第32話 おとぎ草子のひもを結い

「今更、何を答えるというのでしょう」

 目を伏せ、娘は静かに答えた。ここに連れられてきた当初は戸惑いと罪悪感をまとっていたというのに、再び顔を上げた娘の表情にはそれらはなく、まるで武の達人と対峙しているかのようだった。


 生気がないわけでも、諦観しているようでもなかった。しっかりと伸びた背筋からは一分の隙もなかった。


「お前が女御様を騙ったわけをもう一度話せ、と仰せだ」


 そんなことを聞いて今更どうするのだろうか。けれど、命じられたのなら答えるのが道理だ。


「わたくしは、秘密裏に女御様の呪いを解くように命じられました。女御様を騙ったわけは、その方が都合がよかったからです」

 呪いはもう消え去ったことはそこの侍がすべて上奏しているに違いない。それなのに、どうして自分に問いかけてくるのだろうか。何か意図があるのだろうか。


「わたくしは、命に従い、それをなしただけです。明陽殿の女御様は、わたくしの父の主君の姫君。主君の娘もまた、従者の主です。わたくしは、呪いが女御様の自我を飲み込んでいたことすら気づかなかった未熟者です」

 事実を述べていくというのに、まるで重たい鉛が体を覆っているかのようだ。空気が重く、暑いはずなのに冷えている。


「そのことは報告に上がっている。お前は見事呪いを解いてみせた。ゆえに、お前の答え次第では女御様を騙った罪を免じてもよいとの仰せだ」


 その言葉に、少しだけ心が揺らいだ。けれど、甘い考えだ。呪いは普通の人間には見えはしない。証拠はあっても、それを確実に証言できるものはいない。思い浮かんだ幻想をすぐにかき消した。


「その言葉を素直に受け取るわけにはまいりません」

「何ゆえだ?」

「わたくしがただの受領の娘だからです」

 目を伏せ、今までの出来事を振り返った。呪いを見抜けなかった自分にも腹が立つけれど、散々な目に遭わされてきたというのに、このまま手ぶらで帰れというのは、割に合わない気がする。


 背筋を伸ばし、前を見据える。矢場に立つときの心に似ていた。張りつめていく空気がまさにそうだ。矢をつがえ、引き絞り、雑念を捨ててこそ、的を射抜くことができる。

「わたくしが紀伊の国府にいたとき、何もできませんでした」

「それが何だというのだ」

 厳彦が何を言い出すのだろうか、といぶかしむ声を出した。子どものころ、思っていたことだ。もし、この世の人間の頂点に立つお方にまみえる機会があったなら、言ってみたいことがあった。


「わたくしは、もう二度と誰にも寂しい思いをさせたくないのです」

 それは、今ではただ一人に向けた言葉であるけれど。何もできず、ただただ泣いて暮らしていたあの頃とは違うんだ。こうして誰かをすくうことができたじゃないか。


「あの怨霊となられたお方は寂しさを抱えていらっしゃいました。外に出られず、ただ空虚な日々を過ごすだけ。

 命が尽きてしまうその時に彼女が抱えていたものは寂しさでした。その寂しさが、誰かを呪うものとなり果ててしまったのです」

 そう思いいたった時、自分と重なって見えた。命を奪われかけた相手ではあるものの、その奥底にあった本心を見てしまった。あの手紙は誰かにそばにいてほしかったとつづられていた。


「わたくしももしかするとそうなっていたかもしれません。孤独の寂しさを誰かに押し付けたかったのだと思います。誰かのふりをしてもいいから、誰かに見つけてほしかった」

 そうでもしないと、”自分”が消えてしまいそうで。いとは胸に手を当てて深く息を吸う。まだ空気は重たいままだけれど、言葉を続けたい。


「……」

「でも、ある侍がわたくしに言いました。お前は女御様ではない、と。お前は柳であって、女御様ではない、と」

 彼の思い出を踏みいじったことは今も心に暗い影を落としている。でも、彼は言ってくれた。”私”を見つけてくれた。


「その侍にとっては、私など取るに足りない存在だったのでしょう。けれど、この都でその侍に出会えたことは、私にとって大きな意味を持ちました」

 過ごした日々はないに等しい間柄だったけれど、私の中では大きな出会いになった。そこにいるのなら、伝えたいことがある。


「彼にとって、触れられたくない傷があって。それに私が触れてしまったのなら、謝りたかったのです。それ以上に、彼には感謝をしているのです。あなたに出会えてよかったと、今ははっきり思えます」

