第14話 端午の節会 ー開幕ー

 あれから、鳴滝殿の女御が来ることはなかったが、大なり小なり”気配”を感じた。けれど、あの侍が持たせてくれた石があるとすぐにその気配は消えた。


(あの侍、姿を見せなかったわね)


 寝所から何度か抜け出し、あの桜の周りをうろうろしてみたが、あの侍が来ることはなかった。腹立たしいところはいくらかあったが、香り袋の件で見直そうと思った。

 わざわざ敵対している家の姫を案ずるということは、複雑な事情があるのだろう。念のため、明陽殿の女御の兄弟について調べてみたが、あの侍と同じ年頃の兄弟はいないとのことだった。


 面で隠しているので、実際の年恰好は分からないのだけれど、声からしてまだ若者と言っていいだろう。

 幼子のうちに養子に出されることはよくあることだから、てっきりあの侍は女御様の兄弟、もしくは近しい親族でその縁で見守っているものだと思っていたが。

(血縁でもないのに、敵対する家の女御のことなんて気に掛けるものかしら)


「いよいよね、覚悟はできてる?」

「……うん」

 いつもより多く衣を重ねて、それらを引きずって歩いていく。先導していく女房や采女たちもこの日ばかりは着飾っていて、絵巻物の姫君そのものだった。うんと小さいころはあこがれた日もあったけれど、実際着てみると重たくて仕方ない。

 檜の床を踏みしめて進んでいく。いつもは来る必要もない帝がおわす清涼殿を通り過ぎ、庭園へと歩みを進めた。


 白砂は日の光を反射してまぶしいくらいだ。それに赤い毛せんを広げ、両端には招待されたらしい貴族たちが並んでいる。帝は御簾の向こうにいるようで、こちらからは見えない。

(この庭だけで、紀伊の館が入ってしまいそうね)

 漂ってくる酒の匂いだけで、この宴にどれだけお金がかかっているのか考えずにいられなかった。


(これに使うお金があったら……あの時)

 そう思いかけ、いとは頭を振った。今は目の前の宴に集中しないと。あの時も命の危機だったが、こっちは家のみんなの命がかかっている。


「明陽殿様のおなりです」

 綾衣が声をかけると、いとは女御用にしつらえられた区画へと連れていかれた。いとの背丈よりも高い位置から天幕が下ろされていて、正面しか見えない。幸いにも他の女御からは見えないようになっている。

「大昔、大騒ぎになったからそれ以来互いに見えないようになっているそうよ」

「大変ね。宴だというのに、周りがあまり見えないというのも」


「あたりまえじゃない。余計な争いを望んでいらっしゃらないのよ、帝は」

「ずいぶんと慎重なのね」

「そうね、この入内だって早く進めてほしかったようだったのよ、何せ―――」

 その声は誰かが天幕に入ってくる音にかき消された。腰を曲げ、おずおずと入ってくる壮年の男性にいとは息をのんだ。


 ——— お父様。


「これはこれは、明陽殿の女御様におかれましては……」

 折れそうなくらい深々と頭を下げる。最後にあったのはほんのひと月前だというのに、ずいぶんとやつれたように見えた。顔色も土気が混じっていて、目の下のくまも随分濃くなっている。


 もともと、都の雰囲気に溶け込めるわけもない温和な性格の父のことだ、余計な仕事を押し付けられて疲弊しているのが言わなくても察せられた。


「武藤殿、宴の前に声をかけるのは不敬ですよ」

「いえいえ、女御様に我が大姫が仕えているのですから、挨拶だけでもと思いまして……文一つよこさず、心配しておりまして……」

 お父様、と言いかけた口を閉ざした。父は身代わりになっていることを知らないのだから。


 文を書こうと思ったけれど、中身を見られることを危惧して書かなかった。内容をでっちあげてもいいが、そんなことをするくらいなら黙っている方が楽だと思った。


「それで、わが娘はどちらに?」

「柳と名をつけ、今は局に控えさせています」

 父親であれば、声で悟られるだろうと思い綾衣に目配せすると即座に返してくれた。やっぱり、この娘は機転が利く。


「柳というのですか、わが娘の女房名は……これは、風流な……。元気にしておりますか?」

「ええ、少し気の強いところもありますが、仕事の呑み込みは早いのです」

 父はそうですか、とこぼした。心の底からほっとしたような声で、思わず声を出しそうになった。いとは、元気にやっています、と。


「その……」

「女御様、お目通りしたいと申すものがいらっしゃいます」

 父の後ろから采女が声をかけてきた。その言葉にはっとして、いとは頭を下げた。そうだ、今は自分が女御様だ。こういう時のために、こっそり練習してきたことがあったじゃないか。

