第三章 1

 いたか?

 まだだ

 なにをしているのだ―――――なぜこの街にいるとわかっているのに何もせぬ

 紫―――――

 紫の服を着た人間が、多すぎるのだ

 なんということだ 

 我らを守護するものが今また我らを邪魔しているとは―――――



 昼下がりの通りをゼルファと真忌名は歩いていた。二人はその時、この街で祭を見てすぐに出発するとして次に行く予定であった村の祭には行けるのかどうか、その場合の行程をどうすべきかを話していた。傍らにはいつものように、真赭が正座した形で浮遊しているところであった。この時歩いていたのは大通りでもなんでもなく、どちらかというと裏通りの、人の行き来は多いがまかり間違っても年頃の娘が一人で行くような場所ではないほどの柄の悪い場所であったといえよう。こういう所を暗黒街っていうんだよな、とゼルファは懐かしい空気を胸いっぱい吸い込んだ。猥雑さと危険と、無関心と強欲の立ち込める場所。

 と、向うから歩いてきた、大きな変わった鳥の姿をしたものを肩に乗せた男が、真忌名を見てむ、と一瞬立ち止まり、それから近寄っていっていきなり言った。

「失礼、突然でご無礼する。魔術師の方とお見受けした。一手わたくしめの使い魔と勝負させていただきたいが」

 真忌名は真赭とちらりと視線を交わした。

「どうしたい」

「ご随意のままに」

 真忌名はちらりと男を見、それから肩に乗る大きな大きな鳥の姿をしたものを見た。鋭い黄色の目で、じっとこちらを見ている。これで男の口調が無礼だったり、身なりもきちんとしていなければそれなりのことをしてやるのだが、こうも馬鹿丁寧に言われると邪険にするのも気がひける。しかも、この男の連れている使い魔を見れば尚のことだ。

「いいだろう。勝負してやれ。殺さぬようにな」

「は」

 真忌名はすたすたと歩き出し、男が止めようとして後ろを振り返り、その拍子に肩から飛び立った一本足の鳥の姿をしたものがはたはたと空を飛んだ時、すべては決まった。 

 魔術師であろうその男は、背後でカッ、という音と共にオレンジ色の光が炸裂したのに驚いて振り向き、そこで自分の使い魔が地面に伸びているのを見、そして真赭が宙に浮遊したまま丁寧に手をついて一礼するのを見た。

「ご無礼つかまりました。では…………」

 あっという間の出来事に、男はしばし何があったのかわからないようだった。そして浮遊して真忌名を追う真赭の後ろ姿を見て、次第に恐ろしさが増していくのを感じていた。

「―――――なんなの?」

 今までなかったことだけに、ゼルファは少し不安になって真忌名に言った。

「なに、使い魔を連れているから魔術師だと思ったのであろうよ。間違ってはおらぬ、司祭は聖職ゆえに使い魔などに縁はないし騎士は剣に生き魔術とはこれまた縁のない生活をするからの」

「ということは…………使い魔を連れているあんたは魔術師でもあるってこと」

「まあわかりやすく言えばそうじゃ。ちなみに千里眼と言われるものも魔術師の才能の一部と言って良い。もっとも千里眼を持つ魔術師などこの世に存在せぬがの」

「なんで」

「過去も未来も見ようと思えば見える。自分の未来も見えるということは、死に方もまた見えるということじゃ」

「あ…………」

 ゼルファは占い師と呼ばれる人々のことを思い出した。有能なものは人の未来を占ったりできるが、自分の未来は占ってはならないのだという。自分の死に方を知ったが最後、発狂するに違いないからなのだ。故に、才能ある占い師は自分の将来を占っても真っ黒なものしか見えないといわれる、これも一種の防衛本能のようなものであろう。

 また、どんなに当たる占い師の占いでも、未来を占う場合の成功率は天才占い師で七割と言われている。この確率の低さは、ひとえに未来が常に動くもの、予想しにくいものという識者の言葉を裏づけている。

