第18話 思いの堰

「ここは……?」

 ずいぶん長く眠っていたような気がして、いとは目をゆっくりと開ける。目を開けると、そこは都の屋敷でも、明陽殿でもなかった。かといって、紀伊の館でもなかった。

 見慣れない風景だけれど、質素な板張りの天井に落ち着く自分がいる。鼻を動かしてみると、土と水と薬草のにおいがする。どこか懐かしい匂いだと思った。


「起きたか」

「誰?」

「通りすがりの者だ」

「……助けてくれたの?」

 首を左に傾けてみると、壁にもたれかかるように立っている侍が目に入った。こうしてみると、影のような男だ。ふとした瞬間に視界から消えてしまっても気づかないくらいに。視界はすでに暗く、明かりになるのは侍の近くにある燭台ぐらいだ。


「起き上がれるか?」

「何とか……」

 のろのろと手を上げ、体を持ち上げる。あまりにもたつくので、侍が背を支えてくれた。そばに置かれた白湯を飲み干すと、いとは口を開いた。

「状況は?」


 仮面を覗き込むと、侍はおかしそうにくくっとのどを鳴らして笑った。初めて会った時から失礼な奴だとは思ったが、その響きには毒気は全くなく、歳相応の青年のそれに聞こえた。


「開口一番がそれとはつくづくおかしなやつだな」

「おかしくないわよ。どうなの実際」

「最悪な事態が重なっていて、どこから話せばよいか分からん」


 そういう侍の顔は真剣そのものだった。仮面で覆っていても、まとう雰囲気やかすかに見える瞳の様子からも何となく察せられる。

(そう簡単に口は割らないってわけか。でも、答えないってわけでもなさそう)


 それならば、細切れに問えばいいだろうか。複雑にもつれている組みひもも、一つ一つの糸に注目していけばいずれは解けるのだから。優先順位を間違えずに、大きなところから小さなところへと聞いていこう。


 いとは右の握りこぶしから人差し指だけを伸ばして問いかける。

「節会は?」

「もちろん中止になった。ほとんどの行事が終わった後だったから、そこは気にせずともいい」

「私のことは?」

 次に中指を立てながら問いかける。


「それは心配するな。俺の姿は誰にも見えないし、明陽殿の方角に馬を走らせた。あとはあの女房がいいように話を作るだろう」

「綾衣は?」

 左手で小指を抑え、薬指を伸ばす。


「あの女房のことは知らん。だが、お前のようにケガは負っていない。しばらく気が動転していたようだが、今は落ち着いているようだ」

「……良かった」

 ふぅ、と息をつく。ここまでは大体想定通りだ。この侍がいなかったら、今頃自分は夕星に踏みつけられていたかもしれない。そうだ、あの子は無事だろうか。

 いとは小指を伸ばした。あと一つ思いつかないけれど、心残りは先につぶしておくに限る。


「あの子。……私の馬なの……その、夕星は?」

「それは問題ない、落ち着かせて今は山寺の裏につないである。明日には元気になるだろう」

「元気になるのね」

「あぁ。先ほど飼い葉を持って行ったんだが、お前に会わせろと言わんばかりだ」

 その言葉を聞いていとの目から涙があふれた。眉根を寄せ、うつむき、やがて小さく泣き出した。侍が息をのむ声がした。

「あの子は……なにも悪くないのに!」


 ぐしゃりと寝具にしてある袿を握りしめ、いとは弱弱しく言った。いきなり泣き出した娘を厳彦は黙ったまま見つめた。

「けがはあるが、走れないほどではない」

 慰めるために言った言葉だが、それが余計な一言だったようで堰を切ったようにいとは泣きだした。子どものように顔を覆い、嗚咽が混ざった声を上げる。

「いや……もう、いやぁあああっ!!」

「????」


 ばんばんと寝具を叩き、大粒の涙がぼとぼとと頬を伝って落ちていく。獣のようにほえたてている姿は侍の知るどの顔とも違っていた。

「私だけでいいじゃない!! どうして、夕星まで使うの!? あの子は、全く関係ないのに!! 優しくて、背中に鳥が乗っても、野犬に追い立てられても怒らなかったのに!! 本当に、本当に優しい子なのに!!」


