第31話 天の沙汰も恋次第?
あれから、乳兄弟ということで綾衣はいとよりも早く、次の日には解放されていた。牢から出される直前まで、綾衣はいとを心配していたがいとはほっとしていた。女御との約束はひとまず守れたからだ。
(私の方は慎重なんだな)
いとの取り調べはすぐに行われるかと思いきや、二日経った今でも何の音沙汰がない。てっきり、その日の夜にでも自供を迫られるものだと思っていたので、あっけにとられた。
(まぁ、あちらからすれば乳兄弟の方が大事だろうしな)
水は与えられているし、少ないながら麦飯は出るので飢えや渇きに悩まされることはなかった。怨霊が見え、それを退治したとなればその手の知識があると思われておかしくない。
つまり、呪いやそれらに関連する何かをいとが持っているのではないかと疑われているということだ。下手に扱って、道連れにされることを恐れているのだろう。
柳の下に幽霊がいると思い込むからそうなる、といとは思った。改めて自分でつけた名前に感心した。
「別に私、御坊からなにも教わってないよね。呪いや道術が使えたら、とっくの昔に雲隠れしてますよって」
誰もいない空間でいとは体を伸ばしていた。何もない田舎で育った姫君なので、暇つぶしには一家言ある。体は使っていないとだんだんと錆びついていく。どんなに優れた名刀でも、研ぎを怠り柄巻のゆるみを正さねば、いざというときに使い物にならない。
いとの持ち味と言えば、身の軽さと柔軟さだ。女御のふりをしている間も、暇を見つけては体を動かして正解だった。もし、何もせずただ食って寝るだけの生活を続けていれば、怨霊に立ち向かうことができなかっただろう。
「あ、やっぱりあざができてるな……。しばらく痛みそうだな」
あの怨霊につかまれた右肩から二の腕にかけて青紫色に変色していた。呪いによるものではなく、ただの内出血なのでいずれ消えてなくなるだろう。けれども、軽く触れるだけでもずきりと痛む。
「……まぁ、名誉の負傷ということにしておきましょう」
そういうことにしよう。色々あったけれど、当初の目的は果たせた。家のことについては思う所はあるけれど、自分一人いなくても変わらずにいてくれるだろう。
「厳彦、けがが悪化してないといいけどな……」
怨霊につけられたけがは治りが遅いと聞いたことがある。天狗のもとで修業をしていればそれらに対抗するすべは持っていそうなので、あまり考えない方がいいかもしれない。あの様子なら、平気だろう。
あの桜の元でずっと影のように見守っているのだろう。それが、彼の望んださいわいの形であるのなら。
「大丈夫、大丈夫……だから」
だめだ。考えては、だめだ。無事だということは外から漏れ聞こえてくる噂で聞いているじゃないか。それ以上何を望むというのか。急に胸が締め付けられるように痛み出し、いとは胸を押さえた。
一人でいると、考え込むことしかできない。過去の自分の行いがさざ波のように押し寄せてくる。静かに足元を濡らし、凍えそうになる。
もしも、を考えることほど無意味なことはないのに。
「明陽殿様を騙った女房、柳はいるか?」
いとが呼び出されたのは、それからまた数日たったころだった。感覚としては事件が終わって7日が経過していた。遅すぎて、忘れられているのではないかと疑いだした矢先の出来事だった。
いとを連れ出しに来た役人は一人ではなく、5人いた。しかも、後ろに控えているのは陰陽師のようだった。いとは着物を整えて、役人たちの前に立った。腕を組み、大きくため息をついた。
「私しかいないのに、尋ねる必要がどこにありますか?」
いとの軽口に、役人は何の反応も示さなかった。てっきり、前のように縛り上げられるかと思いきや、役人はいとを連れ出しただけで縄にかけなかった。
どうぞお逃げください、というわけでもなさそうだ。逃げたら最後、と逆に警告を与えているのだろうか。役人の立ち振る舞いからして、武の心得もある人たちばかりだ。いとが逃げる気配を出した途端に、腰の太刀をふるうつもりだろう。