「でも勝負。勝負って」

「ああ、明らかに互いに使い魔を連れているじゃろ。それで勝負させて、勝つと自分の使い魔の本来住む階層での地位が上がるのじゃ。ひいては自分を助ける力も上がる」

「楽勝だったね」

 ゼルファが真赭に言いかけると、真忌名は豪快に笑った。

「それはそうじゃろ。真赭は魔界最上層、第五層の魔物じゃ。あれは第三層。本来ならば真赭の吐息だけで、簡単に霧消してしまうであろ」

「そ、そうなの…………?」

「第三層のトップを張る魔物が例えば第四層の最下級の魔物と戦ったところで、勝つことはできぬ。魔界というのは、こう、層が五つになっておっての」

 真忌名は右と左の手を交互に横にして重ねて見せた。

「一番上―――――まあ本当は一番下にあるのじゃが高位という意味では上じゃな―――――が第五層となっておる。濃い瘴気の渦巻く、魔界でもっとも魔の空気の強いところじゃ。ここに別の層の魔物が入った途端、粉微塵になってしまうであろう。故に第五層の魔物は魔界の覇者と呼ばれておるのじゃ。層と層の間は固い固い壁のようなものがあって、自分より下の層へ行くのは簡単じゃが下から上に行くのは至難の技じゃ。そりゃ空気の濃さが違うゆえ当然であろうの。海の深いところに、浅瀬の魚が行けないのと同じじゃ」

「へーえ」

「前はもっと無礼な輩が大勢勝負を仕掛けてきての。その時はこちらも手加減などしなかったのだが、今の男は礼儀がなっておった上珍しく第三層の魔物を連れておった」

「それが何さ」

「人間の魔術師が使い魔にできるのは第三層が限界とされている。つまりさっきのは相当な実力者だったということじゃ。礼儀正しかったからの、霧消させてしまうのは可哀想かと思うて手加減させたのよ」

「ふーん…………」

 ゼルファは信じられないように真赭をちらりと見た。彼女はあの古着屋から出た後真忌名に呼ばれて供をしていたのだが、その時、いつもの赤い打ち掛けではなく、ちゃんと濃紫の地に白藤をあしらった着物、鱗模様と言われる正三角形の模様の白の半幅帯に藤色の打ち掛けを纏っていた真赭の細やかさに、ゼルファは口には出さずとも感心したものだ。

「さて……」

 真忌名は何事もなかったような顔で呟くと、ある店の前で立ち止まった。是親の調べた店の内の一つである。

「ほんとに胃袋だけでものを考えるんだから……」

 さっさと中に入った真忌名の背中を見ながら、ゼルファは呆れたように呟いた。それに付き合う自分も自分である。

 店の食事は、帆立や海老、蟹や魚などの魚介類をふんだんに使った鍋料理のようなもので、まずはそれらで出汁を取り、その後でまた新しく魚介類を入れて煮込むというものであった。テーブルにつくと、机の真ん中が円く切り取られていて、店員が真っ赤になるまで焚かれた炭を持ってきて入れる。その窪みに鍋を入れ、自分たちの好きなように魚介類を入れるという豪快なものであった。様々な種類の蟹や海老の他、帆立にムール貝に浅蜊に蛤、魚などは、小さいものは丸ごと入っている。それだけでなく、香り高い新海苔なども生のままあり、その上終わった後の汁に飯を入れて雑炊にまでして食べるので、真忌名は大満足であった。

