第2話 身代わりの姫君

「これが香炉。こっちが硯箱と筆、それに懐紙……」


 もともと荷物は少ないけれど、両親があれもこれもと持たせてくれた。父があちこちを回って集めてきた衣装はどれも見たこともない鮮やかなものばかりだった。かなりの額を使ったのだろう。


「こんなに衣要らないのに……。それに、次の除目でまた別の国に飛ばされるかもしれないのに……」

 宮中で働くのだから、と見栄を張りたいのだろう。見栄で腹は膨れないのに。

(私は……。本当に宮中に入っていいのかな)


 おおよそ普通の姫君のような育ちはしていない。ふと、荷造りをしている手を止めて手を見た。

 薬を塗ってだいぶましにはなったけれど、それでもあかぎれや切り傷が目立っている。日焼けだってしている。姫君というものは、白い細枝のような指をしているはず。


「いいや。あれこれ考えたってしょうがない」

 ぱちん、とほおを軽くたたいて気合を入れなおす。何も妖怪変化がいるところではないし、行ってすぐどうこうなることはないだろう。


「では行ってきます」

 そう頭を下げ、いとは牛車に乗り込んだ。娘が牛車に乗り込むのを見送った父親はふと傍らの妻の顔を見た。檜扇で口元を覆っているからかこちらから表情はうかがえない。


「なぜ……あの子なのでしょう……」

 なぜ、どうして。そう繰り返す妻の肩が少し震えていた。それを支えながら、去り行く牛車を見送った。

「どうか、無事に戻ってくるんだよ……いと」


 ガタガタと揺れる牛車にいとは足がもぞもぞしていくのを感じた。何せ、揺れるわ跳ねるわ、遅いわで不満ばかりが積み重なっていく。けれど、ここで牛車を降りて走って行ったって、宮中には入れない。

 まして、”普通の”姫君が外に出るなんてありえないことだからだ。

なか姫様、もう少しの辛抱ですからね。もう少し行けば着きますよ」

「っ!? なんで分かった……のです?」


 牛車をひく御者に声を掛けられどきりとした。慌てていると、はははっと威勢のいい笑い声が響いてきた。40を過ぎた水干袴姿の男は顎髭をさすりながら言う。

「あたしらは姫様がお生まれになる前から、殿に仕えているのですよ。姫様がこんなせまっ苦しい箱の中でおとなしくしているなんて驚きですよ」

「そう、ですね……。でも、宮中なのだから広いのでしょう? 庭くらい……」

「お屋敷の中ですら庭に降りれないのに?」

「……」


「はははっ! 姫様は分かりやすい」

「遠乗りできるかと思ったのに。白河の方や祇園の方も気になってたのに」

「はは、それは仕方ありませんて。まぁ、中姫様の馬はあたしらが責任を持ってみておきますので、安心を」

「そうね。あの子だって、せっかくの都だから走り回りたいだろうし」


 そうだった。都についたというが、事実街並みを見た記憶はほとんどない。風のにおい、花のにおい、水のにおいで何となくここが紀伊ではないことは分かるけれど、それ以外のことは全く分からない。

(ここが本当に都なんだろうか)

 幼いころの記憶はとうの昔に消えているから、いとの記憶の中は全部が紀伊の山々だった。


「話し相手って言われたけれど、何を話したらいいのかな?」

「そりゃあもう。姫様が悪童たちを懲らしめ―――」


 言いかけて御者は口を閉ざした。いとが言葉を待っていると、ぎぎぃと門が開く音がした。そして、ゆっくりと牛車が進み、前のすだれが開かれた。

「つきましたよ。ここから先は姫様しか入れません」

「ありがとう」


 いとが牛車を降りるとき、ふと何かが鼻をくすぐった。季節外れの柔らかな匂いだと思った。その匂いの元をたどろうと首を上げると、視線の先にあったのは大きな桜の木だった。

「なんで……まだ、咲いているの?」

 桜を植え、愛でるのがこの国の高貴な人々の趣味とはいえもう桜は散っているはずだ。それなのに、目の前にあるすだれ桜は花盛りと言わんばかりだ。風に乗って揺らめき、まるで天女の羽衣のよう。色づいた花弁はしっかりと額についているからか、全然散ることはなかった。


「でも……きれい……」

 ふら、ふら、と重い衣を引きずりながらいとは桜に近づいた。手招きをしているようだったから。

 一歩。

「あなたが、左衛門殿のおお姫ね」

「誰?」


 桜の向こう側にある屋敷から、鈴を転がすような声が聞こえてきた。ともすればすぐにでも消えそうな透明な声だ。

「こちらにいらっしゃいな。今日はあなたにたくさん話をしてもらいたいのだから」

 そうだった、といとははじかれたように声の主の方を見た。といっても、御簾が下げられているのでここからは姿は見えない。けれど、気配で数名の女性が屋敷の中にいることだけは分かった。


「あなたが……明陽みょうよう殿の女御様です、か?」

「ええ。殿と伺っています。よろしくお願いしますね」

 女御様らしき人は大姫、というがちょっと違う。でも、相手は女御様だ。否定したら怒られそうだ。いとは袖の中で腕を組んでうつむいた。


「あ……えっと……どうしよう」

「どうしたの? こちらにいらっしゃいな」

 庭先から階段を上がり、廊下にやってきて腰を下ろす。

「あの、女御様。無礼を承知で申し上げます」

「あら?」


「私、確かに左衛門武藤家の娘ではありますが……その。大姫ではないのです。中姫です」

「でも、左衛門殿は大姫と……。あぁ、そういうことだったの……。謝るのはこちらの方だわ。つらいことでしょうに……」


 思いっきり落ち込んでいる声が聞こえてきたので、いとは逆に落ち着いた声で言い放った。こんな反応を返されるのは一度や二度じゃなかったから。


「いいえ、女御様。自分が生まれる前のことですので、特に思うことはありません。こちらこそ、案じてくださりありがとうございます」

 大姫というのはいとが産まれる一年前に赤子のまま天に還った姫のことだ。だから一般的に大姫はいとのことだけれど、家の中ではいとは大姫ちょうじょではなく二番目の姫、中姫と呼ばれていた。


「御簾ごしでは話しづらいでしょう、入ってきなさい」

「はい、失礼します」


 そういったものの、いとは緊張で体が凍りそうだった。何せ、周りに漂う香りは嗅いだこともないほど濃かったからだ。

 それに加え、廊下の柱に施された彫刻の精密さで、ここが天上の人々の場所だということを思い知った。


 御簾を上げ、中に入ると緊張がのどまで来た。日の光が入っているとはいえ、薄暗い中にわずかな女房を周りに座らせた姫君が一人いたからだ。

 そして、その顔を見た。きめ細かい肌に、少し癖のついた髪。短めの眉に、少し下がった目じり。どこかで見たことある顔だ。いや、分からないといけなかった。


「……私?」

「やはり、母親が姉妹だと似ることもあるのね」

 すとん、と足が自然と曲がりいとはその場に座り込んだ。瓜二つ、とは言わないが自分とよく似た顔が目の前にあった。

「女御様、この者でよろしいでしょうか?」


「ええ。少し気になる所はあるけれど、背格好もほとんど同じなら大丈夫でしょう」

 すぅ、と鷺の絵が描かれた檜扇を広げて女御はうなずいた。自分によく似た顔、でもまとう空気は全く違う。

「あなた、私の影になりなさい」

「はい?」

「ありていに言えば、私の身代わりになりなさい、ということよ」

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