食事の済んでいない自分の皿を見た。

「オレ……捨て子なんだ」

「……」

 真忌名は無反応である。

「オレを捨てた親が憎いんだよ…………子供を捨てる親なんて最低だ。理由がどうあれ、子供を捨てる親なんていない。そんな親からもらった真名なんて―――――いらない」

 真忌名はその陰鬱な様子に彼が捨てられたというだけでどれだけの目に遭ってきたかということを想像した。視るまでもないことだ。

「ふむ」

 真忌名は椅子の背もたれに寄りかかり、ゼルファをまじまじと見た。ゼルファはなんだよ、と怯んだ様子を見せたくないがために強がっているが、その時真忌名の目は彼を見てはいなかった。その紫の目が凄まじい速さで時間と記憶を辿っている。遠い遠い昔、彼が生まれた過去にまで。


   ―――――


「……ほう」

 真忌名はすべてを見て、小さな歓声を上げた。ゼルファは決まり悪げに視線を落とす。

「お主の親のどちらかは、よほどに林檎が好きだったと見える」

「なんの話だよ」

 口をとがらせ、ゼルファは言い、何も考えていないように懐から林檎を取り出してかじった。

「で、変えてくれる? 真名……」

 ちらり、と上目遣いで彼女を見る。

「駄目じゃ。正当な理由がないと真名を変えることは許されん。下手をすると、その司祭ばかりかお主まで命を落とすぞ。そして今お主が言った理由は、とてもではないが正当な理由ではない。出張所がだめと言ったなら、それはどこででも駄目じゃ」

「だってあんた……!」

「それに私は残念ながら司祭ではない。引退したゆえ」

「でもさっき!」

「身内の教団信者にあそこまで言われて断れるか。ああいう時は引退したからといって相手がきくわけではない」

 相手を黙らせるためにしたことなのだと言わんばかりに、真忌名はそう言った。

「さて」

 いつの間にか食事を終え、真忌名は立ち上がった。

「馳走になった。もう行く」

「あっ、なんだよ……ちょっと待って」

 ゼルファは慌てて残っていた食事を片付けてしまうと、もう既に宿を出ようとしている真忌名を追いかけて行った。

「なんじゃまだついてくるか」

「言っただろ、修行中の吟遊詩人だって」

 真忌名はちらりとゼルファを見下ろした。

「だからなんじゃ」

「あんたみたいのと一緒にいると、色々面白いことありそうだし。昨日みたいなね」

 真忌名はそれを思い出したのか、一瞬うんざりした顔になる。

「勉強になりそうだし。だからついていくよ。いいだろ。真名変えてくれなかったんだしさあ」

「論点が違いすぎるわえ」

 真忌名はため息をついたが、何を言ってもこの少年は諦めないだろう。それに、強制的にそれを辞めさせる権利もない。聞くところによれば、熟練の吟遊詩人は長年旅をしている者ばかりなのだそうだ。旅先のあちこちで見聞きした人々の悲哀。異国の美しさ、普段街にいては絶対に経験できないいくつもの非日常が、彼らの物語りに欠かせないものであるというのはこの少年の言葉からして事実のようだ。しかし、よりにもよって自分を選ぶとは。

「仕方ないのう」

「んじゃ決まりね」

 ゼルファはスッと手を差し出した。

「知ってるだろうけどオレはゼルファ。ゼルファ・マガリエン」

 さすがに憎悪しているという真名を言うことはなかった。その手をちょっと握り、真忌名は低く言った。

「ラステラヴュズィ……ラスティじゃ」

「錆びた《ラスティ》? 変わった名前だね」

 真忌名は答えなかったが、決して不愉快というわけではなく、口元には薄い微笑が浮かべられている。

「これからどうするんだい?」

「この街には用事があって来た。祭があると聞いたでな。見に来たのだ。そーゆーものとは縁のない生活をしていたゆえ」

「……けっこうミーハーなんだね」

 真忌名は答えず、またふふ、と小さく笑ったのみであった。えらく楽しそうだな、とゼルファは素直に思った。

 二人が並んで歩き、主の話し相手が見つかったことを知った真赭がいつの間にか姿を消したことにゼルファが気づかぬまま、彼が今まで見てきたあちこちの街の色々な祭を真忌名に聞かせていたその時、二人は差し掛かった路地でおかしなものを見た。

 ザワ……

「ん?」

「なんだ?」

 二人は立ち止まった。目の前の路地の隅に人だかりが見える。真忌名は目を凝らし、ゼルファはぴょんぴょん飛んでそれを見ようとした。吟遊詩人特有の好奇心で、彼はそれが何であるかを見極めようとしていた。