「いやあ満腹満腹」 

 豪快に笑いながら店を出、真忌名は上機嫌で暗黒街を歩いた。

「一人で三人前食べりゃあそりゃあ満腹だろうよ」

 げっそりとして呟き、ゼルファは真忌名をちらりと見る。が、腹の部分は食事をする前と何も変わらずぺたんこである。驚くべきことだ。

「胃下垂なんじゃないの? 後は特別な胃酸が胃の中を流れてるとか」

「なんの話をしておる」

「別に」

 デザートの林檎を食べながらゼルファが道に目をやると、日が暮れたせいもあって先程より目つきの鋭い男が増えているような気がする。それ以上に目につくのは、様々な姿をした使い魔を連れている男たちであった。しかし先ほどのことを見聞きしていたのか、真忌名の方を見こそすれ、ちらりと見ただけですぐに目を逸らすのみだ。使い魔たちは一つ目に三つ足の鳥の姿のものもあれば、角の三本ある奇妙な犬のような姿のものもある。いずれも全身が真っ黒で、目も黄色ばかりだ。どれもあでやかで人の姿をしている真忌名の使い魔たちとはまるで比べ物にならぬ。

 と、真忌名の歩調が変わった。すたすたと歩いていたのから、急にゆっくりと、そして道の真ん中から隅へと移動する。

「どうしたの」

 建物の階段に腰かけた真忌名に、ゼルファが訝しげに聞く。が、真忌名は道の向こうの一点に目を馳せたまま、口元に笑みを浮かべて低く言った。

「しっ……見ておれ」

 しばらくして、道の向こうから明らかにこの辺りの暗黒街には滅多に来ない人種であろう姿恰好をした男が現われた。

 がちゃがちゃと耳障りな音をたてる、少々時代遅れの鎖帷子。歩くたびにカツカツと音を立てては敵に自分はここにいると先触れる、底に鉄鋲を打った靴。ゼルファがのちにバケツと呼んだ、奇妙なかたちの兜。他人には干渉しないのが基本の界隈で、通りにいる者がぎょっとしてこの男を見守ったのも無理はなかった。頑固そうな太い眉、むっつりと結ばれた口元には、いかめしい髭が揺れている。日灼けしたその顔には、あと二十年は現役でやっていけそうな強い精力のようなものすら感じられる。

 男はきょろきょろしながらゆっくりと真忌名とゼルファの前を通り過ぎた。しばらく目で追うと、ちょっと行ったところでまた誰かを探すようにきょろきょろとしていたが、やがてため息をついてぶつぶつと聞えない程度の声で何事か言っている。

「ふっふっふっふっ」

 何がおかしいのか、真忌名はその様子を見て笑いを堪えきれないらしい。そして男がどうやら諦めてさらに歩き出そうとした時、突然真忌名は大声で叫んだ。

「おいなりきり野郎!」

 そこにいた物騒な連中も、使い魔を連れている魔術師たちも、ゼルファは無論のこと当のこの時代遅れな恰好をした男も―――――ぎょっとして真忌名を見た。

「―――――おお!」

「いかがした。相変わらず節穴よの。そんな使えぬ目玉はくりぬいた後に銀紙でも貼っておきや」

「ラララララスティ~」

 男の顔が悔しげに歪んだ。

「なんじゃその品のない顔は。気が付かなかったのはお主であろうに」

「問答無用!」

 男は両手を脇からバッ、と大げさに払い、その動きにつれてマントがばさっ、と音をたてて翻った。

「ここで会えたが百年目。積年の恨みを晴らすべく拙者レズルが参上いたした次第だ! ラスティ! 覚悟いたせ!」

 真忌名は白けた視線で男を見据えた。

「相変わらず芝居がかった男じゃ。姿も中身も時代遅れとはお前のような者のことであろう」

「やかましい!」

「いきがっておらんで名乗りをあげたらどうじゃ」

 男はハッとした表情になって身体を固くした。真忌名のその言葉でゼルファは、この男が騎士だということに気付いた。

 騎士が立ち合いを申し込む以上、申し込む側が先に名乗らぬことにはどうにもならない。

「ぬーぬぬぬぬぬぬぬぬイル・アラクが騎士マスターAA《ダブルエー》、レズル・リンである! 

