第19話 空白

 ざぁざぁという音でいとは目を開けた。とはいっても、完全にうつつに戻って来てはいない。夢の中で目が覚めた、と言ったところだろう。体の自由はほとんどききそうにもない。

 

 身にまとっている衣は女御様のそれではなく、紀伊の館でいつもまとっている身軽な衣装。水干の袖を落とし手首だけを覆う布を巻き付け、腰には父の古着を軽く巻き付けてあるだけだ。髪も下の方で寄せてまとめてある。


 ぱっと見は市井の少年のようないでたちで、もちろん都についてからは一回もなったことはない。夢の中なので、布の感触はないけれど、懐かしさでうれしくなった。

「ここは一体どこだろう」


 視界にあるのは白い空間だ。上も下も、右も左も白一色でまるで濃霧の中にいるようだった。でも、濃霧と違うのは全体的に明るく、恐ろしさは感じない所だろう。

「気を失って、夢でも見ているのかな」

 果てがないというのも考え物だ。ペタペタと当てもなく歩いていくと、ふと前方に袈裟姿が見えた。笠を目深にかぶった人物はいとを見つけると、顔を上げた。


「いと。久しいね」

「御坊!!?」

 ぱたぱたとかけより、いとは目を丸くした。まさか、こんなところで御坊に会えるとは思わなかった。夢でも見ているとは、まさしくそうだろうと思った。記憶のままの御坊はそりのこしが見える顎をさすって苦笑いをした。


 旅の僧だから仕方ないこととはいえ、夢の中だけでも身ぎれいにしてほしかったものだが、見慣れている御坊の姿がこれなのだから仕方ない。

 身ぎれいにし、新品の僧衣をまとった御坊というのは想像しにくい。仏の教えにあるとはいえ、有難さが減るというものだ。


「御坊はどうしてここに? あまり会えずにいましたが、夢の中であってもお元気そうであればうれしいです!」

 子犬のように跳ねるいとを横目に、御坊は険しい視線をいとの背後に向けている。

「昔から安請け合いをする娘だとは思ったが、この量の呪いを受け止めてもひと月持つとは……才覚とは恐ろしいものだね」


 いとの方を見ずに背後ばかり見つめている。その視線はだんだん険しくなり、表情も硬くなっていく。

「え?」

「後ろを見てごらん」


 御坊に言われいとは後ろを振り向いた。その瞬間、いとはとっさに身をひるがえして後ろに下がった。腹に忍ばせていた小刀を抜き去り、上体を低くする。いつでも動けるように視線は動かさない。


「これは何です、御坊!」

「まったく、お転婆というか、血の気が荒いのは誰のせいかね」

 からからと笑う御坊の声が懐かしく、少しだけ恥ずかしかった。目線を前に動かすと、そこにあるのは積み重なった泥の塊のような何かだった。ぼこぼこと沸騰したように絶え間なく膨らんでははじける。


 煤のようなものが周囲を取り囲んでいる。

「呪い、ですね」

「そうだとも。本体ではなく、いとにとりついた比較的新しい呪いだ。これくらいであれば、夢の中で砕けば問題ない」

「は、はぁ……」


「どこのどなたか存じ上げないが、ありがたいことだ。丸め込みやすいように小さくしてくださっている」

「あの呪いはどうしたら……」

「それは大丈夫。こっちで引き取ろう」

 つかつかと歩き去っていく御坊を追いかけると、僧は泥の塊のような呪いに向かって手を合わせた。


「何の想いかは存じませぬが、この子はまだ生きる命です。どうか堪忍してはくださいませんか」

 御坊の声に今まで勢いよく泡を出していた呪いがだんだんと静まっていく。生きる命、という言葉に引っかかりを覚えたけれど、言葉に出せなかった。

「最早この世に関われぬ以上、留まっていても虚しいだけではありませんか」


 御坊は見えない誰かと話しているようだ。夢の中だから、自分が自分でないことは分かっているけれど。もっと話せるのではないか、そう思ってしまうのに自分の口から出てくるのは当たり障りのない定型句ばかり。

