第二章 6

 当時の真忌名は周囲から見れば針の筵の上にいるような生活をしていた。本人はまったくそういうつもりはなく、到って普段と変わらぬ生活を送っていたが、周囲は彼女を白い目で見、騎士や司祭にあるまじき存在、いやそれよりも以前に人間として許されない存在として見なしていた。以前はそれこそ変わり者、騎士にして司祭、司祭にして騎士という特異さから敬遠されがちではあったが、当時のような非人間としての扱いは受けてはいなかった。―――――彼女が行った、ある行為によって。

 真忌名は、そういった周囲の評判や世間体などというものを一切気にしない女である。 だからこそ、部下ですら自分と話すのにためらいを感じ、ためらいを感じていることにまた罪悪感を抱いている部下とも、気づかぬふりをして普通に接していられる。真忌名は文字通り孤立無援の立場といっても過言ではなかった。

 そしてその日―――――その運命の日に―――――事件は起こった。

「ラスティ様!」

 自分の部下が息を切らせて駆けつけた時、真忌名は自分の執務室に戻る為に廊下を歩いていた。部下のただならぬ様子に、反射的に異変を察知した真忌名は早くも目の色が変わっている。この状況でまだ部下が自分を頼りにするということは、言ってみれば自分でしか始末がつけられないようなことがあったに違いないのだ。

「何事だ」

「ぞ……賊でございます!」

「何……」

「『教皇の箱』と他宝物の数点…………鳳回廊を通って現在建物の外に向かっております!」

 『教皇の箱』――!

 真忌名は、この時自分でもわからなかっただろうが確かに顔色を失っていた。

 よりにもよって、あの箱が盗まれてしまうのはまずい。

 真忌名は反射的に走り出し、同時に走るのに邪魔な剣を鞘ごと腰のベルトから外していた。この時点で、真忌名が賊をどうするつもりなのかは明らかである。真忌名は風をも切り裂くほどの素晴らしい速さで回廊という回廊を走りぬけ、鳳回廊を通り緑階段と呼ばれる大階段に差し掛かった。階段すべてが珍しい濃緑大理石でできている場所で、その美しさは他に例えようもないといわれているほどのエド・ヴァアスの誇る歴史的建造物の一つでもある。

 大階段と呼ばれるのにふさわしい、その広さと高さ。恐らくは、普通の建物で言うと二階分くらいはあろうが、なにしろ勾配がゆるやかなのでとても長く感じられるはずだ。  タッ、という音と共に、真忌名が緑階段に差し掛かったその時である。

 真忌名の紫の目に、階段を降り終わって走り去ろうとする賊の姿が三人、映った。どれも司祭の格好をしているが、司祭ではない。三人は真忌名の姿を見てちょっとだけ動揺し、すぐに彼女が階段の上にいるということで余裕の笑みを互いに交し合って逃げようとした。 追いかけてきたのが常人なら、この階段を降りている間に簡単に逃げることができる。 それほどまでにこの階段は巨大で、降りるのも大変だからだ。

 しかし今彼らを追いかけてきているのはふつうの人間ではなかった。

 真忌名の目がカッと開かれ、今目の前で逃げようとする賊を見て、真忌名は足に弾みをつけた。そして、

 ザッ―――――

 という風を切る音と共に、真忌名は階段の一番上から飛び降りたのである。空中での平衡感覚を保つために剣を真横にして両手に持ち、彼女は高く飛んだ。

「な…………っ」

 そしてあまりのことに絶句して逃げることも忘れてしまった賊の目の前にストン、と着地すると、恐怖と驚愕で立ち尽くす賊の手元をちらりと見て、

「…………この箱でなければ生かしておいたに……」

 と、不気味に小さく呟き、剣をシャッ、と引き抜き、賊の脳天から引き裂いた。

 三人の盗賊はあっという間に真っ二つになり、白い大理石の回廊は、壁といわず天井といわず血と脳髄とその他のもので染められた。駆けつけた司祭も騎士も、そのあまりの惨状に吐き気を催し、その場で吐く者、もう少し理性を保ってそこから駆け出して吐くべき場所でなんとか吐く者、様々であった。ようやく話を聞きつけ、その程度の死体に見慣れているマスターAクラスの真忌名の同胞が駆けつけた時、しかしさすがの彼らも眉を寄せたという。

 いくら賊を逃がさぬためとはいえ、聖堂内で、しかも残忍極まりない殺し方で始末したということが大問題となり、その直前の行いも手伝って、真忌名は宗教裁判にかけられた。 法皇は、事の顛末をきいて裁判の場に出席するよう強く大司祭たちに求められたが、その時の様子や盗まれた宝物がなんだったかを聞くと少しだけ眉を寄せ、後は何も答えず、無論裁判にも出席することなく、しばらく姿を見せなかった。大司祭たちは声を高くして法皇に再度出席を求めたが、枢機卿たちによって止められてしまい、結局宗教裁判にもかかわらず枢機卿抜きの、大司祭のみの異例の運びとなった。