 ラステラヴュズィ・真忌名に、いざ立ち合いを申し込むぅ!」

「初めからそう言えばよいのじゃ」

 座っていた階段から立ち上がり、真忌名は左手を後ろに向かって差し出しながら大して面白くもなさそうに言った。次の瞬間には、真赭が差し出した剣がしっかりとその手に握られている。

「腹ごなしと行くかや」

 ざざざぁっ、という音がして、沿道から人が見る見る消えていった。物陰に潜み、じっとこちらを窺っている。真忌名はつかつかと道の真ん中まで歩み寄り、すらりと剣を抜いた。鞘を誰かに渡す素振りをした瞬間、ゼルファの側にいた真赭がいつの間にか側に寄ってそれを受け取っている。

 足を大きく前に出して蹴出しを開き、真忌名は不敵な笑みを浮かべてスッ、と構えた。

「来や」

 ズッ…………

 途端、凄まじい轟音と土煙―――――実際は石畳だったので、それらが剥がれて上がった煙であったが―――――と共に、レズルと名乗った騎士が低い姿勢のまま真忌名に飛び掛った。

「早い!」

 側で見ていたゼルファは思わず叫んだ。真忌名のあしらい方やあの騎士の態度からして、大したことはなかろうと思っていたが、なかなかどうして今までの騎士たちと向こうを張る早さだ。

「マスターAクラスは伊達じゃないってことか……」

 ごくりと唾を飲み、ゼルファはとばっちりを受けないように物陰に移動しながら呟いた。 目の前ではレズルの剣が真忌名に届く一瞬前というところで真忌名の姿が忽然と消えたところであった。

「ぬ!?」

 レズルは一瞬周囲に目を馳せた。

 スッ……

 キィン!

 どこからか現われた真忌名が振り下ろした剣を、しかしレズルは辛うじて受け止めていた。そしてその勢いで剣を弾き、ふいをつかれたせいもあって慌てて後ろに飛びのく。

「ほほお。割とやるのう。それで姿恰好も追いつけば完璧じゃ」

「やかましい!」

 ザッ……

 ―――キィン!

 がりがり、という音がした。噛みあった二人の剣が、凄まじい力の押し合いで唸りを上げているのだ。

 最早自分が引退騎士だということも口にせず、真忌名は右へ左へ襲い掛かるレズルの剣をかわし続けた。

 暗黒街という物騒な場所で繰り広げられる騎士と引退騎士との立ち合いを、ここを根城とする物騒な連中は静かに見守った。これがいつもならもっと大騒ぎだろうが、いかんせん面倒事を嫌う、いずれも脛に傷持つ者ばかりなので、この騒ぎは後日暗黒街の間で囁かれ、表通りですれ違うだけでも何か因縁をつけられそうな恐ろしい顔立ちをした男たちが一様に不気味がることはあっても、表沙汰になることはなかった。

 何度目かの斬り合いの後勢いをつけて後ろに飛び退ったレズルは、その反動で大きく飛び上がった。高く高く、二階の窓よりもさらに高く、真忌名が見上げるほどに高く。

「終わりだあああああ!」

 空中なのにもわらず、レズルは速かった―――――ゼルファが冷や汗をかくほどに、これがマスターAクラスの実力なんだと思い知るほどに。

 シャァァァァアアアアア……!

 高い場所から一気に勢いをつけて真忌名に向かって降下し始めたレズル―――――その速さは、降りて来る間に躱す間もない。

 今度こそラスティもヤバい、ゼルファが思った瞬間だった。

 真忌名が、少しだけ膝を曲げた。

 ボコ、と、周囲の石畳が膨らんだように思えた。

 ズザッ、という風を切る音がして、下から上に向かってとんでもなく強い風が吹いたな、と思った瞬間、真忌名はそこにはおらず、レズルに向かって一直線に飛び上がって行ったところであった。

「む!?」

 空中で突然のことである上、最早これだけ勢いをつけていてはレズルもよけることができない。

 キィ―――ン…………

 鋭い音が、遠くの空で響いた。

 ゼルファは見た。空中で、無慈悲なまでの素早さでレズルの剣を柄から弾いた真忌名の早業を。真忌名が落下するスピードを利用して一回転し、うまく態勢を整えて着地したのを。