「文が出せず申し訳ない、と」


 檜扇で口元を抑え、なるべくいつもとは違う声を出す。表向きは病人なので、わざとかすれたような声をだした。これが今の精一杯だ。

「はい、問題はありません。女御様、綾衣殿、娘をよろしくお願いします」

 そういって父はもう一度深く頭を下げ、天幕から出ていった。


「お父様、お疲れのようだったわ……」

「文を出せなかったものね。この宴が終われば、一度出してもよいか聞いてみるわね」

「……ありがとう」

「女御様に似た顔で言われるとむず痒いわ。澄ましている顔が似てるから、なんか腹立ってきた」


 あっけらかんという所に、いとはふっと噴出した。

「ところで、誰が来たのかしら?」

「それが……」

「失礼、ご挨拶に伺うのが遅れてしまった」


 言おうか迷っている采女を押しのけるように、縹色の直衣をまとった青年がやってきた。儀式とはいえ、気楽なものなのか束帯姿でないことに驚いたが、佩かれた太刀で一目でこの青年がただ者でないことが知れた。

 装飾の一つとはいえ、武具である太刀をはくことを許されるとなると、それなりの官位についていることの証明だ。


 髪を丁寧に結い上げ、色白の顔は一見すると女人のようだった。雪のような肌だが、瞳の色は黒々としている。物腰は優雅で、絵巻物の貴公子をそのまま抜き出してきたかのようだった。


 もしこの場にかがりか他の兄弟がいれば、大喜び間違いなしだ。

(……この顔、どこかで?)

「ここが、明陽殿の天幕か。うん、この涼やかな香の配合はまさしく明陽殿の名にふさわしい」

「ち、中将殿!? なぜ、鳴滝殿ではなくこちらへ?」

(中将殿? 確か、鳴滝殿様の兄君って……)

 言われてみれば目元や口元に面影がある。


「妹から明陽殿の女御様の話を聞いてね。ぜひともお目通りしたいと思っていたのです。噂にたがわぬ美しさだ。かつて妹と比べられていたのもうなずける」

 低く穏やかな声色は磨き抜かれた名水のようにすっといとの耳を通り抜けた。この声で囁かれたら何人の女性が落ちるだろうか。


(かがりを連れてこればよかったかな)


 自分の周りで鹿の子のように跳ね回る妹の姿を思い浮かべ、頭に手をやった。そんなことをやったら、間違いなく入れ替わりがばれてしまう。

「女御様、やはりお加減がすぐれないのですね。妹が案じていました」

 うつむいたいとの頭上で、中将の声が聞こえてきた。


「……あの贈り物は、なんだったのです?」

「贈り物? あぁ、あれは私が妹に渡したのです。唐国から取り寄せたものを見せていましたら、いたく気に入りまして。いやはや、妹というものは幾つになってもかわいい者ですね」


「そうですか。では、鳴滝殿の女御様に、よろしくお伝えください。とても美しい水晶でした、と」

 顔を上げて伝えると、中将の目が見開かれ、そしてゆっくりとうなずいた。

「ええ。必ず」

 そう言い残すと、中将は踵を返して歩いて行った。その足元をふと見たいとは毛が逆立つ感覚を覚えた。

 ——— 見えた。


 あの時いとを襲ったそれと似た”霧”があの公達の周りをうろついていた。

「あ、綾衣」

「どうしたの?」

「…………何でもない」

 いとはとっさに懐に手をやった。そこには、あの侍が手渡した香り袋が入っていた。その硬い感触を感じると、少しだけ気分が落ち着いた。


 何かが、起きる。そう思わずにはいられなかった。

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