第28話 ほんとうのねがいは

 がくり、と視線の先で倒れこむ女御様と一緒に、いとは痛みから解放された。頭を殴られた衝撃はまだ鈍く残っているけれど、動けないほどではない。


「厳彦、大丈夫!!?」

 鈍い音を立てて落下した厳彦に近づくと、いとは頬に手を当てる。かすかに息はある。まずは止血をしないと。そう思い、腹を見ると思ったよりも傷は浅かった。

 呪いの傷は見た目以上に重篤になると、厳彦の師匠である翁が言っていた。何か手立てはあるか尋ねてみたが、その程度の呪いでくたばるような鍛え方はしていない、と強い語気で断られた。


(鎧でかすっただけみたいでよかった)


 腰に巻いた布を手ごろな大きさに引き裂いて強く縛り上げる。女御様の方からは何も感じない。ざぁざぁと揺れる桜の木から、とめどなく花弁が落ちていく。

 厳彦の頭を膝に乗せ、いとは顔を近づけた。仮面を取ってしまわないように、慎重に。鼻と鼻がくっつきそうになるほど近くに。今だけは、そばにいられるのだから。


「起きなさいよ。ここで起きなかったら祟るわよ」

「……どこまでも、勝手な女だ」

 ひたり、と厳彦の手がいとの頬に触れた。その感触で、いつの間にか泣いていることが分かった。


「み、ないでよ」

 強がるように言って見せたけれど、だめだった。いくつもの涙が厳彦の手を伝って流れていく。

「女御様は?」

「大丈夫よ。御坊の術が効いているから、じきに目を覚まされるわ」

「……そうか」

 深い息をついて、厳彦が目を閉じる。その顔はつきものが落ちたかのように、穏やかだった。体にまとっている雰囲気も、初めて会った時とは全く違っている。深い息を何度か繰り返した後、吐息交じりに厳彦がしゃべりだした。


「悪かったな」

「何よ」

「お前を巻き込んだことだ。なぜ、師匠の元にいなかった?」

「……言わない」

 それを言ってはいけない気がして、いとは口を閉ざした。女御である初子の呪いを解除できた以上、いとはここにいる必要がない。


(いったところで、変わるわけないじゃない)

 きゅぅ、と腹の底から湧き上がってくる感情を抑え込もうとして、いとは目を閉じた。見えないものを見ないふりなんて、できっこないのに。


「泣くな。お前は本当に感情がころころ変わるな」

「何よ、ばかにしてるの?」

 涙声になっていることを隠しもせず、いとは厳彦をにらみつけた。鼻もなんだかむず痒いけれど、ここで虚勢を張らずにいつ虚勢を張る。

 いとの膝枕から起きだした厳彦は、目を伏せた。


「いや、この世界にいると人の感情というのを疑ってしまうものだ」

 何事にも裏がある世界だ。そうだ、いとの父も絶賛巻き込まれている最中ではなかったか。あの怨霊と化してしまった皇女の思いも、もとは純粋な願いだった末に、形を変えてしまったのだと思うと心が痛くなる。


「お前の感情には裏がない。だから、いつの間にか心が休まる気がしたんだ」

「そう? 散々田舎者だとか礼儀知らずだなんて言われた気がしたけれど」

 心休まる、と言われた時に揺らいだ心を隠すように、いとはわざと軽口をたたいた。御坊からそういう所を直しなさい、と言われた覚えがあったけれど、素直に受け取るのが怖かった。


