第16話 端午の節会 —的盧ー
次々と披露される武芸に見入っていると、遠くで馬の嘶きが聞こえてきた。遠くからジャラジャラと馬具が鳴る音がしてくると、いとは思わず立ち上がった。
「次は馬の紹介かしら!」
官吏に連れられ、飾り付けられた馬がぞろぞろと舞台に上がっていく。どれもきれいに梳かれていて、さらさらとしたたてがみが動きにつられて揺れている。
毛並みも白や茶色、黒と多種多様だ。手綱を握っている人物はこちらからはうかがえないが、馬に脅えが伝わらないように堂々とした足取りで進んでいく。
「すっかりはしゃいじゃって、馬が好きなの?」
「うん! 紀伊でいつも一緒にいたんだ、
いとは目を輝かせて綾衣に言った。夕星は紀伊の館で生まれた牡馬で黒毛で額に星のような小さな丸い模様があることから、夕星とつけた。丁度馬に乗る練習を始めたころ合いだったから、一緒に稽古をした。
手入れの仕方から鐙のつけ方や扱い方、走らせ方や制御の仕方、そうした技術を夕星と覚えていくのは楽しかった。はじめて遠乗りができるようになったときは、どこまでも走っていける気がした。
でも、どこまで走っても帰らないといけない。まるで見えない壁があるようで。そんなものどこにもないってわかっているはずなのに、何もない原野に立つと恐れが襲ってくる。
(……もし、あの時駆け抜けていたら……)
そんなこと思っても仕方ない。現に、自分は父の政治の駒としてここにいる。この馬たちも、戦に出られるように調教されていても、その実は権力を誇るだけの飾りだ。
その中で、ひときわ目を引いたものがあった。周りの馬よりも一回り大きく、夜のように黒い毛色をした馬だ。馬を見た人たちが、見事だ、と褒めたたえる声が聞こえてきた。
「あれ……」
忘れるものか。忘れようがないだろう。その足、その額の模様、そしてつながれたひもの汚れは、いとの愛馬だ。
「あの子は、私の……」
いけないことだと分かっているのに、思わず声を出してしまった。その先に何があるか、考えることもできたのに。出てはいけない天幕から一歩踏み出し、手を伸ばした。
「おいで——— 夕星」
それが、いとが初めて犯した失敗となる。
いとが馬を呼ぶ少し前、厳彦は厩舎のそばの木の上から中をうかがっていた。中にいるのは主の兄と、やけに腰の低い男だ。
(——— あれは、最近屋敷に出入りしているという男か)
厳彦は厩舎からとぼとぼと出てきた男の前に立った。
「うわぁあああああ!!??」
急に目の前に現れた厳彦に気づいた壮年の男は声が裏返るほどの悲鳴を上げた。そばにいた馬は堂々としたもので、厳彦を見ても何も反応を示さなかった。いや、反応を示そうとする理性はこの馬にはもう———。
「…………貴殿は、何も思わないのか」
「何を……言っている?」
「その馬は都のどの馬よりも優れている。惜しいとは思わないのか」
馬に詳しいわけではないけれど、荒事で身を立てている以上いい馬と悪い馬の見分け方ぐらい知っている。男が連れている馬は名馬と言ってもよいくらい、体格は整っているし、急に現れた自分に動じない胆力も持ち合わせている。
惜しむらくは……その額の模様だろうか。古より呪いを持つと呼ばれる額の白い文様。
「この馬がよいと中将殿がおっしゃるのだ。これからのことを考えれば馬の命の一つや二つ、惜しいものではない。この馬は長らく家に仕えていた、この馬も主のために命を使えるのだ、うれしかろう」
「……」
急に黙ってしまった侍に男は言葉をつづけた。この男は得体が知れない。長いこと中将の家に仕えているとはいえ、もともとは流れの侍だ。素性をたどれず、出自も語ることはないと聞く。
天狗に育てられたと言い、得体のしれない術を扱う。気味が悪い。そんなあやふやなものに負けるのは癪だった。
「お前のようなものには分からぬだろうが、家の存続は公達の家に生れ落ちたものの宿命だ」
「娘の命と引き換えにしてもか」
「っ!!!??」
男……武藤左衛門が息をのんだ。この侍は、どこまで知っているのか、いや。こちらを動揺させるためのうわごとに過ぎない。手綱を握りなおして、踵を返す。
「……忠告は、したぞ」
背中をムカデのような声がなぜていった。震えそうになる足を止め、馬を引き連れている集団に渡した。そうだ、自分はもっと先へ進まねばならない。
「……なぜ、俺はあんなことを言ったんだ?」
馬に同情したのか、それともおびえる男に腹が立ったのか、分からない。分からないけれど、気づいたらそこに立っていた。
厳彦は屋根を飛び越え、あの桜が見えるところへとやってきた。まだ桜は散らない。それもそうだ、この桜は特別だったから。
「………どうしてだ?」
桜を見下ろすと、枝ごしに屋敷の中が少し見える。少し前まで締め切っていたのに、最近は開けっぱなしにしていることが増えた。そこに入り込む人物が変わってしまったから、初めは立ち去ろうと思っていた。
何せその人物は、もともとの主の場所を奪っておきながら、ちっともその役割を果たそうとしなかったから。
普通の姫君ならしそうな雛遊びや貝合わせよりも体を動かしていたからだ。少し前に自分に後れを取ったのが悔しかったのだろう、女房達にばれないように体を伸ばしたり組み手を取ったりしている。
すぐにばれて屋敷の奥へと引きずり込まれるのがいつもの風景になった。塗り替えられていく記憶にいら立って、つい口に出てしまった。
——— 本当に、お前は姫君なのか。
ふと口に出してしまった言葉だった。言い返すのかと思っていたが、目の前の人物は思いがけない行動をした。つい先ほどまで言い返していたというのに、視線をそらし眉根を寄せていた。まるで、何かに後悔しているようだった。
その表情がどうしても頭から離れない。てっきり、何か文句があるのかと怒り出すかと思っていたのに、急に態度を変えられてこちらも困った。
顔が似ているというだけで連れてこられた。それには同情する。それ以外の感情は持つはずがない、そう思っていたのに。
「……俺は、女御様を守れればそれでいいのに」
どうして、あの顔が頭から離れないのだろう。こんなこと、今までなかったはずなのに。
「戻るとするか、これ以上ここにいても何もないだろう」
すくっと立ち上がり、宴の方へと駆けだそうとした途端、誰かの悲鳴が聞こえてきた。一人や二人ではない、もっと大勢の人々の悲鳴だ。それはどんどん大きくなり、どたばたと何かが倒れる音までしてきた。
「何が……起こった……?」
厳彦は腰にはいた大太刀を構えなおすと、瓦屋根を蹴り上げた。悲鳴のする方へ、一番初めに聞こえたのは女の声だ。
ぞわぞわ、と何かが体を這いまわるのを感じた。屋根を飛び越え、厳彦は宴のさなかへと飛び込む。
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