第4話 夜桜の出会い(前編)

 ——— 大変なことになってしまった。


 女房として働くことは構わない。柳という名前も風情は無いにしても、しっくり来た。けれど、一番は”ありもしない呪いの正体を見極めて証明しろ”ということだ。

「どうしよう……」


 いとはあてがわれた部屋の隅で荷物を広げながらぐるぐると思考を巡らせた。暗い室内だと物がよく見えないので、明るい南向きの場所をあてがってもらった。

 はじめは広さに落ち着かなかったが、几帳をいくつか立て細かく区切ると一息つけるようになった。

 ただ、細かく区切りすぎて、綾衣には迷路のようだと文句を言われた。


「そんなものありません、って言えたら一番楽なんだけど」

 相手は呪いがかけられていると信じて疑わない。無い物もそこにあると言えばある、というのが人の常だ。幽霊がいると思ったら、柳が揺れているだけだった、という話はよくあることだ。


 考えても、うまい言い訳が思いつくわけがない。親に手紙を書こうと思ったけれど、正直に書くと後々困ったことになる。父が呪いの件を知っているかどうかも怪しい。父の性分だ、口八丁で丸め込まれたに違いない。


「そういえば、女御様変なことおっしゃっていたな。母親が姉妹同士って」

 そんなこと聞いた事がない。母が都で生まれ育ったのは間違いないが、左大臣様に近しい家柄だと聞いた事はなかった。

「そこらへんもよくわからなくなってきたな……」


 当面この場所でご厄介になるのだ。下手なことはできないし、女御様は”いとの家族の安否と将来の安定”と言う最強の手札を握っている。いとにできることといえば、現状女御様の誤解を解くことしかないのだ。


(ここは、なんだか寒い……)

 薄暗い中で、いとは重ねた衣の上から腕をさすった。家から来て着た衣は女御の物と取り換えられた。衣を変えただけで、いとの見た目はずいぶん変わった。黙ってそこに座っていれば、都育ちの姫君に見えるだろう。


 妹たちには悪いが、ここには多くの”霧”が見えて、なんだか居心地が悪いのだ。まるでずっと晴れない曇り空のように。人だけじゃなく、ものにも”霧”がまとわりついていることがあった。人にそれが見えないと考えただけで少し憂鬱な気分になるくらいだ。


「とにかく、今度の宴に備えなきゃ……」

 いとは数刻前、女御の乳母に言われたことを思い返していた。


「いいですか、柳。あなたには来月にある端午たんご節会せちえに出席してもらいます。もちろん、女御様として、です」

「端午の節会、ですか。武芸を帝がご覧になるという、宴ですね」


 そうです、と乳母がうなずいた。この程度は分かっているのですね、と言いたげだった。残念ながら年間行事については、うるさい人が身内に一人いるので知っている。ここは都ではないのだから、合わせる必要はないのにと心の中では思っていたが、今になってありがたさを感じた。


「武芸者たちが一堂に会す場です。何があってもおかしくはありません」

 それは、最早呪いではなく堂々とした暗殺ではないだろうか、といとは思ったが黙っていた。まだ知らなくてはいけないことが多くある。

「あの、乳母様」

「なんです?」

「女御様が呪われたと思うようになった経緯いきさつはどのようなものでしょうか?」


「経緯ですか……。話せば長くなりますが」

「命にかかわることですので。それはひいては女御様のお命を守ることにもつながります」

 卑怯な、って書いてある顔だ。けれども、それに関してはお互いさまではないかなぁ、といとは思った。そちら側だって、いとの家族を交渉の材料にしている。


「いいでしょう。姫様は、左大臣家の大姫ではありますが、女御様の中では一番立場が弱いのです」

 そういうものだろうな、という予感が当たった。女御様に呪いをかけるとしたら、家同士のいがみ合いが真っ先に頭によぎる。昔御坊がいとに教えてくれた話はたいていそういうものだった。


