第29話 夜風になびく風見草
ぐぅ、と大きな腹の音でいとは目が覚めた。自分の胎の音で目が覚めるというのは何とも恥ずかしい。目が覚めると、どこかの牢屋だった。
鼻を動かしてみると、すり切れた布の臭いと古い木材のにおいがした。目を凝らしてみると、思ったより広い空間が現れた。
幸いにも、倉庫を改造したようなものなので、どちらかと言えば押し入れのような場所だった。使い古された屏風や、棚が雑然と置かれていた。いとの傍らには、薄く埃の被った火鉢が置かれていた。
(貴人を謹慎させるための部屋かしら)
風の噂で聞いた程度だが、いかに罪人とはいえ高貴な身分の方を穴倉に閉じ込めるのは外聞が悪い。だから、罪を犯した貴人は座敷の奥にしまい込むのだという。
たしかに、いとは世間体を考慮すればまずまずの貴人だ。雲上人と比べると塵芥に等しい存在だけれど、それでも受領の娘という地位は市井の人から見れば十分に貴人の条件に当てはまる。
「腹の音で目が覚めるなんて、恥ずかしいな」
「あんたに、恥ずかしいって感覚があることに驚いているのだけれど」
「その声、綾衣ね!」
起き上がって辺りを見ると、牢屋の隅で足を抱えてうずくまっている綾衣がいた。辺りはもう夜になっているようで、綾衣の気配しか感じないほどに暗い。
せめて月明かりだけでもあれば違うのだろうが、そこはやはり罪人ということか。窓らしきものはなく、戸板の隙間の光が唯一の明かりだった。
「綾衣はどう、けがしてない?」
「……」
綾衣からいつものような反応が返ってこない。やはり、慣れない馬の手綱を握らせるのはまずかっただろうか。夕星には、丁重に扱うように言ったはずだけれど。
「綾衣? やっぱり、痛かったんでしょう?」
「ばか」
「?」
「ばかばかばかばかばか」
念仏のような抑揚のない声で綾衣がつとつととしゃべりだした。こんな反論をされるのは、姉妹げんかをした時ぐらいだ。それにしても、話がうまいと滑舌もよいのか、と感心してしまうくらいだった。
しばらく悪態をついていたかと思ったら、急に涙声に変わっていき、鼻をすする音まで聞こえてきた。
「……目覚めないかと思ったじゃない」
「それは、ごめん」
綾衣が言うには、まるで米俵を投げ入れるかのように、いとはこの牢屋に入れられたのだという。治りかけていた足のけがが開き、足に血がにじんでも誰も手当てをしなかった。仕方ないので、近くにあった布を裂いて巻いてくれたようだ。
「いくら揺さぶっても、声をかけても眠りこけていたんだもの」
「それは……」
「でも、女御様はご無事だったんでしょう?」
「そうだね。呪いの元は絶ったわ。これでもうだいじょう―――」
言い終わらないうちに、綾衣がいとに抱き着いた。強く強く、衣越しに腕の感触が伝わってくる。そして震えも。
「よかった……良かったぁあああああ!!」
わぁわぁ、と子どものように泣き始めるものだから、いともつられて目頭が熱くなった。二人でしばらく子どものように泣きながら泣きじゃくっていた。
「女御様がご無事なのはもちろんだけど、でもね。柳が目覚めてくれて、本当に良かった」
「うん……うん!」
あの時、自分は死を覚悟した。人のみで、人ならざる者に対峙したのだから。厳彦が相手の気をそらしてくれたから勝っただけで、もし彼が現れなかったら、きっと最悪な状況になっていただろう。
そう、これでいいんだ。
「あれ……あれ????」
安心したからか、普段なら泣き止むはずの涙が止まらない。目を開けたまま、雨どいに流れる雨のように流れて、頬を伝い、首筋を通っていく。
「これで、いいはず……なんだけどな」
ごしごしと目をぬぐってみるが、どうしてもやみそうにない。原因が全く分からない。
(女御様はもう大丈夫。家のことは何とかなるだろう……あ)
