第一章 2

 真名―――――その者の存在の秘密を秘めた洗礼名である。子供が生まれると親は最寄りの教団へ赴いて司祭から洗礼を施してもらう。どこぞの教団の信者であればその教団の司祭に頼むし、無信心者であれば好きな教団へ行けばよい。重要なのは真名をつけることであって信者かそうでないかということではない。

 信仰の対象を持っていなくとも真名は持っていなくてはならず、無知ゆえに不精して子供に洗礼を受けさせず、子供を死なせてしまった親は過去枚挙に暇がない。本人の存在そのものを秘めた目に見えない、形はないが必ず〝在る〟真名―――――これを持たぬ者は自己の存在の意義を収める器を持たぬことになり、当然行き場をなくした存在意義は七日程辺りを漂ったあげく霧消してしまう。その為、洗礼を受けていない子供の寿命はもって一ヶ月だという。重要なことは、赤子という新しくやってきたこの世界の住人を、真名を通して全世界の森羅万象が認識し、迎え入れるということである。迎え入れられなければつまるところは、新生児はこの世界の一部ではないということになる。世界の一部でなければ、当然この世界で生きていくことはできないのだ。

 真名をつけられた子供は、例えば親が黒の教団の信者だとしても信仰を強制されることはない。強制による信仰は、強制した方に必ず恐ろしいことが起こるとして禁じられているところも、過去の前例から培った先人の知恵であろう。

 さて洗礼を受けた後、慣習により依頼者は必ず何かの形で教団に礼をしなければならない。金子でもいいし、物品でもいい。金額は決まっておらず、金額に司祭が左右されることもない。幼少時からの教育により、彼らはそういった私心私欲と共に職務に当たることを厳しく戒められているからだ。大切なのは感謝する気持ちをどう形にして表現できるかという事で、何で表現するかという事ではない。その昔、無一文の乞食が子供の誕生に際し司祭にそれを泣きついたところ、司祭は少し考えて、寺院の庭に柘榴がなっている、今私はそれを食べたいと思っていると暗に示唆し、柘榴を礼として受け取ったことはよく知られている。洗礼は義務であり、義務を施すことが職務である司祭は、それによって見返りを求めることは許されない。子供は長じてのち名付け親である司祭を訪れ自身の存在の秘密を知る。

 真名は、そういった意味合いを持つ為正式な場所以外では滅多に公開されることはないが、もし知られてしまっても存在の秘密が暴露されるわけではないので安心だ。とはいえその性質上、むやみに真名を周囲に晒すのも慎みがないとされている。身分が高かったり実力が高かったりなど、その人間の魂の比重に対して、真名の持つ秘密の複雑さも密になっていく。

 司祭は〝名付け〟の義務を負っている為、司祭同士で真名を読み取り相手の存在意義を暴くことはできない。それは、その行為自体が相手の命を奪うことであり、〝名〟を与えその命の本来持つべき軸を与える、つまりは命を与える事を義務とする司祭の、本来あるべき姿とは対極を成しているからである。命を与えることを生業とする司祭が同じ「もの」である司祭の真名を暴くなどと恐ろしい暴挙に出ては、人の世はもっと恐ろしいものとなるだろう。司祭同士真名からその者の秘密を読み取り、命を奪うような行為に及んだ場合どうなるのか―――――それは過去の様々な例からもはっきりしている。『失敗すれば死、成功してもその身は朽ちる』という、戒めとも脅しともとれる警告の言葉は今もって大きな説得力と共に語り継がれている。また司祭は、一般人に対しては真名を暴き命を奪うことはできるが、正規の司祭になる為の教育課程でそいうったことをきつく戒めているのと、やはりそれは生死に直結した問題である為、真名を暴くという作業はえらく体力を消耗する。大抵の司祭はそれをやっただけでしばらくは起き上がれないほどの生命力を消耗してしまい、うかつな新米司祭などがそれをやると間違いなく死に到る。それだけの労力をかけて真名を奪うという選択肢自体が、司祭という生き物には存在しない。意味がないからだ。宗派を問わず、それが例えその宗派の最終目的を大きく妨げることになっても、司祭は真名は与えるもので奪うものではないということを、知っているとかそういう次元ではなく、『そういうもの』として扱っている。