 そして背中から落下するレズルを吃と見上げ、スッと左手を突き出す。

 フゥッ…………

 微かな気配と共に、真忌名の手の動きによって現われた空気の膜がレズルを包み込み、あわや地面に激突しかけていた彼の全身を包み込んだ。

「う…………」

 そのおかげで彼は凄まじい勢いで背中から落下したにも関わらず、ふわりとそこへ着地することができた。

「私の勝ちだな」

 真忌名はにやにやと笑いを浮かべながら言い放った。

「うーぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ…………」

 レズルは歯を食い縛り顔を真っ赤にして雄牛のように唸った。

「おおおおお……なんということだ。陛下になんとお詫び申し上げれば良いというのだ。この大事に国を抜け出しこのような愚行に走ったばかりか負けを喫するとは」

 うなだれてぶつぶつと愚痴をこぼすこの時代遅れな騎士が、先ほど彼女と激戦を繰り広げ一帯の石畳をすべて台無しにしてしまったとは信じ難い。

「しかも敵の温情にかかるとは。なんという情けない。温情……そうだ、なぜ拙者を助けた。立ち合いに情けは無用のはず」

 真忌名は白けた目でレズルを見た。

「相変わらず古臭い男じゃ。引退して尚あちこちと事を構えたくないゆえしたことよ」

「…………な、なんと……では…………」

 と、何か言いかけたレズルであったが、そこへ弾かれた自らの剣を袖の上に恭しく掲げた真赭がやってきて、う、と言葉に詰まって後は絶句してしまった。

「つべこべ言わずにさっさと帰ったらどうじゃ。お主はまだやることがあるはずじゃ」

 レズルの顔がハッとなった。そして自分が負うべき義務の重さを思い出したのかそれを反芻しているのか、見る見る顔が青くなっていく。

「行きや」

 真忌名が冷たく言い放つ。むう、ともう一度唸り、真赭から剣を受け取るとレズルはそれを杖にして立ち上がった。

「ラステラヴュズィ・真忌名…………貴公にどういう意図があるのかは知らぬが、これを恩とは思わぬぞ」

「結構だ。借りだと考えなくても良い。イル・アラクとエド・ヴァアスは永世的な和平を結んでいる。戦場で返したくとも返せぬゆえな」

 む、と口の中で何か言い、レズルはやれやれと息をついた。

「そうだ」

 真忌名は去ろうとするレズルに声をかけた。

「うん?」

 立ち止まって振り返るレズルの髭面を見て、真忌名はにやりと笑った。

「それだけの実力があればすぐにでもマスターAAAにもなれよう。ふふ、服装センスを直せばな」

「ぬ」

「国に帰ったらゼウェルゼ・レヨンにでも指南してもらえ。希代の色男にな」

「むぅ…………あの軟派者に頭を下げろと?」

「得意なものというのは人それぞれ違うものじゃ。互いに教えあえば損はあるまいよ。年齢に関わりないその速さを、どうやって身につけたか、とかな」

 騎士は眉を吊り上げ、もう一度喉の奥でむう、と唸った。そしてそして少し考えるような面持ちになり、頭の中でそれについての想像をめぐらせた。

「…………やってみよう」

 真忌名はふふ、と笑った。

「では行け」

 ふん、と言って、レズル・リンは剥がれた石畳の道を歩いていった。

「ラスティ」

 いつの間にか側に寄っていたゼルファは不安げに彼女を見た。

「うん?」

「なんだか随分…………いつもとは扱いが違ったね」

「そう見えたか。まあ殺すわけにも行かんしな」

「それにしてもなんだか…………」

「イル・アラクは来月にも出兵せねばならぬ。その時筆頭騎士がいるのといないのとではまったく違う」

 言うと、真忌名はすたすたと歩き始めた。ついて行きながら、ゼルファは彼女を見上げて言った。

「筆頭…………あのおっさん筆頭騎士なんだ」

「そうとも。そうは見えないのが奴の武器じゃ」