ふと脳裏によぎった光景がいとの手を止めた。そんなに昔のことじゃない。意識が途切れる瞬間に見えた厳彦の表情だった。おぼろげだった輪郭も、今ははっきりしてきた。時間が経つにつれ、鮮やかになっていく記憶というのは、なんとも不思議な感覚だ。
何か言いたげに、こちらに手を伸ばしていた。こちらは、全てを終わらせようとしていたのに、なぜ手を伸ばしてきたのだろう。彼にとって大事なのは、傍らの本物の姫君だ。身代わりの私じゃない。
なのに、どうして彼はあの時手を伸ばしてきたのだろう。助けようとしてくれたのだろうか、助けたところでどうにもならないのに。
なんどもあった。彼は、自分を身代わりとしてじゃなく”柳”としてみてくれた。関わりがないと、山寺に押し込んだことも、彼なりの優しさだ。顔を見たときも、怒ってはいたものの、深く問い詰めることはなかった。
その時の自分の表情を見て、ばつの悪そうな顔をしていた。その時、目の前の青年が自分以上に傷ついていることに気が付いたのだ。
「あぁ……そうか、そうだったんだ……」
「柳?」
「だめだなぁ、私は。御坊から、あれだけ注意されてたっていうのに」
——— 目で見て。聞いては触れて、歩くように知りなさい。
知ろうとする前に、こういうものだと割り切ってしまった。彼の心に住んでいるのか、誰か気づいてしまったから。その心に触れるのが怖くなってしまった。その深い緑の瞳も、やけどのわけも。
「私はただ、謝りたかっただけなんだなぁって」
「脈絡がないわね。謝りたいなら、さっさと謝りに行きなさいよ」
「そうだね、うん」
「しおらしくなると、調子が狂うからさっさと元に戻りなさいよ。それに、明日から私たち、取り調べを受けるんだから」
「私はともかく、なんで綾衣も?」
そういい返すと、無言で頬をつねられた。ぱっと、手が離れるといとは底を押さえて口を尖らせた。
「いひゃい」
「あんたの暴れ馬に乗って、宮中を走らされた身になりなさいよ」
「時間稼ぎを買って出るとは思わなかったけれど、ありがとう」
暴れ馬、という所だけは訂正したかったけれど、本題からそれるのでいとは黙った。賢いから、どう動けばいいのか分かっているのだ。事実、夕星はかなりの値がついたことのある馬だ。
いとが”好きに走り回っていい。邪魔なものがあったら飛び越えていい”と言う指示にまじめに応えてくれた結果なのに、あまり褒めてあげられないのは残念だ。
「あの暴れ馬は、あんたの父親が連れてったわよ」
「お父様、どうなさるおつもりかしら」
「自宅に持ち帰るんですって。念のために祈祷をうけさせるって言ってたわ」
「それならよかったわ」
父も夕星のことを気に入っていたから、すぐにどうこうすることはないだろう。そこはほっとした。
「どうするも何も、こんな事件を起こしたのだからまずもってしばらくは宮中には上がれないでしょうね」
「それがいい。お父様に都の空気は合わなかったもの」
「あら、辛辣ね」
「お父様は悪いことができないの。でも、ここだと多少なりとも悪いことをしないといけないのでしょう。多少の悪いことは、大きな悪いことに飲み込まれるものだ、って御坊がおっしゃっていたわ」
「どうりだわね、その御坊」
御坊から教わったことは、不思議と心の中に残っている。もしかしたら、御坊もかつて都にいたのではないだろうか。今となっては確かめる術などないけれど、いつかまたどこかで会える気がしてならない。
だけれど、今会いたいのは別の人だ。彼にあって、一言でいいから謝りたかった。あれほど来るなと言われていたのに、約束を破ったのはこちらだ。自分はもう、ここまでだけれど、まだできることがあると信じている。
「私は女御様に命じられているの」
いとは胸に手を当てて、静かに言った。
「綾衣だけは無事に返すって」
その言葉に息をのんだ綾衣は、すぐにあなたもよ、と言い返した。
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