第24話 空蝉は馬と駆ける

「さぁさぁ、みなさま! この柳と早駆勝負と参りましょう!」

 夕星にまたがる娘は頭からすっぽりと鮮やかな緋色の衣をかぶっている。すでに多くの侍が娘を追っているというのに、またがる馬は疲れすら見せなかった。


 娘は手綱こそ握ってはいるものの、操ることは諦め、馬のしたいように走らせている。振り落とされないことの方が不思議なほどだった。馬が嘶くと、その場にいた人々が一斉に振り返る。


 あの馬だ、と誰かが言う。宴で暴れ、あわや射殺されかけた馬だ、と。弓矢に気づくと、そのまま宴の会場を荒らすだけ荒らして走り去っていった狂馬だ。


 御所の中を駆け巡り、馬は日をうけて輝いている。


 娘は自身を柳と名乗った。顔は見えないが、年若い女の声、そして名乗った名前は罪人の名前だ。馬を止めようと役人たちはいっせいに弓を構えるが、その気配を察した馬は急旋回を繰り返す。


 まるで人の思考を読んでいるかのように、風のように、嵐のように駆け回る。


「なぜ当たらない!」

「門に通すな! 回り込んで囲むぞ!」

「くそっ! どこにへ逃げ込んだ!」

「明陽殿から出てきたんだ! 罪人で間違いない!」

「逃がすな! いずれ馬の体力が尽きる、捕らえるぞ!」

 暴れ馬をとらえきれない人々は悪態をつくしかできない。


(人が増えてきたら……このまま左京へ抜けて……)

 娘は馬から振り落とされないことだけを頭に浮かべ、走り回る。自分を追ってくる馬が一頭、また一頭と増えていくたびに背中が凍っていく。けれど、自分の乗っている馬の熱はまだ高い。


「そうよね、夕星。あんた、すごい名馬ね」

 10頭もの馬が追いかけてきているというのに、ひらりひらりとかわしていく。まるで、遊んでいるかのようだ。目の前の風景が、どんどんと変わっていく。


 同じ場所を気づかれないように周回していく。道をずらし、入り込む路地を変え、大回りで駆け巡る。追わなければならないと必死になっている人ほど、そのことを忘れている。


 人の多いところを選んで通っているから、弓は使えまい。馬に指示をするときは言葉は必要なかった。指をささずとも、ほんの少しの気配の違いを察して馬がその通りに動いた。

(人馬一体、ってこういうことなのね)


「ここを抜けて、左京に!」

 娘が指さしたのは、門の一つだった。そして、それを言った瞬間に娘の表情が固まった。


 誰かがこちらに向けて弓をつがえている。馬と門の一直線上にその男は立っていた。先ほどまで誰も経っていなかったのに、突然現れた男は目深に外套をかぶり、こちらからは見えない。

 明らかな敵対行動だが、かまっている場合ではない。娘は声を張り上げた。

「つっきって!」

「……可哀そうに」


 ひゅん、と空を切る音がした。娘の頬に何かがかすった。じわりと遅れてきた痛みに、娘は思わず手綱を話してしまった。

「っ!!!」


 手綱という命綱を手放した娘はそのまま馬から転げ落ちた。転げ落ちた騎手に気づいた夕星が足を止めると、その場をうろうろし始めた。その様子がなんだかいたたまれなくなり、男―――厳彦は馬に近づいた。

「夕星、お前はつくづく主に恵まれないな」

 首のあたりを触ろうとすると、頭をこちらの頭に乗せてきた。かなり長いこと走ってきたのだろう、毛に熱がこもり、汗で湿っていた。


「おい、訳の分からんところが主に似ているな」

 馬の額をなでてやると、馬は満足そうに尾を揺らした。そして、厳彦は地面に倒れている娘に目をやった。

「俺はあの時逃げろと言ったな。なぜ命を捨てるような真似をする」

 娘は地面に叩きつけられた衝撃でうまく動けないようだった。足先や指先が弱々しく動いているから、聞こえてはいるだろう。

「あのまま師匠の下にいれば、少なくとも死ぬことは無かったろうに。なぜ戻ってきた」


「……」

「お前の父のことで案ずることもあったろう。だが、お前ひとり戻ってきたところで何も変わりはしない」

「…………」

「女御様の呪いはもう解けている。いずれご容体もよくなるころだろう。お前はただただ命を無駄にしただけだ」

「あの……さ」

 先ほどまで地面に伏していた娘がゆっくりと立ち上がった。体を隠していた赤い衣を取り払った時、今度は厳彦が目を丸くする番だった。


「さっきから何をごちゃごちゃ言っているのよ。私の父はもうとっくの昔にいないわよ」

「貴様……! 女御様の乳兄弟の!!」

「そうよ、私は身代わりの身代わりよ。それに、女御様の呪いはあの子が解くの」

 衣の下から現れたのは綾衣だった。それを見た厳彦は、奥歯をかみしめた。



 ざぁざぁと桜が揺れている。その下にいるのは桜をまとった天女かに思えた。その顔には表情が消えていて、目の前の人物を見ているようで何も映していなかった。男の子のような恰好をしている人物は、天女とよく似ていた。

 ずいぶん久しぶりのような、そうでもないような気がしてきた。それでも、彼女がここに立っているということは、自分の正体に気づいたということだ。


「……いつから、気づいていたのかしら?」

 その声すら、感情が抜け落ちていた。まるで、人形がしゃべっているかのような光景に、いとは息を吸った。

「…………お覚悟を、女御様」 

 ざぁざぁと桜が揺れている。

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