「大体なにやったのさ。積年の恨みって言ってたけど、あのおっさん」

「あれか」

 ちらりと思い出すような顔になって真忌名は言った。

「なにもしておらん。奴の国と私がいた国は互いに戦うことがない。和平を結んでおるがゆえにな。そのせいか互いに出兵する時援軍を送ることも少なくない」

 ゼルファはなんとなくわかった気がした。

 口の悪い真忌名のことだから、先ほどのように時代遅れだとか服装センスがどうだとか散々あの騎士をやりこめたのに違いないのだ。

 着いた早々移動かあ、と少々うんざりしながらゼルファがふーん、と呟くと、意外にも真忌名は歩調を変えもせず、運動したら腹が減ったとか何々通りのどれそれが食べたいだとか、およそ今までのように目立ってしまったからこの街を出るという気配は微塵も感じられない。おかしいな、と思ってゼルファは恐る恐る聞いてみた。

「…………移動しないの?」

「何をじゃ」

「だから…………立ち合いしちゃって目立ったのに……いいの?」

 真忌名はほっほっほっと高らかに笑った。

「案ずるな。あそこは暗黒街であったゆえ…………少々騒いでも表通りに通じることはない。立ち合いを恐れる連中がいても、同じように悪さをしている連中からすれば多少大きな喧嘩をしたのと大して変わらぬ。平気じゃ」

 真忌名が側の空間に是親、と呼びかけると、

「お側に」

 いつものように是親が現われた。上品な濃い紫色の直衣を纏っている。

「先ほどの立ち合いの件、どうなっておる」

「は。今のところそれについて噂が流れ出す気配はないようでございます。血の気の多い輩の多い暗黒街らしく……官憲はさほど気にしているようすはないようでございます」

「ならばよい。たまには祭を思い切り楽しむのもよかろう」

 真忌名は呟くと、楽しげに明日一日の予定を話し始めた。

 それは主に、というよりはほぼ全般がすべて食い物の予定で、デザートには通りをいくつ離れた店のどれそれだとか、夜食にはここの屋台そばにするだとかいう話をし続けてはゼルファを呆れさせた。

 あちこちで食いまくった後、共に戻った宿屋の受け付けの娘もやはり紫の服を着ていた。

 たいていこういう受け付けは、酒場と宿屋の境界線をうったえるようなもので、受け付けにいる者は宿泊客の部屋の鍵や手紙などをここで管理し、帰ってきた宿泊客に手渡すのが主な目的となっている。

「おかえりなさい」

 宿の娘が心得顔で二人に挨拶し、右手と左手で鍵をそれぞれに渡す。

 黒い髪を高く、ちょうど今の真忌名のように結い上げ、いつもにこにこ笑っている気持ちのいい娘である。そしてその笑顔は、宙に浮いて正座し、まさに私は人外ですと触れ回っているのと同じの真赭を見ても、少しも曇ることはなかった。

「またすぐに出るが構わぬかや」

「大丈夫ですよ。お食事ですか?」

 娘は相変わらず笑顔で聞く。宿を取った時に近くでなにがうまいかを散々聞いた真忌名のことをよく覚えているのだ。

「いや、それは済ませた。少し運動したゆえ夜食じゃ」

 ゼルファの呆れ果てた視線に気づきもせず、では行く、と先に二階に上がった真忌名と真赭を見送って、ゼルファは親指で階段を示して娘に言った。

「あれに付き合ってたら胃がもたないよ」

 くすくすと笑いながら、娘は返す。

「いいじゃない。旅の食事ではずれがないのはいいことだわ」

「まあ、ね」

 なんでもいい方にとらえるのは大事だなあ、と思いつつ、ゼルファも二階へ上がった。 最初は真忌名の夜食などに付き合っていたら本当に胃が痛くなると思い、行く気はさらさらなかったのだが、先ほどの決闘ではらはらしたのとホッとしたので満腹気分はすっかり姿を消してしまい、今から三時間ほど後なら軽食くらいは食べられそうだ。いや、むしろ食べてしまいたい気分が否めない。