 路上に直に座らされている、若い夫婦。着ているものは粗末で、生活窶れも見える。側には生まれてから数ヶ月といったところの赤子が、これは丁寧に籠に入れられてすやすやと眠っている。

「なんじゃ捨て子晒しじゃ」

 真忌名が呟くのと、ゼルファが人と人の間から見えるそれを見つけてすべてを把握したのとはほぼ同時であった。

 少年の顔は瞬時にして憎悪に歪み、そこに落ちていた石を掴むと、彼は大きく振りかぶってそれを若い夫婦に投げつけようとした。

 真忌名は、それにいち早く気づいた。気がついたときには、すばしっこいゼルファは真忌名が止められる姿勢にはなっていなかった。

「―――――!」

(間に合わん―――――!)

 真忌名は咄嗟に叫んでいた。

「―――――待て! 迦瑠檎かるご!」

「う!?」

 その瞬間ゼルファは―――――おかしな感覚に見舞われた。あたかも見えないいくつもの手に押さえつけられ、松脂を上からどろどろどろどろ、たっぷりとかけられたような、奇妙な硬直の感覚である。そしてこの時、彼は自分が空間に貼り付けられた気持ちにもとらわれた。事実、彼はその場で動けなくなっていたのである。

「う……っ……な、なん……―――――」

 この時ようやく側に来た真忌名が、手をスッと払うと同時に彼の硬直も解けたのだが、ゼルファ自身は硬直して体が動かず背後から近寄った真忌名にも気がつかなかったくらいなので、これには彼はなんの注意も払うことができなかった。

「見や」

 ゼルファはこの時初めて硬直が解けたことに気づき、脂汗の滲む顔でなにが起こったのかを必死になって自分で反復しているところであった。そして真忌名の声にハッとして顔を上げると、折りしも緋色のローブを纏った男が夫婦に近づいて話し掛け、すぐに後ろを振り返ってうなづいた。銀地に肩の部分だけ、緋色の変わった紋章の描かれた鎧を纏った男が二人、夫婦の側に近づくと手を貸して立ち上がらせている。肝心の赤子はというと、これはローブの男が丁寧に抱え挙げているのが見てとれた。

「〝赤〟の連中か。まあその辺りであろ」

 彼らを一瞥し、真忌名はいまだ先程の恐怖から抜け出せないゼルファを見下ろして冷たい声で言った。

「捨てるには捨てるなりの事情がある。あの貧しげな夫婦があの子供を捨てて、面白おかしく暮らすように見えたか」

「どんな事情があったって子供を捨てるなんて最低の連中だ」

「それはそうかもしれん。しかしそれは彼らの問題であって他人の我らがいちいちあれこれ言うことではない」

「わかったこと言うなよ!」

「それにお主があそこで石を投げたら、深く考えもせぬ野次馬どもの中にはつられて石を投げる者もあったかもしれん。そうしたらあの子供に間違いなく当たっただろうし、側を通った〝赤〟の教団の者が救いの手を差し伸べることもできなかったはずじゃ」

「あ……」

「直情径行なのは結構。しかし自分の行動がどういう結果を生み出すか考えるのも大切なことじゃ」

「…………」

 真忌名は立ち止まって考え始めたゼルファを尻目にずんずん歩いていった。ふと顔を上げて彼女が大分離れていることに気づいたゼルファは、慌ててそれを追う。

「ちょっとちょっと」

「なんじゃまだ来るのか」

「置いて行かなくてもいいじゃん」

「始めから連れではない。お主が勝手についてきているだけじゃ」

「う……」

 言い込められて言葉を飲み込むゼルファをおかしそうに見、真忌名は歩く速さを変えることはない。

 隣を歩きながら、ゼルファは言うか言うまいかを考えあぐねて、結局自分でも息苦しいほどの沈黙の後、そっと真忌名に尋ねた。

「あんた…………なんでオレの真名がわかったんだ」

 彼の認識では、真名というものは身内以外は洗礼を施した司祭しか知らないということになっているし、実際そうだ。

「…………巷では千里眼と呼ばれているでな」

 うっすらと自嘲的ともとれる笑みを浮かべ、真忌名はそれだけを言った。この曖昧な言い方にも関わらず、ゼルファは先程の衝撃の余波も手伝って、なんとなくそれで納得してしまった。

「ふうん…………」

 真忌名の巧妙な手口でごまかされた彼は当然気が付かなかった―――常人が真名でもってして本人を縛するなどできないのだということを―――――。


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