第23話 朱塗りの小箱

「やはり、行くのだな」

 厳彦が寺を出て少しした後、いとは翁にあるものを用意してほしいと頼んだ。それは、水干と男物の衣だった。髪をすいて結いなおし、夕星にまたがった。一見すると着崩した侍の子に見えるだろう。

「ええ。このままだと癪ですもの」

「勝ち筋はあるのか?」

「あるから行くのではありませんか」

 にやりと笑った顔には、先ほどまでの悲壮感はなかった。


 時は少し巻き戻る。

 湯殿から出てくると、翁はいとを呼び止めた。通された部屋は、先ほどいとが寝ていた部屋よりも狭く、たくさんの書物が積まれていた。

「ここが厳彦にあてがった部屋でな。あやつは天狗の術を覚えるとすぐに山を下りよったのだ」

「はぁ……」

「しかし、のぉ。せっかく拾ってやった命を無駄にするような真似をする。あやつの願いはそうではなかったはずなのに」

「願い?」

「あやつはただ”生きたい”と言ったのだ。燃え盛る館から、父を捨て、母を捨て、きょうだいを捨て、ただただ”生きたい”とわしに言ったのだ」

「…………」 

 あのひどいやけどは幼いころに付いたものなのか、といとは思った。それにしても、おびただしい本の量だ。学者の家かと思ってしまうぐらいだ。

「この本もやつが持ってきてそのままで、そのうち燃やしてやろうかと持っておる」

 邪魔だし、という翁をいとは必死に止めた。

「それは、どうかと思いますよ。ご老公」


 本は貴重なものだ。入手した経路は知らないが、正当な方法で手に入れようと思ったら、それなりの金子か人脈が必要になる。

「机のすぐそばのそれがやつの覚書でな。何が書いているかは、知らんが。まぁ、関わりのない者が見たところでどうということもないだろう」

「……ご老公、私はここにいてもよいのですか?」


「それを決めるのはお前自身じゃ。お前が居たいと言えばいつまでもいればよし、早く出たいと思えば、今すぐにでも出ていけばよい」

「……そうですよね」


「元来、人とはそういうものであろう。魚は水の中でしか、虫は草の中、モグラは土の中でしか生きられぬ。天狗もそう、山の中でしか生きられぬ」

 ぽてぽてと翁は廊下を進んでいく。少し進んで、翁は振り返った。

「じゃが、人はそうではないだろう。行きたいところは、自分で決められる、それが人というものじゃ」


「では、どこにも行けない人は?」

「そんなもの、天狗に訊くことではあるまいよ」

 そういうと、翁は廊下を曲がり見えなくなってしまった。

 天狗と翁は言うが、いとの目には普通の翁に見える。この山が普通でないことはだんだんわかってきた。深い土の匂いがする所は変わらないが、普通の山ならあるはずの”霧”が見えなかった。


「この本、見てもいい、のよね?」

 文字の読み書きは紀伊でたくさんやってきた。本来、女は仮名文字さえ理解できれば良いとされていたけれど、いとは本が読みたくなってこっそりと勉強していた。

 本が読めれば深く考えることができる。深く考えることができれば、より多くの人達のことがわかる。人々のことがわかれば、父の助けができる。


「ごめんなさい、失礼します」

 目につく本を片っ端から広げてみる。漢籍や仏典があるのに驚いたが、一般教養だと思えばそう珍しい物ではない。

「確か、朱塗りの小箱っておっしゃってたわね」


 翁にそれとなく尋ねてみたが、首を横に振るばかりだった。心当たりはありませんか、と尋ねると厳彦の部屋に通してくれた。立ち上る埃や、湿気たにおいでここがどれほどの間放置されたか分かる。

 それほど長い間、人間の……女御様のそばにいたということなのか。

「と、朱塗りの小箱……小箱……」


 勝手に家探しをしている、という引け目はあるが、御坊が夢に出てきてまで言いに来たのだ。何かあるに違いない。本をどかし、甕を覗き込み、硯箱を開けてみるが、一向に気配すらない。

 戸を開き光を取り入れようとしたところで、ふと部屋の隅が気になった。山になった本をかき分けていくと、奥の方で隠れるように埋まっている赤い物が見えた。

「これかな? うわぁああああ!??」

 赤い物を手に取った途端、どさどさと本が積み重なってきた。均衡を失った本が雪崩のように押し寄せた。

「いたたぁ……」

 本の山に押し上げられたいとは頭をさすった。幸いたんこぶは出来てはいないようだ。手の中を覗き込むと、朱塗りの小箱があった。

「御坊がおっしゃっていたのは、これかな……」

 本の山から滑り降りた。いとは小箱を結っていた紐をほどき、開けてみる。

「やっぱりそうだ。この杭で、刺しに行けってことか……」

 杭というより、釘のようになっている。箱の裏を除いてみても何も書いていない。もう少し何かあってもよかったのでは、といとが考えていると、頭上から何かが落ちてきた。


「あいたっ!?」

 先ほどよりも鋭く、重たい一撃だ。本が落ちてきたのだろう、と思いいとは落ちたものを見てみる。本ではなく、一つの巻物だった。新品ではなく、とても古い。しかも泥がついていた跡がある。土に埋められていたものを掘り起こしでもしない限り、こんな汚れが付くわけがない。

「どうして、こんなところに巻物が???」


 いとはついつい気になってその巻物を開いてみることにした。巻物と言っても何帖もあるようなものではなく、手紙を張り付ける程度の厚さしかなかった。

「これ……」

 手にした途端、分かった。巻物を広げ、中に書いてあるものを読み進めると、それは確信へと変わった。流麗な筆跡は書き手の知性や、人柄がよく表れている。

「だから、関係ないって言ったのね」

 この手紙を書いた人が呪いの大本だ。これを見つけたらから、もう大丈夫だと言っているのだろう。


「これを見て、ああはいそうですかっていうわけないじゃない」

 くしゃりと巻物を閉じていとは深く気をついた。これは女御様本人についていた呪いだろう。けれど、新しく自分にかけられた呪いはこれとは別だ。

 厳彦は女御様の呪いを解除した後に、ゆっくり自分にかけられた呪いを解除しようと考えているのだろう。


「でも、そうしたら……私は」

「柳殿」

「ご老公……?」

 いつの間にか戻って来ていた翁にいとは深々と頭を下げた。

「用意していただきたい物があります」

「出て行って、どうなさる? あなた様はもう関わりのないことではないですか」

「ここは私のいるべきところではないからです。一宿一飯の恩義、忘れません。ですが、私のいるべきところは……」


「みなまで言わずともよろしい、どうせその小箱を押し付けた者が言っているのでしょう」

 こくりといとがうなずくと、翁はふぅとため息をついた。自分が言ったことに後悔をしているのかと思えば、にやりと笑った。いとはごくりとつばを飲み込み、抱え込んだ小箱を握りしめた。

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