「出会えてよかった、と? そんなことをなぜここでいう必要が?」

 声にいつものとげがない。ここからは影になっているので表情は見えないが、動揺しているのがわかる。ここで何を言っているのか、と本気で理解できていないようだ。理解しなくてもいい、ただ伝えたいだけだから。


「その侍にも、私は寂しい思いをしてほしくないのです。この都にきて、私を身代わりだと一目で見抜けた人だから。彼の幸せの形を、私が守れたのなら、それでよいと思いました」

 そこに自分はいなくても。覆い隠すように、いとは笑った。けれど、それはすぐに終わることになる。深い深いため息をして、ようやく厳彦が御簾をくぐってこっちにやってきたからだ。


「お前、やはり何か思い違いをしているな。お前の釈放はずいぶん前から決まっていたのだ」

「はい?」

「お前が呪いを解くために奔走したこと、そしてこれがお前を放免することとなった決め手だ」

 ばさばさ、と鳥の羽が落ちてきたのかと思った。床に散らばったそれらを見ると、そこには大小さまざまな書状だった。しかも、品質すらばらばらだ。都で見かける上質なものから紀伊の館でよく見かけていた粗悪品と言ってもよいものまで様々。


「なにこれ……木片? こっちはやつで……よね?」

 中には紙ですらないものもあった。木の板を適当に切り出したものや、木の葉に書いているものまであった。しかも、文字は適当で癖が強い物ばかり。墨で書かれたものもあれば、石か何かでひっかいたような跡もあった。


「これらは全て、お前が居た紀伊の村の民がよこしたものだ」

「え? どうして……そんなものがここに?」

 紀伊の人たちは、いとが女御のふりをさせられていることを知らないはずだ。きっと都で平穏に暮らしていると思っている、そう思っていたのに。


「それらすべて、お前の無事を願うものばかりだ」

「……どう、して……」

 まだ比較的読めるものを拾い上げると、厳彦の言ったとおりだった。

 

 ”ひめさま、げんきですか。わたしは、げんきです。”


 ”紀伊は梅の花盛りになりました、今年の祭りはぜひ姫様もお越しになられてください。”


 ”おとうとが うまれました。おっかぁも ぶじです”


 ”姫様のおかげで、今年の冬を超えることができました。ありがとうございました。”

 

 ”お嬢、また稽古をつけてやるよ。都に飽きたら戻ってきな。”


 ”ひめさま また あそんでね”

 

流麗な文字もあれば、そうでもない文字。子どもの物もあれば、大人の物もある。無言で文字を読み進めていくいとに、厳彦が笑った。

 馬鹿にしているわけではなく、別の感情が混ざっているように感じた。


「お前、文字を教えていたんだな。まったく、もの好きにもほどがある」

「物好き、じゃないよ。覚えてほしかった、から」


 村の人たちの中で、興味があるものには文字を教えていた。学があってもつまらない、そういう人たちに文字があれば、子や孫に自分たちのことを覚えていてもらえると伝えていた。

 自分のように忘れ去られるだけの人間より、覚えていてもらえる人間を少しでも増やしたかった。


 それが、こんな形で返ってくるとは思わなかった。

 

「———っ! わあぁ……っ!」

 あふれるばかりの思いごと、いとは手紙を抱きしめた。閉じた瞼の裏には、彼らの顔が思い浮かぶ。

 遊ぼうと声をかけてくれた子どもたち、字を教えてほしいと頼む青年。祭りの衣装を作るのを手伝った娘に、いろいろなことを教えてくれた翁たち。地侍や、商人、それらの顔が次々と浮かんでくる。