これから何が起こるのか、いとが覚悟した途端、いとはいきなり湯殿に投げ込まれた。湯殿と言っても、あの山奥の温泉のように湯につかるのではなく、湯で洗った布で体をこすられた。
「なんでっ!!???」
そして、あれよあれよという間に衣装を変えられた。しばらく手入れができなかった髪はきれいに整えられ、唐衣を重ねた姿に変わった。これではまるで、身代わりではなく本物の女御のようだ。
「私、罪人ですよね? ねぇ!?」
いとが尋ねるよりも早く目の前の景色が変わっていく。先ほどまで長身の男たちに取り囲まれていたというのに、今はぞろぞろと女房に取り囲まれている。前にも後ろにも詰まっているので、自分が今どこに居るのかすら分からない。
けれど、それもしばらく歩いているうちに分かるようになってきた。人の心が読めるわけではないけれど、気配や雰囲気がだんだんと研ぎ澄まされていくのを感じる。紀伊の山にもそういう場所がいくつかあった。
禁域、そう呼ばれる場所に進んでいる、そう直感した。神の住まう場所へ進んでいる。そう思えば、遅々として進まない廊下の意味も納得できる。
(まさか、ここまで来て帝直々にお呼び出しとは。お母様が聞いたら泡を吹いて倒れるだろうな)
いとは左手を伸ばし、右腕のあざをなぞった。びりびりとしびれるような痛みで、浮つきそうになる心をひきとどめた。
「これより先、お前への発言は認められていない。お前ははい、とだけ答えるのです」
それにうなずき、いとは幾重もの御簾がかけられた大広間へ足を踏み入れた。板張りの冷め切った床に腰を下ろし、ゆっくりと頭を下げ平伏した。とても長い空間だ。下手をすれば、都の長屋の一棟が入るのではないかと思ってしまうくらいだ。
その向こうにいるだろう人物の気配すら感じられない。いつの間にか、あれほどいたはずの女房たちの姿が見えない。朝のまばゆい光が差し込んでいる空間なのに、不思議と音はなく、まるで世界から隔絶されているかのようだった。
耳をすませば、風の音や遠くで鳥が鳴く声が聞こえている。けれど、肝心の人の発する音が聞こえてこない。いとの深い息だけが聞こえてくるだけだった。床板に視線を合わせると、頭の奥がしぃんとしてきた。
「
どこかから聞こえてきた声に、いとは顔を上げた。その声の主をいとは知っていた。御簾の向こうに、厳彦がいる。
「お前が明陽殿の女御様を騙ったもので間違いないな」
間違いない、彼だ。声からしてけがは治っている。こみあげてくる安どの気持ちを抑え、いとは深く頭を下げた。
(よかった……本当に良かった!)
泣き出しそうになる目を強くつぶる。無事だったことが分かっただけでいいじゃないか。もう一度深く息を吐いて、浮ついた心を湖面のように沈めた。
再び顔を上げたいとの表情は、まるで武人のようだった。普段のいとを知るものからすると、別人のように思えるかもしれない。ただ一点、前だけを見据え背筋を伸ばし、はきはきとした口調で話し出した。
「はい、いかな処分も甘んじてお受けいたします。蟄居でも、流罪でも、いかな処分であろうと、それが己の為したことの対価なのですから」
「…………」
「この度は、わたくしの判断のせいで女御様に負担を強いたこと、そして宮中の平穏を害したこと、申し開きも致しません。何卒、処置を」
「本当に、か?」
その言葉の意味をすぐに理解することはできなかった。なぜなら、その言葉は殿上人の物ではなく、すぐそばにいる青年から発せられたものだからだ。
「本当に、それでよいのかと聞いている」
どうして、今それを問うのだろう。いとは困惑のあまり、視線をそらしてしまった。そして、うっすら見える厳彦の影を見上げた。動揺してはいけないのに、どうして……。
「迷いがあるのだろう。それは何だ?」
答えられない問いを投げかけるのだろう。
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