第三章
深淵の闇である。
辺りには煙の一筋も、誰かの咳一つ見出すことはできぬ。しかしそこに人がいることは何よりも明らかで、しかも複数で集まっている彼らは、相手の姿かたちを確認できなくても、全員がそこにいるということをよくわかっていた。濃い紫にも似たねっとりとした闇が小さくさざ波をたて、誰かがちらりと動いた気配以外、なにものも見出すことは不可能だ。
「とうとう例のものが動き出した」
唐突に誰かが口火をきった。その言葉はさらりとして言い方も何気ないものであったが、それを聞いた闇の中にいる全員が、明らかな動揺を見せて身じろぎし、その拍子に闇も大きくうねった。
「して…………ターゲットの特徴は」
他の誰かがそっと聞いた。長い間待ち続けた事の成就を前に、微かに声が喜びで震えている。
「特徴は―――――」
闇の別の方向が口を開く。
「紫の服を古着屋で購入しているのを手の者が確認している。そして黒い髪だ。高く結っている」
「なるほど」
「ならば」
たったそれだけの短いやり取りで、闇の中にいた者たちの気配が消えた。短い言葉の行き来のみで、彼らはすべてを掌握したようだった。
しばらくして闇から完全に気配が消え、渋いような甘いような香の匂いが少しの間だけ立ち込めていたが、やがてそれもなくなってからは、ねっとりとからみつく濃い闇だけがいつまでも漂っていた。
「なんじゃこれは」
街に入って第一声の真忌名の言葉が、これであった。
真忌名が騎士と立ち合ったことでひどく目立ってしまったという理由から前の街を発って三ヶ月、二人は次に訪れる街を目指して旅を続けているところであった。大陸は広く、ひとつの大陸の直線上での隅と隅は、一番短くて二千キロある。移動の間に季節はあっという間に過ぎて行き、これだけ広ければ同じ大陸でも東端と西端の文化の違いは著しいとは言えないがかなりの違いがある。それが、あちこちに絶えず祭があることの理由といってもよかろう。そして今真忌名は、目指す街まであと数日というところまでやってきて、この日は立ち寄ることのできる街があったので立ち寄ったというわけだ。街と街は近いこともあれば、とても遠くに位置していることもある。四日も野宿をして宿にありつけたのは、運が良いと言わねばなるまい。まあもっとも、野宿などは真忌名の苦にするところではないからもっぱら助かった、有り難いと思うのはゼルファのほうであろう。
そして門を入って街を何気なく見渡した真忌名の仰天した言葉で、ゼルファもまた顔を上げた。
「う…………わ……なんだこりゃ」
あちこちの街を渡り歩いている彼が思わずそう呟くのも無理はあるまい。
街を行く人々が、すべて紫なのである。
いや、すべてという言い方は正しくないのかもしれぬ。彼らは全身が紫色なのではなく、身体の一部分の服やら装身具やらが紫なのだ。紫のスカートをはいている女もいれば、紫色のターバンの男もいる。明るい紫色の編み上げ紐の靴をはいている子供もいれば、大きな紫の石をあしらった耳飾りをしている老女もいる。ある者は濃い紫のバンダナのようなものを二の腕に巻きつけ、ある者は藤色のベルトをしている。その色たるや、装身具や服の種類と同様、正に千差万別であった。
「なんじゃ? 地図にはそのようなこと書いておらなんだ」
真忌名が開いて今自分たちがいる辺りを見ているのは大きな世界地図で、あちこちの伝統的な祭が無数に示されているものだ。ゼルファの呆れたような視線も気にせず、真忌名はうーむと唸って、
「是親」
スッ……
「は」
「説明しや」
「は…………これなるは『紫星祭』と呼ばれるものでございます。その昔天の紫の星から一条の光が数日に渡ってあちらの山へと伸び、不審に思った街の者たちが山へ赴いたところ、盗賊の群れが彼方より襲ってくるところでございました。慌てて街へ信号を送り、恐るべき速さで住民たちを避難させ、翌日の襲撃で盗賊たちはもぬけの空となった街へ辿り着く羽目となったといいます」
「ほう」
「しかも、怒り狂った盗賊どもが住民たちが戻ってくるまで街に居座ろうとした時も、紫星より恐るべき赤い光が伸びてきて盗賊どもを焼き払ったということでございます」
「真実か」
「事実でござりまする」
太古の昔から今までを生きてきた是親の言葉に、真忌名は愉快そうに鼻先でふふんと笑った。
「しかしこの地図にはないぞ。いかがしたことか」
「ご無礼つかまつりまする」
是親は真忌名の側に寄って地図を見た。そして今いる街の地点を見ると、わからないほどわずかに眉を寄せた。
「真忌名様、これは落丁でございます」
「なぬ」
「有名な祭でございますゆえ……明らかかと」
