第一章

  その女の美しさは、絶望的だった。

 あくまで涼しげな瞳はきりりと切れ長で、その濃いすみれ色に自分が映っていると思うとギョッとする。つまりそれほどその目は冷淡な光を宿しているのだ。するりと通った鼻筋、その下には、滅多に口をきかぬ、滅多に微笑まぬとでも言いたげに、泣きたくなるほど無愛想に引き締まった唇がある。その眉はあたかもはばたく鷹、あるいは羽を広げたまま休む白鷺のそれ。大理石のような白い肌は、また大理石のようにひんやりとしているのだろう。手足はすらりと長く、背は、戸口に届かんばかりに高い。男でも高いほうだ。旅人の常で背には簡単な着替えと食料の入った背負い袋を背負っており、左の肩には、丸太でも抱えるかのようにいかにも邪魔そうに、見るも恐ろしげな長剣が抱えられている。その長剣の大ぶりな刃渡り、女の身に纏った鎧の数々の傷を見て、初め彼女に声をかけようと瞳を輝かせた酒場の男たちは、縮み上がりすくみ切って目をそらすようにして慌ててごまかすかのように杯に口を近づけた。

 戦士だ。

 女は奥の座敷の隅に座ると、入り口に背を向けて黙々と飲み始めた。

 酒場はほどよいにぎわいを見せていた。うるさすぎず、かといって静まり返っているというわけでもない。夜も更けてきて、客たちの様相も様々だ。あちらのほうでは少年ほどにも若い吟遊詩人が朗らかに歌を歌い、歌っては相手から謝礼をもらっている。べろべろに酔う者、とうとう潰れて机に突っ伏して眠ってしまった者、隣席の人間と意気投合し、大声で歌い出す者。また静かに飲み、二階の宿にそのまま部屋をとる者、冒険者らしき五人組は、疲れた顔をして言葉少なに食事をし、少し飲んでからまたすぐに出ていった。

 その中で女は、もう大分に杯を傾けているであろうに、そんな気振りは一切見せず、軽い食事を注文し、それを食べてしまうと、あとは黙々とただ飲み続けている。酔いがまわって機嫌がよくなるわけでもない、酒場の心地よい喧騒を眺めるというのでもない。あたかも彼女の周囲だけ見えないガラスの壁でもできてしまったかのように、その周囲の空気はそこだけ違っていた。なんの為に飲んでいるのか、本人もよくわかっていないのであろうか、機械的に酒を注いでは飲み干す様は、本当は飲んでいないのではとちらりと思うほどだ。

 夜半にもそろそろ近づこうという時刻、突然その少女は酒場に入ってきた。

 淡い山吹色の着物に若草色の半幅帯、その上からは、臙脂色の地に黒で朱鷺と南天の柄が左の身幅に描かれている打掛を羽織っている。不思議な事に、酒場に来るまでの道のり、少々引きずる程度の臙脂色の打掛は当然あまり整備の行き届いていない砂っぽい道の上を這っていたであろうに、少女のその打掛は、少しも汚れていなかった。

 年の頃は七、八歳であろうか、大人の尻くらいまでの背丈である。輪郭をきっちりと描く顔の線、驚くほどに優雅で空気のような身のこなし。人形のように色が白く、その終始弱く微笑んでいる唇はさながら桜桃のように赤く愛らしい。髪は肩に届くか届かない程度、前髪は、やわらかくまるい眉のすぐ上ぐらいまでに切り揃えており、両脇の髪を細い紙縒りできりりと結んでいる。ふっくらとした頬、思わず息を飲んでしまうほどおおきく黒々とした瞳。しかしその全体から発せられるものは、見かけのあどけなさとはあいまってひどく謎めいた、大人びたものであった。そのくせ、少女は一見するとひどく可愛らしい、年相応のこどもに見えるのだ。

 少女は酒場の喧騒に少しも怯むことなく、ゆっくりと辺りを見回し、自分を呆気に取られて見ている男たちには目もくれず、やがて何かを見つけたのであろう、そちらの方へ向かって静かに歩きはじめた。そして奥の座敷まで来ると履き物を脱ぎ、入れ込みで先程から黙々と飲んでいる女の卓の傍まで来て静かに正座した。そして羽織っていた打掛の裾をきれいに直し、そこへきっちりと手をついて頭を下げた。

