第二章 7


 その男の動きは素早かった。連日の見物で普段は遣うことのない気を遣い、戦いや礼拝堂の中で使う体力とはまったく別の体力を使い、その後も様々なことがあったゆえに、真忌名はその晩熟睡していた。真夜中を過ぎてからである、宿泊客と偽って宿に逗留したその男はそっと起き出し、支度を整えて廊下に出ると、真忌名の部屋の扉の前に立ちその鍵穴から布をすっと入れた。片手では素早く持っていた香炉に火を入れ、そっと布の下に滑り込ませた。布は煙を吸い込み、そしてゆっくりと煙は鍵穴を通して部屋の中へ流れていく。そして三十分も辛抱強くそれらの作業を続けた男は、扉に耳をつけて中の様子を窺うと今度は針金のようなものを取り出して鍵穴に差し込み、手応えで部屋に鍵がかけられていないと知ると少し驚いた様子を見せ、そっと立ち上がって慎重に扉を開けた。

 中はまだ靄のように煙が立ちこめ、渋いようないがらっぽいようななんともいえない匂いが充満している。それに少しも動じる様子を見せず、男はゆっくりと真忌名の眠るベットに近寄ると、彼女が熟睡しているのを確認してその長身をそっと抱き上げた。



 ゼルファは奇妙な夢にうなされていた。

 夢の中で、自分は暗闇の中に立ち尽くしているのだ。しかし真っ暗闇というわけではない。かすかに濃い緑色、苔のはえた沼のようなどろどろとした緑を含む暗闇の中、彼は立っている。周囲を見渡してもなにもなく、ただ香草に使うための渋い香りの葉を燻すような匂いが立ち込め、それが彼を何とも言えない不安に陥れる。身体が痺れるような疲れているのに頭の芯だけぴんと張り詰めているような、奇妙な感覚なのだ。闇の中彼は出口と光を捜し求めて歩き、歩き続けるがどこにも目指すものはない。

 そして突然、闇の中からぬっと現れた大きな大きな腕が彼を掴んだと思うと、ゼルファはそのままゼリーのように柔らかくなった床の下へ落ちていくのだ。恐怖のあまり叫んだ拍子、自分の叫び声で目が醒めた。

 彼は今の今まで見ていたものが夢であったと窓の外の光を見て再確認し、ほっと息をついて起き上がった。嫌な夢である上、ひどく不可解だった。いろいろなことがあって疲れているのだろうか。

 と、息を大きくついたとき、彼は室内の異変に気が付いた。

 微かだが、異臭がする。ゼルファは旅人の勘が急激に警鐘を鳴らすのを感じて飛び起き、隣室の真忌名の部屋へと入った。

 が、そこには真忌名はおらず、ベットはもぬけのからであった。ただ、是親と真赭が神妙な顔をして振り向いただけである。部屋の中は、先程まで室内で香でも焚いていたのかと思うほどに、微かだが煙がたゆたっている。

「…………どうしたの。ラスティは?」

 是親と真赭は顔を見合わせ、次の瞬間真赭が静かに答えた。

「さらわれました」

「はっ?」

 あまりにさらりと言われて、ゼルファは最初何のことか理解するのに時間がかかった。

 自分の身近に突然そんなことがあったとは考えにくいし、第一真忌名がみすみす自分が寝込みを襲われるのをよしとするはずがないという思いが、彼の中でどこかあったからであろう。

「な、なんで……気がつかなかったの? あんたたちは」

「いえ……」

「存じておりました」

「な……」

 ゼルファは絶句した。平生真忌名に絶対服従を誓ってやまない彼らが、一体どうしたというのだ。まさか叛乱というわけでもあるまい。

「な、なんで? も、もうちょっとわかりやすく―――――」

「普段からきつく申し渡されているのです」

 是親が真面目くさった顔でまっすぐゼルファを見て言った。

「真忌名様は、ご幼少時からの特殊な環境により聞いたことはあるけれど実際に経験したことがないことが山ほどある、と思っておられます。ゆえ、よほどのことがあって真忌名様の身に危険が及んだと我らが判断したとき以外は、真忌名様には手を出すなと申しつかっているのです」

「だだだって……なんかあったらどうすんの!」

「そのようなものは、あの方には滅多にないのです」

 真赭はベットの側の真忌名の剣をそっと手にとって静かに言った。

「『何か』などとは」

 そう言うと真赭は是親と顔を見合わせてうなづきあい、出口に向かった。

 助けに行くんだ、ゼルファは直感した。もっとも、これも真赭の言葉を借りると助けに行くのではなく単に後を追うだけのことなのだろうが。

「ま、待って。オレも行く!」

 真赭は暗闇のなかでじっとゼルファを見つめ、ただ一度うなづいたのみであった。

 夜の闇の中を、三人は走った。是親とゼルファは徒歩で、真赭は童女の姿をしているがゆえにいつものように宙を飛んで、是親と真赭の道の選び方に迷いはなく、真忌名がさらわれるのを別の空間からじっと見守っていたかのような迅速さであった。