「うーむ…………やはり値切ったのがまずかったかの」
「参考までに聞くけどいくらに値切ったの」
「銀貨二枚を銅貨三枚にじゃ」
「銀貨二枚から銅貨三枚分値切ったの?」
「何を言う。銀貨二枚を銅貨三枚にしろと言ったのじゃ」
「えげつなっ」
「それで結局銅貨七枚になった。まあ仕方あるまい。是親、直しておけ」
「は」
地図を受け取り、街に入る真忌名とゼルファに続いて、是親は尚も続けた。
「以来、街の者は空の紫の星を救い主と崇め、盗賊が襲撃してきた八月の中日、十五日に紫色のものを見に付けて盛大に祭を催すのでございます」
「中日って言ったら明後日か。よかったじゃん」
「なにがじゃ」
「予想外でいいことあると得した気持ちになんない?」
「うーむ」
真忌名は難しい顔をして腕を組んだ。
「予想外過ぎて心の準備ができておらぬ。是親、総力を挙げて名物をリストにしや。食い物は大事ゆえ」
「かしこまりました」
是親が恭しく一礼し、人込みにまぎれてしまった後、二人は宿を決め、荷物を置いてまずは街の湯屋に行ってさっぱりとし、それから真忌名の提案で買い物をすることになった。
「買い物ぉ?」
ゼルファの素っ頓狂な声に、真忌名は大真面目でうなづいた。
「紫のものを身につけなくてはならぬ。礼に入っては礼に従えじゃ」
「それを言うなら郷に入っては郷に従えだろ」
「似たようなものじゃ。お主もなにか紫のものを身につけるとよいぞ」
ゼルファ、呆れて言葉も出ない。
しかし彼は、彼独特の天賦の才能からなせる鋭く感受性に溢れた感性と勘、吟遊詩人の常で好奇心の高い観察力と、そしてなにより真忌名の恐ろしさを嫌というほど知っている故、そしてまた、あちらこちらに隠れる彼女の謎めいた部分を少しずつ知り始めているが故に、真忌名がこうしたちょっとしたことでも経験したいと思うのも仕方がないのではと思っている。なんとなれば、自分の身長を遥かに凌ぐ小山のような大男にいきなり立ち合いを申し込まれても平然とし、眠っている間にさらわれ邪神に生贄にされかけてもけろりとしている女である。それだけでどれだけの修羅場をくぐってきたのかがわかるというものだ。詳しくは知らぬが、真忌名は『引退』という名目でエド・ヴァアスを去った。それをいいことに彼女が今までの成長過程で味わうことのできなかった青春を取り戻そうとしているのは、なんとなくわかるような気がしないでもないのだ。
やがて二人は古着屋の多く立ち並ぶ通りを見つけ、互いに自分の買い物が終わったら相手を探すということで別れた。ゼルファは最初に入った小さな小物屋でいくつか物色し、いつか旅の途中で見た秋の海を彷彿とさせる、青みがかった変わった色の紫の小さな布を買った。左の二の腕にでも巻きつけるつもりだ。旅の途中のことだし、荷物が増えるような真似はしたくない。さて早く用事が済んだものだと表に出て辺りを見回した時、三つほど向こうの店から出てきた背の高い人影に目をやり、それと同時にぎょっとした。
真忌名であった。
しかも紫色の綸子の着物を纏っている。ゼルファがぎょっとした所以はこれであった。
「おう、終わったかや。地味だの」
「あんたって…………」
ゼルファは絶句した。ちらりと店を見ると、着物専門の古着屋のようであった。
真忌名はいつもは無造作に流しているだけの黒髪を高く高く結い上げ、和服ということで襟もかなり抜いているのでなかなかに色っぽい。綸子のその着物は濃い紫地、掌大の白と淡い橙のなにかの花を模した模様が所々に描かれており、短冊のようなものもそれとともに流れるような形であちこちにひらひらと描かれている。帯は気軽に半幅のもので、萌葱色と見た目も鮮やかである。
「安かったでな。似合うか」
「まあね」
ゼルファは何と言っていいかわからずに曖昧な答えを返したが、我ながら的を得ない言い方であった。元々すらりと背が高く、切れ長の瞳ときりりとした口元の真忌名は人目を引く上群を抜いて美しい。何を着ても、似合わないはずがないのだ。例え白と青の縞々模様の囚人服とて、彼女が着た途端に服は彼女の存在に追随して彼女は完全にその服そのものをものにしてしまうに違いない。このどうともとれる答えを聞いて真忌名が何か言うかと思ったが、予想に反して彼女は何も言わなかった。
「さて昼餉といこう」
早速真忌名は舌なめずりでもしそうな顔で言い、ゼルファはいい加減慣れてきたつもりで、実は自分は何にもわかってないということに今更ながら気づいた。
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