 毎度のことながら、真忌名の凄まじさは目を見張る。

 慣れた慣れたもう慣れたと自分で思うたび、それを上回ることが起きる。一体ゼルファは、真忌名のすべてにいつになったら真実慣れることができるというのだ。

 思わぬ場所での決闘見物はゼルファの予想しているよりも彼を疲れさせた。鍵をかけてふう、とベットに倒れるようにして少しだけ横になるつもりが、ゼルファはそのまま眠ってしまっていた。

 目が覚めたのは、祭りを寸前にして盛り上がる夜の眠らぬ喧騒でも、それらから発する明かりでなく、部屋の扉をノックする冷たい音のせいであった。その音で目が覚めた途端、ゼルファは自分が眠っていたことを知った。慌てて起き上がりながら外を見るとまだ暗いことから、夜食の誘いだとわかった。

「寝ていたかや。どうする」

「起きちゃった。行くよ」

 ゼルファは昼寝ですっかり軽くなった身体とすっきりとした頭に夜眠れるだろうかという戸惑いを感じながらも財布と鍵を持って部屋を出た。夜になったせいなのか、空気が一段と澄んで凛とした鋭さを感じる。

 夜中に近い時刻でも、娘はまだカウンターにいた。二人を見ると笑顔になり、おでかけですねとにこにこ笑いながら言った。その声の、先刻とは少しだけ違った明るさに、真忌名がまず気がついた。

「ほう。機嫌が良いの。なにかあったかや」

 目ざとい真忌名の意外な質問に、娘は一瞬きょとんとした顔になり、すぐにちょっとだけ頬を赤らめて言った。

「実は、恋人からさっき速達が届いたんです」

「恋文かや」

 鍵を渡しながら、真忌名は聞く。

「正確には婚約者なんです。やっと支度が整ったから、いつでも私が帰ってこられるって」

「故郷? 遠いのかい?」

「ええ。ここから山を二つ、谷を三つ越えたところにあるわ。ここくらい賑やかな方が、早くお金が稼げるの」

 二人から預かった鍵をもてあそびながら、娘は待ちきれないといった表情で言った。その、隠そうとしても隠し切れないはちきれんばかりの幸せそうな瞳が、ゼルファにはなぜか眩しい。

「結婚は来年なんだけど……本当はエド・ヴァアスの大聖堂でやりたいの」

 ゼルファはちらりと真忌名を見たが、これといって顔色にも表情にも変わりはなく、いたってふつうにふつうの反応を示した。

「ほう。大聖堂の結婚式というとあれか、数々の応募者の中から抽選で五組だけ選出されるという例の」

「ええ。私は信者ではないけれど、大聖堂はとても美しい建物だって聞いているわ。一度だけ絵を見たことがあるの。素晴らしい建物だったわ。それに、法皇様に結婚を祝福してもらえるなんていいじゃない? 信者の人たちからすれば不信心かもしれないけれど」

「なに。確か昨年の五組の内三組は信者ではなかったそうな。まあ別のところの信者だったら問題になるかもしれんがどこにも染まっていないのならいいのだろうよ」

 やんわりと真忌名が言うと、娘も、

「そうね。夢のまた夢だけど、とりあえず応募するわ」

 と言った。頑張りや、と真忌名は言い、では行ってくると低く言ってゼルファと宿を出た。歩きながら、ゼルファは耳にした意外な事実を真忌名に問い質さずにはいられなかった。

「初耳だなあ、信者でなくてもいいっていうのは」

「あまり知られておらんのも事実じゃ。ふつうエド・ヴァアスの大聖堂と聞けばそれは無条件で〝白の教団〟の聖堂ということになる。教団の聖堂は信者のためにある、というのが世間の思うところじゃ」