 沈黙を続けながらも一心に目的地に向かう二人の横顔を見ながら、ゼルファは一体どこまで行くのだろうと思っていた。謎はしばらくしてすぐに解けた。気がつくと三人は、街外れの森の入り口まで来ていた。森の入り口は人の通る道が途絶え、暗い口を開けて招くようにして佇む森を臨むことができる。しかし今入り口は、ゼルファの知っているそれとは大きく違っていた。

 天に向かって大きく掲げられた、四方を囲む四つの柱。天蓋の支えのようでもあり、なにかの護符のようにも見える。それぞれには方角を示す色の布がてっぺんに縛り付けられていて、吹いてきた強い風にばさばさと音をたててはためいている。そしてその柱に囲まれた中心に大きな石の台が置かれ、ゼルファは立ち込める香炉の煙が流れる中、確かにそこに真忌名が横たわっているのを見た。

「な……」

「しっ」

 立ち尽くし思わず声を上げそうになったゼルファを、真赭が物陰に引っ張った。

「な……なんだあの男」

 そしてそっと窺い見るゼルファの目に今、一振りの剣を持ってしずしずと歩み寄る男が映っている。男は、山吹のような濃い色の黄色の衣を纏っていた。そして森の向うにそっと目を馳せ、それから剣を掲げて恭しく一礼すると、そこに剣を置きあぐらをかいて座り、印を結んでなにやら呪文を唱え始めた。それは夜の闇に不気味に響き渡り、高低の抑揚も森の中に吸い込まれてはこの世のものではないものを呼び寄せるかのような重いものを引きずっては現われ、また消えては現われるを繰り返している。

 やがて紡がれた言葉がゆっくり、苛々するほどにゆっくりと形を成し始めた。

 それは墨を流したかのように黒く、長く、不気味な唸りを上げて空へ立ち上っていく。その妖しく恐ろしげな様子は、ゼルファの素人目にも危険だということが嫌というほどわかった。彼が固唾を飲み、思わず拳を握り締めた時、事は起こった。

「トルクアイレ神よ」

 男が詠唱をやめ、森を見上げて低い、よく通る声で言った。

「全能にして全知、全ての破壊を司る完全にして無二の神よ。これなるは卑小ながらも強力なる人の子。御懐にお収めください」

 そして男は両手をゆっくりと広げ、なにものかを褒め称える賛辞を朗々と歌うようにして口にし始めた。

「と……トルクアイレ神って?」

「破壊を司り生贄と引き換えに人の願いをかなえるとされる邪神のことでございます」

 ゼルファは恐ろしさでそれ以上口をきくこともできず、息を呑んで事態を見守った。

 やがて男が唱え続け、黒い帯となって空を漂っていた呪文がゆっくりと降りてくると、男はまたなにごとか詠唱を唱え、その抑揚によって、黒い霧のようなものがあたかも生きているかのようかのようにくねくねと動きながらゆっくりと真忌名の方へと伸びてくるのをゼルファは見た。

「助けなきゃ…………!」

 飛び出そうとしたゼルファを、信じられないような強い力で是親が止めた。

「なりません」

「なんてこと言うんだ……! あんたの主人なんだろ!」

 是親に飛び掛ろうとするゼルファの手を押さえ、真赭が宙に浮いたまま静かに、しかしこれまで見たことのないような強い調子で言った。

「真忌名様は、あれしきのことでどうこうなるお方ではございません」

「なんでそんな風に言い切るんだよ! そうじゃなかったらどうするつもりだ!」

 しかし真赭は到って落ち着いていた―――――その冷たい、冬の池のようなそっけない瞳は、愛らしさだけが真赭の側面ではないということをなにより物語っていた。

「わかるのです」

「―――――」

「なんとなれば、真忌名様と我らは互いの真名と存在意義を知っているがゆえに――――わかるのです」

 その確信的な物言いにゼルファは圧倒された。相手は人間ではない、魔族なのだ。

 ゴオオオオ……

 不気味な空気のうねりが轟音を上げ、その音のあまりの低さと恐ろしさに、ゼルファはぎょっとして振り向いた。

 折りしも男が剣を振り上げ、真忌名の白い喉に振り下ろそうとしているところであった。

「ラ…………!」

 シュッッ……

 ―――キィン!