「ラステラヴュズィ・真忌名! そなたは聖職者の身でありながら徒に魔界へと赴き、魔族を手下にし、今尚聖堂内にて血を流すとは何事ぞ!」

「聖職者にあるまじき冒涜的行為……直ちに解職と追放を要求する!」

 真忌名は耐えた。彼らの誹謗はいちいちがもっともで、言い返す気力すら萎える。正当な理由に基づいて魔界に赴き、望むと望まないに関係なく魔族を手下とし、また戻ってきた理由を言えば、開闢以来五千年近く続いてきた〝白の教団〟の存在意義が根底から覆されることになる。このような大きな公の場所でそれを公表すれば必ず巷間に流れるであろうし、そうすれば、細かい事情や理由はその度に省略されあるはずもない尾鰭をいくつもつけられてしまうだろう。それだけは避けなくてはならない。

 で、あるから―――――…………真忌名は、反対尋問でなぜ魔界に赴いたのか、という質問に対して、答えることはなかった。ただ一言、行きたかったからだと言い、後は言うべきことはすべて言ったのだからと、あたかもそれを大きな言い訳にでもするかのように、一言も口をきかなかった。何を言われてもどんなに非難されても、真忌名は耐えに耐えてとうとう理由を言わなかった。

 普段から態度がでかく、二十代という驚くべき若さで大司祭を越えて枢機卿にまでなった彼女を、妬ましいと思っていた者は多かったはずだ。〝白の教団〟では目立った権力抗争は他教団に比べれば皆無に等しいが、そこは人間、年齢に関係なく開花した能力に対して嫉妬もすれば、羨ましいとも思う。 

 また真忌名は、司祭でありながら騎士であるということも大きな反発を抱かれていた。

 騎士と司祭とは、全くの両極端に位置する存在である。お互い、目に見えて対立することはなくとも、仲がよろしいとはお世辞にも言えない。司祭は真名という命を与えるという職務の重さと自負から、命を奪うだけの特殊能力を持つ騎士を卑下し、また騎士も、決して命を奪うだけではない自分たちの職務を誤解してわかろうとしない司祭たちの態度に傲慢なものを見出さずにはいられない。無論全ての司祭や騎士がお互いにそう思っているというわけではないのだが、これがだいたい騎士と司祭の間に流れる一般的な感情である。 司祭でありながら騎士―――――この考えられないほどの常軌を逸した真忌名の能力は、司祭たちの誇りを大いに刺激し、追及の手を厳しくする大きなきっかけとなった。どのような質問や挑発じみた問いかけに対しても、真忌名が一向に動じずにいるのも大いに印象を悪くした。

 枢機卿たちは出席を拒んだものの、やはり気になる様子で傍聴席にいる姿がちらほらと見られた。司祭たちよりは大分に分別を持ってこの裁判を見守り、各々思うことはあっても、立場の重さからそれを口にすることはなく、また法皇の沈黙も手伝い、枢機卿たちが真忌名に対して何かを言うことはなかった。

 そして真忌名は―――――追放された。騎士も司祭も、その地位を剥奪され、外聞の為『引退』という名目で国を出たのである。しかし裁判が決まってもその結果を許可するのは法皇で、法皇は結果を聞き、表情を崩さずに真忌名から司祭と騎士の資格を剥奪する旨をさらさらと書類に書き、印を押したという。重要な判決に対する機械的な判子押しを阻止するために、また書面を見ないで判子を押すことにより、最高決定権を持つ法皇が下々の者によるなんらかの企みに乗ってしまわないために、決定事項は必ず法皇本人が決定したことを書面にして書き、サインをし、最後に判を押すことが義務付けられている。それほど法皇の決定というのは絶対なのである。ゆえに、『引退』という扱いは法皇の温情と噂された。

 聖職者でありながらなぜ魔界に行ったのか―――――それは周囲の関心を大きく引いた。 意味もなく行けるほど安全な場所ではないはずである。何も答えない、という攻撃をされないために、真忌名が申し訳程度で、ただ行きたかったから、と答えたことは誰の目にも明らかであった。そして真忌名は、それをいい言い訳に最後まで沈黙を続けた。

 それを思い出して―――――真忌名は口元を歪めた。


 言えなかった――――― 

 言えるものか 

 ―――――法皇………… 

 法皇ゆえの不始末だったなどと――――― 


「…………いの?」

 真忌名は急速に現実に引き戻された。ハッとして顔を上げると、ゼルファが食事をしながらこちらを見ている。

「食べないの? 冷めちゃうよ」

 先ほどまでの自分の剣幕など、気にもとめていないような屈託のない瞳である。

 真忌名はああ、と曖昧に答えて、また食事を再開した。酒場である。酒場に来たことなど全く覚えておらず、またどうやってここまで来たかも覚えておらぬ。今自分が口にしている食事さえ、真赭かゼルファが気をきかせて注文したに違いないのだ。真忌名は先程の立ち合いのことを思い出し、かつては部下であった男の身を案じた。

