第33話 迎え来る朝に
「眠れない……こんなこと、前にもあったよね」
女房として歓迎されたのはうれしい。けれど、これからは女房としての仕事をしないといけない。紀伊の皆にも無事を知らせる文を書いていたら、夜更けになってしまったうえに、ずっと物書きをしていたものだから目がさえてしまった。
「もう出ても怒られはしないよね」
薄衣一枚だけだと心もとないので、一枚上から被る。いつの間にか、季節が過ぎていき、あれほどあった湿っぽさが無くなっていた。
歩いていれば、いつか眠気がやってくるだろう。そう思い、いとは局から出て歩き出した。ここにきて初めのころには、大きな桜の木があったが、あの一件以降根こそぎ引き抜かれたのだという。
もう本来の枯れ木に戻っているとはいえ、あれほどまでに見事な桜を見られないのは、少し残念な気もした。
そう思っているのは、自分だけではないようで。
「まだ起きていたのか。お前はまだ人間のはずだろう」
「別に……いいでしょう」
掘り返され、適当に盛られた土のそばで突っ立っている人物に声をかけた。いつもは被っているはずの仮面を外し、月光にその顔を晒していた。
「怒っているのか?」
「怒ってないわよ」
「いや、その声は怒っているだろう。俺はお前に何かしたか?」
その問いかけには答えず、いとはずんずん厳彦に近づき、その横に腰を下ろした。膝を組み、言葉を探した。
「あの箱、御坊の印があった」
「あぁ、お前の御坊がここに現れたのだ」
「御坊が!? なんで!? どうして!?」
「お前をよろしく頼むと言われて、またどこぞに行かれた。あの方もまた、天狗だろう? 気配が人間ではなかった」
尋ねられても、答えられない。浮世離れしている人だったから、そういうものだと思い込んでいた。旅の僧というものは、こういうものだと。
「あの時、なんで私にあんなこと言ったの?」
「……言っている意味が分からないが?」
「どうして、身代わりなんていないっていったの?」
顔を合わすのも、気恥ずかしくなって膝の間に顔を埋めた。呪いの件が無くなれば、彼がここに来ることは無くなってしまう気がした。
まだ会えるうちに聞いておきたかった。いつから、あんな表情を自分に向けるようになってきたのだろう、と。
「柳」
急に名前を呼ばれ、肩がはねた。顔を上げると、また目の前にあの顔があった。今度は目をそらすな、と言わんばかりにのぞき込んでくる。いとの頬に触れ、自分の真正面にとらえた。
「以前俺は、この桜の木にはあの人がいればいいと言ったな」
「…………うん」
「でも、俺の隣にはお前が居てほしい」
「っ!?」
「この姿を厭わないで呉れて、ありがとう」
「そ、そんなっ! だって、あなたずっと女御様のことを……」
そんなことか、と厳彦は意外そうな声を上げた。そして、そのままいつか見たいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「お前の様な姫を好いてくれる男など、俺以外ないだろうさ」
「は……はい?」
きょとんとしているいとを見て、あははっと厳彦は大声をあげて笑い出した。右手で額を覆い、くくくっとのどを鳴らして笑う。その姿は何の飾り気もなかった。
「ちょっと、笑うなんてひどいじゃない!」
「あぁ、悪かったな。だが、本当だ」
笑った顔、初めて見た。そう思っていると、いとの唇に厳彦の人差し指が触れた。幼子の口を閉ざすかのようなしぐさだった。
「これから忙しくなるぞ、何せ呪いが見える女房など、いた例がないからな。その噂を流しただけだが、腹に何か抱えている連中はさぞや肝を冷やしただろうな」
今回の件に関わる貴族はいなかったが、今後そうなるかもしれないということだろうか。冗談ではない、といとは立ち上がった。
「ちょっと! 勝手に人の秘密を流さないでよ! 私はまだ、あなたの……」
「何か言ったか、柳?」
はぐらかすように言うので、いとは観念した。やっぱり、この侍は一筋縄ではいかないようだ。こちらを見上げてくる表情は、いたずらを仕掛けてきた弟妹のそれだ。
「わかったわよ、やればいいんでしょやれば!」
言い切った後、しぃんと辺りが静まり返った。
「っ、何か言いなさいよ!」
「いや、これ以上言うことはないからな。俺は」
わざと語尾を強めたので、いとは顔から火が出る思いがした。紀伊にいたときは、恋というものは静かにひそやかにするものだと思っていたけれど、どうやら自分にとってはそうではないらしい。
いとの差し出した手を取って、厳彦が立ち上がった。自分よりもずいぶんと背の高い青年に向かって、いとは背伸びをして伝えた。これを伝えるのが怖かったときもあったけれど、白く染め上げる月明かりが背中を押してくれる気がした。
「あなたの寂しさを埋めるものでいたい。身代わりじゃなくて、私自身がそうでありたい」
身代わり姫君おとぎ草子~狂い桜と仮面の侍~ 一色まなる @manaru_hitosiki
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