第17話 端午の節会 —閉幕—
目の前が真っ暗になった。いや、そうじゃない。はっきりと目にしたのだ。馬の蹄が自分の目の前までやってきて、それで———。
「しっかり、しっかりなさって! 女御様! 女御様ぁ!!!」
あれ、綾衣の声がする。赤い視界の先で綾衣が必死になって自分を呼んでいる。あぁ、やっぱり賢い子だなぁ。気が動転しても、決して自分を”
何が起きたの?
声を出そうとしても顎に力が入らない。顎が砕けた感じはしない、ほんの少し体を倒したから、かすったんだろうか。ひどく体が重たい。衣装とは違う重さを感じる。それに、厚着をしているというのに指先が冷えていく。
「女御様が馬に襲われた! ほかの者は大丈夫か!?」
馬に襲われた?
そうだ、あの馬を見せる演目で愛馬の姿を見かけてつい声をかけてしまったんだっけ。あの子も嬉しそうに私に駆け寄ってくれた。
「出血がひどい! 医者を呼んで来い!」
随身たちのあわてた顔が映っては去っていく。体に力を込めてみるけれど、体中がしびれたように動かない。
——— どうして……。
あの馬は間違いなく夕星だ。あの子を見間違えるわけがない。呼び寄せたときは普通だったのに、自分のそばに来た途端暴れだした。暴れるような子じゃない。乱暴な人間が近づけば察して距離を取る子だ。
賢い子だから、人を傷つけるようなことはしない、しないはずなのに……。
「馬を始末しろ!」
そう聞こえた気がして、いとは起き上がろうとする。待って、待って、と。そんなことをする子じゃない、と。周りに控えるヒト達をはねのけるように起き上がり、ずるずると前にはい出ていく。
「抑えるのは難しいな! そのまま射掛けろ!」
視界の向こうで暴れる夕星が見えた。その周りにはかすかにだけれど、呪いの気配がした。足元止めの周り、耳の裏、それを振り払おうと夕星は暴れている。
ほかの人には馬が勝手に暴れているようにしか見えないのだろう。だから、こんなことをしでかした馬は処分されなければいけない。
「ま、て。そ、の、子。は……っ!」
右手を伸ばした先で、誰かが手を取った。黒い仮面が目に入る。そこだけ時間が止まったように静まり返った。差し伸べられた手は手甲ごしでもわかるくらい熱かった。黒い仮面の向こうから少し見える目は驚くほど冷たい。
白い外套がゆっくりと地面に落ちていく。意図が問いかけるよりも先に、侍が問いかけてきた。
「……お前は、これでいいのか?」
「ゆ、うづづ、は。わ、る……くないっ!」
つかまれた手を強く握り返す。その様子を侍は静かに見守っていた。
暴れる少し前、黒い”霧”に包まれたのがはっきり見えた。ハエの大群のようなそれが晴れた途端、夕星はそばの随身を振り払い自分に向かって突進してきたのだ。強く頭を打ち付けたようで、じわじわと頭が痛い。
視界の隅で赤い物が衣装ににじんでいくのが見えた。出血もあるのだろうか、侍は冷たい声のまま問いかけた。
「お前、このままだと死ぬぞ」
「……いや、よ。まだ、死にたくない」
ずり、と左手で地面をこするようにして前に進む。
何も解決できずに家に帰るなんて、もうできない。自分だけならまだしも、何も関係もない夕星を暴れさせるなんて、許せない。
「死ぬもんか!」
そういった途端、目の前の侍の表情が変わった。笑った、と思ったころにはいとの目の前がふっと消えた。
「……いいだろう。せいぜいあがけよ、柳」
にやり、と笑ったその口元はどこかいたずらを思いついた子どものようだった。いとを肩に乗せて抱えると、軽やかに地面を蹴り上げた。空を舞う侍の姿は誰にも見られない。はた目から見れば女御が風に乗せられて飛んだように見えるだろう。
「この呪いは、俺には手が余るのでな。何、すぐに戻れる」
そういって、夕星の背に飛び乗った厳彦は誰に言うわけでもない言葉を言い、手綱をつかんだ。手綱をつかまれた馬は、せわしなく動き回るものの、振り落としはしなかった。厳彦は鐙に気を失った柳を下ろした。