 正にその切っ先が喉に食い込み、首と胴とが真っ二つになるより先に―――奇妙な音がした。それは昼間の、騎士と引退騎士との立ち合いを思い起こさせた。

 ゼルファは我が目を疑った。

「―――――」

 真忌名が首を上げ、ふりかぶった剣を手で受け止めている。

「な…………なんで……」

 そして当の本人―――――剣を振りかざしていた男も、仰天していた。生身の、剥き出しの手である。

「なるほどのう」

 続いて余裕たっぷりの笑みを浮かべて言い放った真忌名の、ぎょっとするほど冷たい紫の瞳の中に獣のようなものを見出して、男は再び肝を潰した。

「な……な……そ、そんな…………なぜ」

「身体の一部分を鋼鉄化するなぞ朝飯前じゃわえ」

 起き上がり、真忌名はにやにやと男を見上げた。

「昨今はよほどにお主らとめぐり合わせがあると見えるのう。こないだも、そしてお主も〝黄〟の者とは」

「う……う…………」

「まあ一緒にされてはかなわんじゃろう。こないだのは破戒僧。お主は正規の司祭。それも、邪道な真似をしてでも出世したいという正直者じゃ」

 まんざら嘘でもないような顔で、真忌名は言った。

「ぬ……お、おのれ…………」

「ふっふっふっ。立腹かや。それもよいがお主の神が怒っておるぞ」

 ハッとして男は顔を上げた。

 オオオオ…………

 闇が、行き所をなくして空高いところで唸りをあげてうねっている。

 目標を失ってうろうろしているようにも、それゆえにひどく怒っているようにも見える。

「そ、そんなのはもう一度剣を突き立てればいい話だ。お前を捧げるという言葉に嘘はないのだからな」

「やれやれ」

 真忌名は挑戦的かつ蠱惑的な顔で台の上で身体の右側を下にして男の方を向きながら寝そべった。肘をついて顔を支え、くつろいだように足をもう片方のそれに乗せる。

「なぜお主の神が怒っているかわからんか」

 にやにやと笑いながら真忌名は言い、その言葉にハッとして男が空を見上げた時には、もうすぐ側まで黒い靄は彼の近くまでやってきていた。

「そ……そんな…………生贄を捧げる言葉は間違っていな…………ぎゃああああああ!」

 遠くから見ていたゼルファは思わず目をそむけた。遠く離れたこの場所までも、ぐちゃっ、ピチャッ、コリッという生々しい音が連続して聞こえた。

「自分では意図せずにある部分が間違うておったのよ」

 真忌名は細切れになった肉と骨を見下ろして大して面白くもなさそうに言った。

「もう聞こえぬか」

 そして起き上がり、自分を囲んでいる四本の柱を見上げてやれやれとため息をつく。

「ラスティ! 大丈夫かい」

 顔面蒼白になって駆け寄るゼルファと、その後ろから是親と真赭がやってくる。

「無傷じゃ。こんなものを見にわざわざ来るときお主も相当物好きよの」

「またそんなこと言って……」

 息を切らせ、呆れて言うゼルファを見て、真忌名はふふと喉の奥で笑った。

 そしてちらりと、ひと塊の肉となってしまったそれを見た。見てしまった。

「う。こ……この人…………」

 これ以上見ないように、不自然なくらいに目を逸らした。吐き気をこらえるので精一杯だ。

「ふむ。ここ最近の行方不明者が無残に殺されているという事件は恐らくこやつの仕業であろう。おおかた、邪神の力を借りて教団内での自分の力をより強大なものにしようとしたのじゃろ。いかにも〝黄〟の連中が考えそうなことじゃ」

「な、なにが起こったの」

 視線を逸らし、なるべく先ほどまでは人であった肉の塊から遠ざかるようにして、ゼルファは顔面を蒼白にして言った。

「なに。邪神は邪神でも強力な力を持つ神の一種には違いない。が、人間の住む場所とは位相が違いすぎるゆえ、あのような邪神は特にこちらでは動きが不自由じゃ。だから言霊できちんと導いてやらねばならぬ。言葉で邪神に生贄を捧げると言った以上、それらが少しでも間違うておると邪神は目の前の生贄を喰らうことができぬ。結果として意図せずに嘘を言ったことになり、邪悪であるとはいえ神に嘘をついたので術が跳ね返って自分が喰われてしまったというわけじゃ。最後の犠牲者が自分自らとは、なかなか風流だのう」

 絶句するゼルファを尻目に立ち上がり、少し後ろで控えていた是親と真赭に、

「ご苦労。大事ない」

 と言うと、真忌名は歩き出した。

「ど……どこ行くの」

「これは面妖な。宿に決まっておろう。見や、もう夜半すぎじゃ。明日の出発も早いというに、迷惑だのう」

 すたすた歩く真忌名を慌てて追いながら、ちらりと先程まで人間であった肉の塊をちらりと見て、ゼルファは、辛うじて吐くことはなかったものの、当分肉は食えまいとちらりと思った。ふと顔を上げると、街の向こう側に月が沈もうとしていた。


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