 他国ではどうかは知らぬが、こと法皇統治国家であるエド・ヴァアスは教えを重んじる為規律に関してはとても厳しい。現役の騎士が引退騎士に立ち合いを申し込めば、どういった処罰が下るかはそこに在籍していただけに真忌名の想像に易い。

 しかし何故―――――解せぬ 

 真忌名はシュレイザの太刀筋の一つ一つを思い出しては、迷いに満ち満ちた当初のそれが、自分と太刀を交わすたびそれらが霧が晴れていくがごとく消えていき、最後には渾身の力を以ってして打ち込んできていることに気づいていた。しかし当初のその迷いに溢れた剣が彼の態勢を著しく乱し、結局はあのような無様な負け方になってしまったのは否めない。あれさえなければもう少しきれいに負けさせてやったものを、Bランクとはいえマスタークラスの彼に一体何があったというのだ。恐らくは何か失敗をしでかして、禁を犯すことで相殺にするとでも持ちかけられたのだろう。しかし禁忌を犯したことは事実であるから、その事実そのものに対して彼には処罰が下されること必須であった。

「―――――」

 真忌名が手を止めてまたもや何か考え始めたので、ゼルファはこの機を逃してはと思って慌てて彼女に聞いた。

「あのさあ…………」

「―――――うん?」

 真忌名は顔を上げ、再び沈みかけていた思考の沼より這い上がった。

「あんた左利き……じゃないよね」

 食事をする真忌名のその手が、右手であることを確認しながらゼルファは言う。

「―――――なんじゃと?」

 ゼルファは大仰に手を振り上げながら、右と左とを自分で示しながら言った。

「決闘のときはさあ、左手で戦ってるじゃん。でも普段は右手だよね。なんで?」

「―――――」

 新鮮な驚きの光をその目に宿して、真忌名は硬直してゼルファに見入った。

「な……なんだよ」

 まったくこの少年は……自分でも気がつかないほどの観察眼を持っていると見える。

 その万事に優れた注意を払う好奇心は、彼の今後の大成ぶりを物語っているかのようだ。 しかしそれはまだまだ先のこと。そうまでなるには、いくつもの歌を歌い、それらを学び、そしていくつもの体験をしなくてはならぬ。本来なるべき姿に彼がなれるかなれないかは、すべてそれらの事にかかっている。

 その片鱗が今開花しているのを見て、真忌名はおかしくてたまらない。確かに目の前の少年がこれからなるべき彼の姿へと徐々にではあるが変貌していくその様が、はっきり見えるようだ。蛹。

「ふっふっふっふっふっ……」

「なんだよなんだよ」

「いや……見上げた観察力じゃ。ふつうは、あの場の空気に呑まれてそんなことには気づくまい」

「おかしな感心してないで教えてくれよ」

「よかろう。我が右手は命を与えるためにある手。右の手は司祭の手じゃ。そして右手で洗礼を施す以上、その右手で騎士として命を奪うわけにはいかぬ」

「あ…………」

「わかったかや。左手で戦うのは左手が騎士の手だからじゃ。結構面倒じゃろ」

「………………」

 ゼルファは何も考えていないようで、実は綿密な理由によって一つ一つが組み込まれた 真忌名の日常に驚きを隠せない。そしてそれと同時に、彼が思っている以上に真忌名が司祭という職務を重んじていることも知った。真忌名という女の性格は、司祭というよりも騎士のほうがよほど天職に思えてしまうのは仕方がないことだ。

「さて明日じゃが……」

 真忌名が改まって何かを言おうとするので、ゼルファはまたもや明日の見物の予定かと少々うんざりして顔を上げると、これが意外と厳しい顔をしている。

「先程の立ち合いでまたもや目立ってしまった。これでは明日以降の見物はとてもとても無理じゃ。よって明日の昼過ぎにはここを発つが、どうする」

「どうするって…………なにが」

「残りたいのならそれでもよいのじゃ」

「何言ってんだか」

 ゼルファは馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげに口元を歪めた。

「オレは好きであんたについていってるんだぜ。あんたがこの街にこれ以上いないっていうんだったらオレも行くよ」

 そう言ってゼルファは、酒場のカウンターに置かれていた林檎を取りに一旦立ち上がり、それをかじりながら戻ってきた。

「物好きじゃのう」

 ため息をついて、真忌名は諦め顔で呟く。

「そうとなったら今日は早めに休むとしようか。次の街も盛大じゃぞ」

「次もちゃんと決まってんのかよ……」

「無論じゃ。次の祭りはのう……」

「聞きたくないんですけど……」

 そんな二人は、真忌名は己の過去を振り返り、また部下の身を思うことと、ゼルファは当たり前のようで今までわからなかった真忌名の左手の意味を知り、いつもとは違う感慨でいたために―――――気が付かなかった。

 先程から自分たちを尾けてきていた男が、すぐ近くの席からずっと自分たちのことを伺っていたなどとは―――――。


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