頭を打ち付け、血を失ったのだ、普通ならすぐに気を失うはずなのにしばらく持ったのは、この姫が”普通”ではないからか。
「理性をなくしても、主の危機ならわかるだろう、夕星」
進め、というよりも早く黒毛の馬は柵を飛び越え北へと向かって走り出した。多少の障害をものともせず、駆け抜ける馬に厳彦は感心した。
「……死ぬもんか、か」
かつて同じことを言った。同じ仲間だったのか、とどこか安心した自分がいた。
(安心? 何を考えているんだ、自分は)
「……」
ふと手綱から右手を話し、仮面に指を添えた。その感触で、冷静さを取り戻した。
「俺と同じやつがいるものか……」
どどど、と馬を駆って向かうのは清涼殿でも、明陽殿でも鳴滝殿でもない。北のはずれにあるとある山寺だ。必要最低限の手入れしかかされていないので、門の上に本来あるはずの額は剥がれ落ちている。人が通るところ以外は草が生え放題だ。
実際、この山寺は放置されて何年も経つ。だから、人ならざるものが住処にした。
(戻るのも、しばらくぶりか)
厳彦は夕星から降りると、手綱をもって山寺へと入っていく。はじめはためらっていた馬であったが、二三度強く引っ張ると観念したように歩んでいく。門をくぐるころには、すっきりしたような表情になった。
ぶるぶると頭を振り、尾がゆっくりと振れる。始めてくる場所だろうに、おびえる様子は全くない。むしろ、自分を操った見知らぬ人物が気になるようだ。
(よかった……)
「また面倒な呪いをもって帰ったな、厳彦」
山寺の廊下に腰かけ、一人の老人がこちらを見ていた。ここに住まう天狗と呼ばれるものだ。厳彦とは別の文様のある仮面をかぶっている以外、普通の老爺のようにも見えた。よく言われる山伏の恰好ではなく、造りの良い萌黄色の水干姿だった。一見すると、山寺を管理している庭師に見えるだろう。
先ほどまであおっていた酒だるを置き、胡坐をかいた。その前まで厳彦は夕星を連れて進んでいく。人ならざるものを前にして、厳彦は深く頭を下げた。
「師匠、お元気そうで」
「その馬は平気そうだが、そちらの御嬢さんはちっと厄介だぞ」
よっと、廊下から弾みをつけて下りてくると老爺は馬の背に乗せられた娘の顔を見つめた。額から血を流し、気を失っている顔の血色は少しずつ青ざめていく。
「身代わりの姫だ。俺の術が効いているうちは平気そうだったが、この馬が暴れたせいで心の均衡が外れたようだ」
「これほどの呪いを持ちこたえていた、とは恐ろしい胆力の持ち主だな」
衣を覆い尽くすほどの呪いに、老爺は息をのんだ。身代わりと言っていたが、それほどの呪いを受けるほどの業を背負っているというのか、と。
「生きたいと、言っていました」
師匠の酒をあおり始めた厳彦がささやくように言った。起こるよりも先に、厳彦の口から零れ落ちた言葉に老爺は目を丸くした。
「?」
「死ぬものか、と。いっていました」
「そうか……。それは途方もない”業”よな」
腕を組み、老爺はしばらく考えた。
「解呪の法を進めよう。だが、この娘自身に向けられたものだけだ。呪いの元を絶たねば同じことの繰り返しだぞ」
「はい」
「お前が己以外のことを気にすることがあるとは思わなんだ」
馬をひきながら老爺はため息交じりにつぶやいた。その言葉に厳彦は思わずこぶしを作った。
「人の世に戻ってもろくなことがなかったであろう」
「それでも、俺は生きていたいです」
幼いころからいつもそばにあった言葉を繰り返した。この命は、あの人のために使うべきだ。なのに、なぜ関係のない娘を助けようと思ったのか。あの場で姿をさらせば更なる混乱を招くだけだというのに、どうしてだろうか。
「死ぬもんか、か」
自分の背丈よりも伸びた薄の群れに囲まれながら、厳彦は一人佇んだ。照り付ける太陽が厳彦の影をより濃く映し出していく。
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