真忌名まみなさま」

 凍りつく周囲の空気などものともせずに、卓に肘をついて杯を持ったまま、女は初めてそちらを顧みた。

「お前か真赭まそほ。久しいな」

 にやりと笑い、女は壁によりかかりながら真赭と呼んだ少女を見た。少女はかしこまって、

「はい…真忌名さまには、ご機嫌うるわしゅう…」

「真赭」

 にやにやと笑いながら、女は真赭の言葉を遮った。

「お前らしくもない…堅苦しい挨拶はそれくらいにしておけ」

「は…」

 真忌名は視線を戻してつまらなさそうにまた杯を傾けた。

「連絡を取らなかったのは悪いと思っている。しばし、誰とも会いたくはなかったゆえ」

「追放の理由は我らにも責任があると、是親が申しておりました」

 真忌名は馬鹿を言うなとでも言いたげにふっと鼻で笑った。

「何を言う。すべて私が勝手にしたこと…お前たちはお前たちの掟に従い私の下へやってきたのだ。まさかそれを気にして今まで姿を現わさなかったというのではあるまいな」

「……」

「図星か。まったくお前たちの配慮の広さにはほとほと感心させられる」

 ため息をついて真忌名が杯を卓の上に置き、さらに真赭が顔を上げて何かを言おうとしたその時であった。

 ―――真忌名の目が、獲物を見つけた鷹のそれのごとく鋭く光った。

「控えておれ」

 真忌名は入り口の方を振り向きそちらへ身体を向けたまま、真赭に低く言った。

 すると、熱い紅茶に入れた角砂糖のように、真赭の姿はスッと薄くなっていき、ほんの一瞬ほどで空気に溶けいるように消えてしまった。

 共に真名で呼び合うこの二人は―――――主と使い魔の関係なのか。少女の少女らしからぬ素振り、そして空気にスッと溶けるようにして姿を消した様子からいって、少女がこの女の使い魔であることには間違えようがない。

 そして少女が―――――真赭が―――――消えた途端、慌ただしい音と共に酒場の入り口に誰かがやってくる足音がした。

 バタン!

 その足音の主は凄い音で扉を開けたことに自分でも気が付かないかのように動揺し、狼狽していた。足音も賑々しく、男は髪を振り乱して酒場に乱入してくると、全身を駆使して何かを探しはじめた。その顔が激しく動くたび、汗がしずくとなって床に落ちた。

 男は年の頃二十四、五、肩くらいまでの淡い金髪を一つに束ね、切れ長の瞳は明るい緑。 きゅっと締まった唇からは白い歯がこぼれ、大理石のような白い肌は上気して桜色に染まっている。ひどく動揺しあちこちを走り回ったのだろうか、乱れた前髪が顔にさしかかってそれがなんともいえない色気を出している。女と言われてもおそらくなんの疑問も持つまい。いい男だ。

 男はひどく慌てた様子で酒場の隅々まで目をこらし、それでも探している何かが見つからないので余計慌てて、そしていないはずがない、いるのはわかっていてまだ見つからないだけとでも言いたげな、ほとんど確信に近いものを抱いて奥まで足を伸ばし、見渡して視線が通り過ぎた後、視覚がとらえた映像を脳が一瞬遅れて認知した。

 男は入れ込みの側まで来てそこに手をついた。

「真忌名さま!」

 真忌名は視線を前に据えたまま低く答えた。

「どうした甫従もとより。ひどい慌てぶりだの…色男が台無しぞ」

 真忌名はそこで初めて、座敷にも上がらずそこへ土下座している甫従へと目をやった。

「この甫従…恥を忍んで一生のお願いに…」

 真忌名の瞳がキラリと光った。

「すぐ側のイリアック会戦か。お前の側は負けているようだな」

 甫従は額を床につけたままヒヤリとした。

「は…お察しの通りで」

「……助太刀をせよ、と。そういうことか」

 甫従は初めて顔を上げた。その顔は、まるで真忌名が最後の頼みとでも言いたげにすがるような表情になっている。

「お願いでございます! 今敗戦してしまうと我が国は」

「甫従」

 絞り出すような甫従の言葉を、しかし真忌名は低い声で遮った。

「引退したとはいえ……私はまだ本国の人間だ。今お前の頼みを容れて助太刀すれば、それは他国への介入となる。すまんがお前を助けることはできん」

「真……!」

「噂は聞いておろう。引退とは銘打っているが実際は違うということくらいお前も知っているはず。今私が何か問題を起こせば……『引退』扱いにまでしてくれた者の立場がなくなるゆえ」

「あ……」

「すまぬ甫従」

 声の調子が変わった。甫従はハッとして顔を上げ、初めて真忌名の顔を見た。真忌名はまっすぐに自分を見ていた。特別悲痛というわけではなかったが、その代わりその紫の瞳は、彼のよく知っている勝ち気なものでも、人を馬鹿にしたものでもなかった。

「さあ戻れ。お前がいなくては士気も下がろう」

「………………」

 甫従は静かに立ち上がり、打ち拉がれて真忌名に背を向けた。通常取るべき真忌名に対する礼も、衝撃に耐えるだけが精いっぱいの彼には無理なことであった。真忌名もそれを咎めず、座ったままそれを見送り、やがて甫従が酒場から出て行くと、傍らの空間に向かって話し掛けた。