「…………まあ…………そうだよね」

 自分の中の認識と照らし合わせて、ゼルファは呟くようにこたえた。

「他教団はな。しかし〝白〟のそれはちょっと違う。そも、色に基づいて教団という形をとっている七つの教団のどれも、主神というものを持たん。別の宗教と違ってな」

「それは知ってるけど。確かそれぞれの信条をもってしてそれを信仰の対象とするんだろ」

「そう。例えば〝赤〟なら寛容。〝緑〟なら慈愛、〝青〟なら勇気といった具合にな。これだけではないが主としてそれぞれ二、三の信条があるのじゃ」

 中庸と善良であることを信条とし、人間の善をひたすら信じて説く〝白〟の教団は、その規律のついていきやすさと、信者に対して求めすぎないところが世界最大の理由だといわれている。

 大聖堂の結婚式も、信者だから祝うという理由ではなく結婚は祝うものだという考えを前提に、完全にエド・ヴァアスと法皇のボランティアで催されているものだから、〝白〟の信者は無論のこと、入信するほどではないが普段なんとなくその教えに傾倒している信者ではない者たちにも人気が高く、応募の数は年々増えていく一方だという。頭の後ろで手を組みながら、空の紫の星を見上げてゼルファは言った。

「キレイなんだろーなー」

 ゼルファのそれは純粋に歌の糧になるから、という好奇心からの言葉であったが、確かに庶民が直接法皇に手を取られて祝福されるなどというのは生涯に一度あればいい幸運なのかもしれない。

「そうとも。大聖堂は三層からなる建物でな。その一番上の層は楕円形のようになっておって、中央の建物から法皇が出てくる。赤い絨毯が敷かれていて、白い花が吹雪のように舞いくるって、なんとも言えん光景よ」

 言われてゼルファはハッとした。そうだ、忘れかけていたがこの女は司祭でもあるのだ。 なれば、その式典に参加したこともあるのだろう。

「どんなことするんだい」

「世間の結婚式となんら変わりはない。法皇が祝福してやるだけのことじゃ。まあ違うのは花嫁と花婿が五人ずついるということくらいかな」

「壮観だね」

「そうじゃな」

 笑いながら、二人はゆっくりと街を歩いた。

 すぐ近くに潜む危険に気づきもせずに―――――。


 真忌名とゼルファが宿を後にして一時間ほどして、真夜中になってようやく戻ってきた宿の主は、受け付けにいた娘を労う声をかけて、上がっていいよ、と言った。夜中の、しかも年頃の娘の一人歩きは本来危険なはずだが、ここは繁華街に面していて人の通りは絶えないし、祭りの直前だけあって警備も普段からは考えられないほど厳重である。だからこそ宿の主人は自分が帰ってくると言いおいた時間よりかなり大幅に遅れて飲んで帰ってきたのであろう。相手が雇い主なだけに文句を言うこともならず、しかしそれも今週一杯かと自分に言い聞かせれば大したこともあるまい。娘はカウンターの下の自分の荷物を取り出して主人に挨拶すると、カウンターをくぐって帰ろうとした。

「あれ?」

 カウンターの隅に、真忌名の持っていた地図が置かれている。自分のいた位置からは恐らく死角の為今まで気づかなかったのだろう。あの真忌名という客は、街に出る時は必ずこの地図を携帯していた。色々書き込んでそれを参考にしているのも、この目で何度か見ている。

 困るだろうな、と咄嗟に思ったのが最初である。

 確かあの二人は夜食がどうとかそばがどうとか言っていた。だとすれば、自分が前に教えた場所に違いない。そしてなぜ自分がそんなことを知っているかと言うと、自分が住んでいる場所の近くだからだ。

「…………」 



 どういうことだ―――――この街の人間はみな紫を着ている

 迂闊だった―――――迂闊すぎる

 しかし安心しろ…………見つけた 見つけたぞ―――――

 逃さぬ―――――もう逃さぬ―――――



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