 故郷で居場所がなくなっていく自分にいつも寄り添ってくれた子だ。館以外にも居場所があると教えてくれたのは、あの子が自分を乗せて街に連れて行ってくれたからだ。

 自分だけに呪いがかかるのは分かる。宴の前にも何度か、体に謎の傷やあざが浮かぶことがあった。それが熱を帯びていても、何とか持ちこたえることができていたのに。熱が全身に回っても、平静を保つことはできた。


 自分だけがきつい思いをするのなら、それでよかった。その痛みが早くこの事態を収束させようという意識になったから。でも、夕星。あの子が出てきたせいで、強く持っていた心がぽきりと折れた。

「私の……私の、せいだ!」

「なっ?! 莫迦! そんなことを言ってしまえば、心にひびが入るぞ!」

 侍があわてたようにいとに言うが、そんな言葉が入る隙間はなかった。


「私が……早くに終わらせてれば……あの子は、呪われずに済んだのに!」

 自分が諦めていたら、もしかしたらあの子は無事だったかもしれない。結果的に助かったとはいえ、自分のせいで巻き込んでしまった。


「柳! 気をしっかり持て! 柳!」

 頭を振り払うように動かすいとの肩を侍は両手で押さえた。押しとどめている力は強く、それにあらがうようにいとは叫び続ける。

「あの子は悪くないのに! 射掛けられた傷だって、痛いはずなのに!」

「聞いているのか!? おい、柳!?」


 —ワタシガ ワルカッタノ?— 


 その隙を、呪いが見逃すわけがなかった。ずるりと、いとの中から何かが抜けていくのを感じた。そして、そのまま闇の中に放り込まれた。


 黒いとげのようなものがいとの足元から広がり、幾重にも折り重なっていく。弦は足に、腕に、胴にまきついて行き、その表面にあるとげはむき出してある皮膚に傷をつけていく。傷口から樹液のように赤い血がしみだしていく。

「柳! しっかりしろ!」


 厳彦が強く揺さぶってみるが、目を閉じた娘は何の反応もない。力の抜けた体はだらりとその四肢を厳彦に預けた。涙でぬれた顔が、よく知った人のそれと被り、厳彦は胸が締め付けられる思いがした。それは、いつか想像した光景に見えたから。

「認めない! こんなこと、認められるか!」


 少なくとも、自分の腕の中で倒れるのは彼女じゃない。自分の知っているこの娘は呪いなど跳ねのけるほどの心を持っていたはずだ。歯を食いしばり、厳彦は娘の頬をぺちぺちと叩いた。それでも反応がないので、厳彦は息をのんだ。

 違う。この娘は、あの人じゃない。それが無性に腹が立つ。


「お前は初子ういこ様じゃないんだろう!! お前は柳だ!」

 その名はいみなだった。本来なら親子でしか知りえぬ貴人の本来の名を叫びながら、厳彦は影武者の娘に語り掛ける。

「よくもそんな体たらくで影武者になろうなどと言ったなっ!  俺は認めないからな! あれほど逃げろと言っただろうに!」


 怒りにかまけて叫びながら、厳彦はどこかすっきりしていく自分に気づいた。ここには自分しかいない。

「なぜお前があの場所にいるんだ! その衣装も、その紅も、お前の物じゃないのに、どうしてお前があの桜の下に居座っている!」

「あの場所は初子様のものだ! ほかの誰でもない……あの人だけのものだったのに! お前がなぜそこにいるんだ!」


 言っていて、なんて自分勝手なのだろうと思わなくもない。何せ、この目の前の娘は訳が分からずにつれてこられた哀れな娘だ。怒りをぶつける相手ではないはずなのに、自分で自分が分からない。

 そもそもこの感情が怒りから来るものかもわからない。ただただ、目の前の娘がこのまま目覚めなかったら……それがどうしようもなく感情を駆り立てていく。

「お前は、初子様なんかじゃない。お前は……柳だ」

 目の前の娘は決して自分の想い人ではないことを繰り返して、厳彦はつぶやいた。

「けれども……いくな」

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