「おねがいします」

 そう頭を下げた途端、呪いは小さなちりとなって消えた。すると、体の重さが急になくなった気がした。目を丸くしたいとの方を振り返り、御坊は深く息をついた。


「この杭を使うといい。お前が探していたのはこれだろうと思って、持ってきてやったのだ」

 そういって御坊が差し出したのは木でできた杭だった。いとの掌より一回り大きい杭の先は針のようにとがっている。円柱の杭の表面には経文と思しき感じの羅列があった。


「使うっても……まさか、これ丑の刻参りの……」

「当たらずとも遠からずだ。まぁ、お前さんならなんとなくで大丈夫だろう」

 そんな適当な、と言いたいが口に出せない。

「呪いの本体にこれを刺せばいい。いとなら”違うもの”が見えているだろう」

「…………うん」


 違うもの、確かにあった。初めて見たときから、おかしいもの。

「どうして、来てくださったのですか?」

 こんなにはっきりした夢だから、問いかけたくなった。その質問に大声をあげて御坊が笑った。子どものように無邪気に、何のためらいもなく。


「そりゃぁ、いとが一番面白い子どもだったからさ」

「面白い?」

「懐に入れるのはちょっと無理だったから、朱塗りの小箱にでも入れておくとしよう。探せばわかると思うから」

「ちょっと、御坊!?」

「また会えるのを楽しみにしていますよ、中姫様」


「……御坊?」

 ぱちりと目を開けると、まだ日は登っていないようだった。かといって夜半というわけでもなく、そろそろ日が昇るころだろう。


 重い。次に感じたのは全身に感じる重さだった。呪いが払われたのだから、重さを感じることはないだろうに、重いし暑い。寝転んでいるわけではなく、座ったままの体制で、目線の先には戸板が見えた。隙間風がいとの頬を通り抜けていく。


 左肩に一番重さを感じる。何か乗っているような重さだ。薄暗いから、触らないと何か分からない。

 手探りしながら伸ばしてみるとなんだかもふもふしたものがある。そういえば、紀伊の館にやってくる野犬の子がこんな感じだったなぁ、と思いながらなでくりまわす。白い子と黒い子だったが、もうずいぶん大きくなったころだろう。


 干し芋を投げてやると美味しそうに食べていたし、一緒に遊んでやると腹を見せて撫でてほしいと訴えていたっけ。

 ぱたぱたと揺れる尾に利発そうな瞳、ぶるぶると身を震わせる姿。

(あの子たち、かわいかったな……)


「おい」

 ばう、と吠えられた。子犬にしてはずいぶん低い声だ。とはいえ不機嫌な犬の声ってこんな感じだった気がする。でも、触り心地がいいので撫で続ける。少し癖のある柔らかな感触はまさに子犬のそれだ。


「離れろと言っている!!」

 息切れした声で男の声が響いたかと思えば、急に後ろへ突き飛ばされた。とっさに後ろ手をついたので怪我はしなかったが。

「な、何……?」


「お前は、一体、何なんだ! 泣き喚いたかと思えば、気を失って! 気を失ったかと思えば、眠りこけて……!」

 全力疾走した後のように荒い息を立てるものだから、何を言っているのか全く聞き取れなかった。そんなに慌てるようなことがあっただろうか。記憶にある侍は動揺とは無関係な性格だった。


 それなのに、なぜか今目の前にいる侍は完全に動揺しきっている。暗がりの中でも、早鐘を打つ音が聞こえそうなくらいに。

(悪いことをしたかしら?)


「ご、ごめんなさい! 話の最中に寝てしまって」

「そ、それはいい! 俺もあの馬がお前の家の物だということしか知らなかったから……。あそこまで大事に思っているとは思わなかった」

「…………」


「しかしだな、急を要したとはいえ俺も悪かった。お前が眠りについてしばらくして呪いが消えたから離れればよかった、のに———?」

 二人の間から音が消えた。それはいとの顔がまっすぐ厳彦に向いているから。丁度日が昇り始めていとの表情が読み取れた。目を丸くし、信じられないものを見るかのような顔だった。


「その目……なに?」


 自分の顔を覆う仮面が取れていたことをいとの表情で悟った。


 翡翠色の瞳がいとの姿を映した。

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