 その時は幼心ながら”なんて暇な人たちだろう”と思った。その顔を見た御坊は深い溜息をついて、いとの頭を撫でたものだ。そういう言い方はやめなさい、とたしなめた。

 その時の御坊の眼の色は深く、底が見えなかった。


 ——— 目で見て。聞いては触れて、歩くように知りなさい。


「もとはと言えば、右大臣殿が姫様の輿入れを邪魔したからですわ。相手側は何としても自分のところの中の姫を先に入内させたかったのですから」


 口をはさんできたのは綾衣だった。はじめこそ、女御の服をまとったいとを見てきぃきぃ文句を言っていたのだが、母に諭されたか黙っている。

「陰陽師たちと手を組んで、姫様に方違かたたがえをするように要請したのもきっと―――」


「推測でものをいうのはやめなさい、いつも言っているでしょう」

「でも、牛車が出る前日に言うのは不自然でしょう!」

「綾衣……さん、それは本当ですか?」

「そうよ。その後も、なんだかんだと理由をつけて結局半年も待ちましたからね。その後もあちこちで不可解なことが起きているのよ」


 乳母が止めるのも聞かずに綾衣は自分で見聞きしたことをいとに語って聞かせた。言葉や態度がとげとげしいのは、洞察力が高い裏返しだったようだ。


 一つ、物がよく無くなること。

 二つ、乗ろうとする牛車の牛や御者が体調不良になることが多いこと。

 三つ、女御様の入内を快く思わない勢力があること。

 四つ、入内後すぐの宴で女御様が倒れ、今も完全に回復していないこと。


 ほかにもいろいろあったけれど、大まかにはこのようなものだった。特に後ろふたつのことについては聞きたいことが多かったけれど、綾衣に”身代わり風情に語ることはない”とバッサリ断られてしまった。


 そこが一番聞きたいことだったのだけれど、と言いたいが、立場としては向こうが上。曲がりなりにも姫ではあるけれど、女御の乳兄弟で長年仕えている相手の方が強い。……そういう勝負ものじゃないけれど。


「……眠れない」

 紀伊の山中で夜を明かしたこともあったので、どこでも眠れると豪語していた自分が恥ずかしくなってきた。ここ数日、思うように眠れていない。まだ体の自由はきくが、これ以上眠れなかったら弊害が出てくるかもしれない。


 白湯を含んだり、香の調合を変えたり、枕を家から持ってきたものに変えてみたが、効果が出ない。


「仕方ない……。もう、みんな寝てるし、ちょっとだけ出てもいいでしょ」

 身軽さには定評がある。それに、寝間着であればたくさん着こまなくてもいい。汗衫かざみ一枚でも怒られはしないだろう。


 いとは布団から体を起こすと、そろそろと廊下に首を出した。右を見て、左を見て、耳を澄ませる。野生で育てた耳は周囲に誰もいないことを教えてくれた。膝立ちから立ち上がり、御簾を少しだけ持ち上げる。飛び込んできた光に、いとは眠れなかった理由に気づいた。


「何だ、満月だからか」

 月の光に照らされ、廊下が白く光っている。ぬきあし、さしあしとゆっくりと歩いていく。子どものころ、夜中に抜け出して台所で菓子を食べた時を思い出した。


 菓子と言っても、余った米を潰してあぶったものだったり、栗や棗の残りだったりするのだけれど。それでも、何もない田舎の台所であっても、楽しかった。

 ここは、何でも食べられる。だから、少しつまらない。


 ずっと部屋にこもっていたので、じとりとした空気でも外の物ならさわやかに感じられた。ほぅほぅ、と鳥の声が聞こえてくる。もし、秋なら鈴虫の声が聞こえてくるだろう。


「これは、歩かないと駄目かな」

 眠れないときは無理に寝ようとせず、軽く体を動かした方がいい。それに、ずっと座っていて万が一見つかったら面倒だ。いとはするすると廊下を進んでいく。目指すところは特に考えていなかったけれど、見たい場所が一つだけあった。


「まだ散らないのか……。都の桜は頑丈なんだなぁ」

 ここに来るときに見かけた巨大な枝垂桜。昼間見かけた時とは全く違った風景がそこにあった。月明かりに浮かび上がる色は昼間より色づいているように見えた。耳をすませば、枝をこすり合わせる音がはっきりと聞こえてきた。土のにおいも、昼間よりもずっと濃い。


「本当、きれいだな……」

 そう呟いて、一歩近づいた。桜の枝に手を伸ばそうとした途端、その手に強い力がかかった。誰かにつかまれ、強引に地面に叩きつけられる。先ほどまで見えていた桜色ではなく、黒い土と苔が見えた。

 何が起こった、と思う前に背後から声が聞こえてきた。

「伏せていろ」

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