 ちらっと、見ると厳彦は不可解そうな視線を向けてきた。


「俺はそんなことを言ったか?」

「言ったわよ、この―――!」

 言いかけた言葉は相手を見失った。急に厳彦の姿が消えたからだ。どうしたのだろうと思った次の瞬間で、全てを察した。


「女御様!!」

「!?」

 慌てて後ろを振り向くと、頭を押さえている初子とそれを支えている厳彦が目についた。

 ぱき、と心が音を立てた気がした。けれども、桜吹雪の舞い散る中佇む二人から目を背けられずにいた。それこそ、絵巻物のようで……。


「お目覚めになられましたか! どこかお加減が悪いところはございませんか!」

 声を荒げる厳彦はどこか子どものようだった。


「…………ここ、は?」

 うつらうつらと初子の表情はまだおぼろげだったけれど、怨霊に取りつかれていた時よりかは頬に赤みが戻っていた。

「明陽殿です、女御様」

 夢とうつつの間をさまよっていた女御を驚かせてしまわないように、厳彦は声を潜めていった。


「お身体が思わしくないと聞き、見舞いに参りました。急にお倒れになり、心配しました」

「そう、なのね。入内してからというもの、なかなか寝付けない日が続いていて、わたくしは……。帝には申し訳のたたないことになってしまったようですね」

「いいえ、いいえ! 女御様は何も悪くありません!」

「それでも、物の怪に取りつかれたことは事実、なのでしょう?」

「ですが―――!」

 慌てて言いかけた厳彦を見て、女御は静かに首を振った。


「心配してくださり、ありがとうございます。

「っ………。もったいないお言葉でございます」

 厳彦の表情はこちらからは見えない。けれども、素早く女御のそばから離れると、平伏した。

「女御様。この度は入内を心からお喜び申し上げます」


 その言葉の色をいとは生涯忘れることはないだろうと思った。いとがどう切り出そうか迷っていると、女御がいとの存在に気づいた。申し訳なさそうに眉尻を下げて頭を下げた。


「あなたのことは夢の中で見ていたの。左衛門の中姫、よね?」

「は、はい! 柳と申します!」

 初めて会った時の弱々しさから来るとげはなく、やわらかく微笑む天女のようなかんばせにいとは思わず面はゆい思いがした。


「こんなところで話すのもなんですし、中に上がりましょう。わたくし、あなたの故郷での話を楽しみにしていたのよ」

「は、はい」

 そういって立ち上がろうとした、刹那、いとは身をひるがえした。殺意を感じたからだ。視線を上げると、武装した役人が6人見えた。そのいでたちは物々しく、真ん中に立つ初老の男が、いとを見降ろして吐き捨てるように言った。


「女御様を騙った罪人として、お前を牢に送る。異存はないな」

「……ええ」

 ついにきたのか、といとは両手首を男たちの前に差し出そうとした。覚悟はしていたが、物々しいいでたちの男たちに囲まれては、何もできない。 


「お待ちなさい、この者は訳があってわたくしのふりをしたのでしょう」

「いかに女御様といえど、この件は手出しご無用。先ほど、女御様の乳兄弟も牢につないだとの報告がありました」

「!!」

 振り返った先の初子の表情が凍り付いていた。ほぼ初対面のいとよりも、乳兄弟のきずなの方が深いに決まっている。だったら、いとがかけるべき言葉は一つ。


「大丈夫です、女御様。


 にこ、といとは笑って見せた。そうだ、自分の芝居に巻き込まれただけだと証言すればいい。使い捨ての駒にされるのは、いつだって下のものだ。

 

 荒縄で手首を縛られている最中、いとは心の中で先ほどの厳彦の言葉を思い返していた。自分と彼が似た状況だとして、同じように祝福の言葉を言えただろうか。

(考えちゃだめ。まずは綾衣を出してもらえるように交渉しないと)

 すべての点と線が交わった今、真実を告げるのは簡単だ。だったら、もう怖いものなど何もない。


「歩け」

「……はい」

 砂利を踏みしめ、歩き出す。


 ……でも、一つだけ。一つだけ、足搔けるのなら。


「厳彦!」

 連れていかれる中、いとは力任せに振り向いた。そして、腹の底から声を張り上げる。両手を縛られた痛みをこらえて、いとは無理に口角を上げた。

「夕星をあんたにあげる! 大事な馬なんだから大切にしなさいよっ!」

「罪人が口を開くなっ!」

 どん、と強い衝撃がいとの頭をかすり、そしてついにいとはぐったりと目を閉じた。


 そして、ほどなくしていとは宮中のはずれにある牢獄へと収監されたという報告が広がった。

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