「真赭」

 スッ……

「お側に」

 突如、何もなかったその空間から、先程のように、今度はそこに見えない壁があって、それが徐々になくなったかのように真赭が現れた。

「甫従が無事に戻るまで警護いたせ。お前で手が余るようなら、他のどの配下を使っても構わん…………とにかく生きて戦場まで返すのだ」

「かしこまりました」

 スッ……

 その言葉と共に真赭は再び姿を消した。

 真忌名は何事もなかったかのように向き直って酒を飲み始めた。が、杯を飲み干してしまって杯の底からゆっくりと正面の席が見えてき始めて、真忌名はゆっくりと目を細めた。

「…………」

 今真忌名の目には、酒場の風景ではなく、馬に乗り全速力で闇の中を戦場に戻る甫従の後ろ姿が映っている。必死に馬を駆る甫従の、その背後から濃い灰色の靄のようなものが、幾重にも幾重にもとぐろを巻いてゆっくりと甫従へ近づいている。馬を駆る甫従は、夢中になっていてそれに気づかない。濃い灰色の靄が甫従の背中のすぐ側まで到達した。

 真忌名は目を細めた。

 濃い灰色の靄が今しも甫従に襲い掛かろうとしたその瞬間、異変は起きた。

 無数に広がって甫従を狙っていた灰色の靄の周囲に、明るいオレンジ色の雲のようなものが現れたかと思うと、唸りを上げてそれを次々に散らばし始めた。灰色の靄は、あるものは霧消し、あるものは大小の爆発を音もたてず立て続けに起こして消えていった。しばらく攻防を続けていた両者であったが、消えることはないかのような数を誇っていた灰色の靄が段々と薄れ、晴れていくと、残っていたオレンジ色の雲のようなものはカッと凄まじい光を放ち、次の瞬間には両者は跡形もなく消えていた。

 甫従は、最後まで何も気が付かずに馬を駆っていた。


   甫従め……尾けられたな


 真忌名はゆっくりと意識を表に向けた。しんとして静まり返っていた周囲から、薄紙をはがすように段々と酒場の喧騒が戻ってくる。それにつれ、甫従の後ろ姿も次第に消え、目の前の卓と壁が映り始める。そして傍らには、真赭がいる。

「よくやった」

 真赭は黙って手をつき頭を下げる。

「さて甫従だが……」

「はい」

「あれには借りがある。助太刀してやらねばならぬ」

「はい」

「どれ視てみるか。甫従はもう戦地に戻ったかな?」

 真忌名は片手をこめかみに当て肘をついた。

 その瞬間真忌名の脳裡には、どこぞの草原で激しい戦いを繰り広げる無数の兵士たちの姿が映っている。今いるこの街から、ほんの数里しか離れていない場所のはずだ。さらに視点を移すと、先程自分の身に起こり得たであろうことなど露ほども知らぬ甫従が抜刀し、敵を蹴散らしながら前へ前へと行こうとしているのが見える。上官のテントでも目指しているのだろう。


   なるほど……これは敗色濃厚というやつだな


 真忌名の口元が皮肉っぽく釣り上がった。前方に馳せたその濃いすみれ色の瞳が、見る見る鋭く、危険なものになっていく。


  どれ……


 ―――――カッ 

 どこか遠くの空で、なにかが爆発する音がした。酒場の人間は一瞬静まり、それから口々に異変を唱えてそちらの方角を見た。窓から見える空ですら、微かに赤く染まっている。真忌名だけが動かない。

 今真忌名の瞳には、次々に耳を貫く爆発を起こす戦場が映っている。そして、それを呆然と見上げる甫従の姿も。


   ふふ……驚いておるな


 さて仕上げだ―――真忌名は不気味に呟くと、蝋燭でも吹き消すかのように小さくフッ、と息を吹いた。

 チッ

「―――真忌名様!?」

 しかし彼の叫び声は虚しくかき消された。


 ―――


 ドォ――――ン!

 甫従の背後から流星の尾のような白い細い光が突然疾ったかと思うと、地上に衝突して大きな爆発を引き起こした。今までの爆発など、まるで相手にもしないような凄まじい爆発であった。

「ふふふふ……さすがに鋭いの」

 真忌名は真赭に向き直り、

「充分かな?」

 と聞いた。

「充分すぎるほどでございます」

「そうか」

 街では、すぐ近くで起こったであろう無数の爆発に住民が不安の色を隠せないでいる。 人々は道へ出ては、微かにほの赤い空を見上げて口々に話し合っているようだ。


  借りは返したぞ甫従……あとはお前の実力ならば、どうとでもなろう


 真忌名は首を左右に揺らし、コキコキと音をさせながら真赭に言った。

「遠隔魔術は肩が凝るの」

「左様でございましょうとも」

 真忌名は上機嫌になり、大瓶を注文すると、またも酒を飲み始めた。

 月はまもなく中天にさしかかろうとしている。




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