「みんなっ! 私、私はっ!!」

「みな、お前に感謝している。これでも、お前は誰かの身代わりなどとほざくつもりか?」

「っ!!」

 泣きじゃくるいとの手を乱暴に厳彦がつかんだ。そして、その顔にいとは驚いた。あれほど嫌がっていたというのに、なぜか顔をこちらにさらしていた。息がかかるほどの近距離で、こちらの目を覗き込んでいた。


「い、わひこ……。どうして、顔……」

「そんなこと、今はどうでもいい」

「よくない! だって、あんなにも怒って、た」

 あぁ、とくしゃりと厳彦が笑った。照れたような笑顔を向けた後、すぐにいつもの真剣な表情に戻った。


「この手紙は全部、お前に宛られていた。これでもまだ、お前は誰かの身代わりだと言い張るつもりか?」

「そ、れは……」

 口ごもるいとの頭を厳彦は抱き寄せた。子どものように額を当てて、今まで聞いたどの声よりも暖かい声で告げた。


「お前は柳だ。他の誰でもない。身代わりなど、いなかったんだ」


 その言葉に、いとは肩を震わせながらうなずいた。手で顔を隠そうとすると、むっとした声が聞こえてきた。

「なぜ隠す」

「見られたくないから」

「見せろ。俺だって見られたくもない顔を晒しているんだ」

 不公平だろう、と言いわれても、それとこれとでは訳が違う。顔を隠すことには成功し、慌てて数歩下がる。そうしたら、今度はなぜ下がる、と不服そうな声が聞こえてきた。子どものようなことをするものだ。


(なにがあったの? 今、何が起きた? 今、何が起こった?!)

 いきなりのこと過ぎて、訳が分からなくなってきた。紀伊の皆からの手紙でいとを放免してくれる流れは分かった。けれど、厳彦の行動が訳が分からない。

 記憶の中にある彼の言動からは想像もつかない。それに、あの時の言葉はまるで熱にうなされているかのようだった。


「柳、お前には役に立つと帝がお認めになった」

 顔を抑えたままのいとを放置して、厳彦が淡々と話しだした。どうやら、話の続きがあったらしい。

「お前には今後とも女御様付きの女房として働いてもらう」

「え?」

 そこでようやく顔を上げた。

「宮中という所がどういう場所か、この一件で分かったろう」

 こくこく、と目を丸くしたままうなずくものだから、厳彦はやれやれと肩を落とした。


「お前を流罪にして全てをもみ消すのは簡単だ。だが、今後また女御様や他の貴人に害が及ぶか分からない」

「呪いが見えるってこと、帝に伝えたのね」

 あ、視線をそらした。じぃと非難する視線を送るも、厳彦は意に介さず続けた。

「そして、近いうちにいずれかの女御様が御子をお産みになれば、呪いをかけようとするものも増えるやもしれん。そのことを帝は大変憂慮していらっしゃる」


「……つまり、まだ私には利用価値がある、そういいたいのね」

「どうとらえようが、一向にかまわない。これは帝のご意思だ」

「……お父様は?」

「この件に関わったとはいえ、宴を台無しにしてしまったからな。しばらくは謹慎してもらうことになるだろう。それを手引きした者も含めな」

「…………良かった」

 ほっと胸をなでおろし、いとはその場を辞した。待機していた女房たちに囲まれながら、明陽殿に戻ってくると、綾衣から泣きながら歓迎された。


 こうして、女御様にかけられた呪いの事件は幕を閉じた。けれど、いとはまた違った思いを抱いていた。


「眠れない……。昨日まで寝てた床が恋しいくらいに」

 はじめに入れられた局の中でいとはぐるぐると寝返りを打っていた。無罪放免はうれしい。身代わりではなく、女房として働くことになったのもまぁまぁうなずける。そして、今後も女御様の身辺を守ることも、一応折り合いがついた。


 ——— でも、一つだけ結論が出ていないものがあった。


 なぜ、あの時厳彦はあんな言葉をかけたのだろう、と。


「お前は柳だ。他の誰でもない。身代わりなど、いなかったんだ」


 その言葉の色があまりにも鮮やかだった。

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