 真名は知られたところで存在の秘密が暴露されるわけではないので大丈夫なのだが、その性格上、そうたやすく口にするものではないという慎みがあり、それゆえ、真名を教えられるということは心の底から、自分の存在をかけて信頼しているということを表し、真名を教え合う仲と言えばそれは友人同士であろうとなんであろうと大したものだと言えよう。

 尚、真名を変えることができるのは、大勢にその名の秘密が知られてしまった時、配偶者に真名を知られたうえでひどい離婚をした時などが挙げられる。



「さて宿を決め直して」

 真忌名は―――――ラスティはちらりと周囲を見ながら言った。

「祭じゃ。三日後というからの」

「ちょっと早く来すぎたんじゃないの?」

「まあな。遅れるよりはいい」

「そうだろうけど……」

 変な女だなあ、とゼルファは密かに思った。

 大陸間の距離が最低でも二万キロ離れているこの世界、風土に即した生活を続けてきた人々は色々な祭を催すことで日々の感謝や実りを祝ってきた。海辺の者たちは大漁や嵐の終わりを、山の者たちは収穫を喜び自然に感謝する為、農村では、秋の実りや冬の終わりを祝う為に。それは、大袈裟に言えば世界のどこかでは必ず祭があるというくらいの頻度で行われている。大抵がその土地その土地のものだが、いくつかは有名なものがあって遠くから見物が来たり、時に旅人が滞在を伸ばしたりする。彼らが今滞在している街は、街というよりは都市と言った方がいいくらいの規模である。誰もが知っているほど有名、というわけではないが、この街の祭は、派手やかではない代わりに好きな者はまた見たくなるほど味のあるものだという。

「好きかどうかわかんないんじゃないの」

 それでも旅の暮らしのそこそこ長いゼルファは、この街の祭がどういうものか知った口調で真忌名に言った。

「それは見てから決める。見るということが大切なのじゃ」

「ま、そうかもね」

 ゼルファは頭の後ろで手を組みながら真忌名に答えた。

 と、その時である。

 突然前触れもなく、二人の頭上にあった植木鉢が、音もなく落下してきた。

「危ない!」

 真忌名は突然誰かに抱きつかれ―――――抱きついてきたその誰かもろとも勢いで壁に激突した。

「な……」

 ゼルファが立ち止まり、呆気に取られて抱きついてきた女を見下ろす真忌名を見るのと、植木鉢が彼女のいたちょうどその場所に落下してきたのとは、ほぼ同時であった。ゴッ、という鈍い音が、もしかして自分の頭の割れる音だったのかもとれないと想像してゼルファは、そこに立ち尽くして顔面蒼白となった。通りを歩いていた人々が、ざわざわとこちらを見たり植木鉢の落ちて来た窓を見上げたりしている。真忌名は自分にしがみついたままの女の肩を押さえ、まずは顔を見た。

「お主は……」

 真忌名はちょっと絶句した。自分に抱きついて植木鉢から庇ったのは、昨夜のあの娼婦、真忌名の助けたアイシャという女であったのだ。

「ラスティ! 大丈夫かい」

 駆け寄ったゼルファが聞くのも聞こえないかのように、真忌名は恐ろしいほど真剣な顔でアイシャの肩を掴み彼女を見据えて言った。

「身請けをしてやったに…………なぜ好きなところへ行かぬ」

 ゼルファは真忌名の剣幕にぎょっとし、それから恐る恐るアイシャの方を見た。

 昨夜とは別だが、同じような服装。同じ化粧、同じ不安げな顔。本来ならば、実家へ戻るための旅支度くらいできていてもいいはずだ。真忌名は咎めるように厳しい顔になっている。

「だめなの…………真名を奪われているの」

「何……」

 真忌名の血相が、変わった。

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