第10話 無色の殺意

 ……あの侍は、敵側の人間に付き従っていた。


 どういうことだろうか、といとは一人頭を抱えた。並べた碁盤の根本が揺らぎかかっていた。中央に置いたが、ずらさなければいけない気がしてならない。

「重要なのはわかっているんだけれど、あっち側にいるってなると情報を取りに行くのが難しくなりそうよね」


 ……それにしたって、不可解である。


 なぜなら、あの時侍は明陽殿の敷地内に入っていた。何かを追っている様子ではあったものの、他家の女御の屋敷に簡単に侵入できるわけがない。

「結局この香り袋の意味も分かんないし……」

 いとは袖にしまっていた掌よりもなお小さい袋を取り出した。あの侍は香り袋だと言っていたが、嗅いでも何の匂いもしない。包まれている布は茜色の絹なので、とても高価なものではある。


 おそらく誰か名のある方の衣を仕立てたときのあまり布なのだろうが、侍が持っているにはちょっと色がかわいらしい。いとに剣術を叩きこんだ地侍の纏っていた布は紺や茶といった地味で汚れが目立たないものばかりだった。

(いや布なんて探せばどこにでもあるし……)

「何か石? みたいな感じよね……」


 触ってみると、小指の先ぐらいの石のような硬い感触が伝わってくる。四角い布のふちがすべて縫い合わされてあり、はさみを使わないと中身を出せそうにない。

 ……”眼”は何も映さない。だから、安心してこの香り袋を騙った何かを持っているのだが。

「そもそも、これはもしかしたら女御様に―――」

 そう言いかけた途端、どこかで綾衣の悲鳴が聞こえてきた。

「綾衣っ!?」

 声の方向からして、綾衣の女房部屋に違いない。肩に欠けていた袿をきちんとまとって、綾衣のいる方へと足早に向かった。普段のいとの格好であれば、もっと足を出して走れるのに、ほんの少しの距離でさえ身動きしづらかった。

「綾衣、どうしたの!?」

「あれ……あれ、なんなの……???」


 御簾を上げたすぐそばにいた綾衣はいとを見た途端、顔を引きつらせて袿をつかんできた。こわごわと指さすのは、綾衣の部屋にある屏風だった。彼女が好きだという梅の木が描かれた屏風で、初めて見た時その金額に驚いたものだ。

「屏風がどうしたの?」

 確かに、美しい画だが恐れるほどではない。

「ちが、違うの……その……あれ……」

 綾衣が指さすのは、屏風そのものよりもその下だ。そこに視線を合わせた途端、いとの肌が泡立つのを感じた。


「あれ……」

 を理解するのに、いとは数拍もかからなかった。綾衣にはどう見えているか分からないが、黒い”霧”が屏風の下からあふれてくる。まるで、泉のようにこんこんと湧きいでては床をはいつくばっている。広がらないところを見ると、呪いの発生源はとても小さいのだろう。


「鳴滝殿さまの贈り物を女御様に見せて、戻ってきたら……その……手が切れて……」

 はっとして周りを見ると、あの小箱が見当たらない。綾衣の右手を見てみると、人差し指の先が赤く濡れていた。

 血だ、血の匂いだ。都についてから離れていた匂いだ。

 どくん、どくん。


 鳴るたびに、どんどんと鼓動が早くなっていく。とっさに胸を押さえないと、心の臓が転げ落ちてしまいそうだ。目を閉じ、胸を強く押す。

(こういうことを想定して、動いてきたじゃないか)

 息を吸って、止める。もう一度吸って、止める。大丈夫だと心に言い聞かせ、目を開ける。


「……綾衣。血を止めて……念のため、清め塩を」

 鼓動に押されて何も考えられなくなる前に、いとは何とか言い切った。

「で、でも……」

「大丈夫、?」

 その言葉に、綾衣は青ざめた顔のままこくりとうなずいた。あの霧を綾衣が見えていないのが幸いだった。

 

「これをどうするか、だけれど」

 いとは”見える”だけだ。幸いあちらからは襲ってくるようなことはないが、騒ぎを起こすわけにはいかない。

「清めの塩を振りかけてどうにかなるわけじゃないよね」

 まさか、かたつむりや青菜でもあるまいし。塩をかけて退散、というのはあまりにあっけない。敵意を向けないから襲ってこないのだとしたら、様子見することしかできない。


 大丈夫、と何度繰り返しただろう。音が止まって聞こえた。風も凪いで行く。霧から目を離さず、いとは霧の向こうを見ようとした。もし、これがあやかしならその形がある。形がわかれば、どうすればいいか分かる。

「あなたは、誰?」

 距離を取り、問いかける。名乗れば、その霧は晴れるだろう。名乗りを上げるのは、この世界に己を固定するもやい綱だ。

「あなたは、誰?」

 繰り返し問いかけるも、霧は動こうとしない。こんなにも濃い霧なんだ。生霊と言っても差し支えないほど、その思いは強いはずだ。誰かの思いが呪いになるのなら、その主の形をとるはずなのに。


「あなたは———」

 とん、と一歩踏み出してしまった。”それ”はその行為を見逃さなかった。ばさりと、黒い布を広げるようにいとに覆いかぶさってきた。

 その先は刃のようにとがり、錐のようになっていく。錐の先が示したのはいとの額や胴、手足だった。

「っ!」

 いとはとっさに袿を投げ飛ばし、身軽になるになると横に跳びはねた。さすがは、女御の館だ。距離も十分に取れる。いとに目標を定めた黒い霧は堰を切ったように襲い掛かってくる。もし、いとが平凡な姫君なら、最初の一撃で終わっていた。

(見えるなら、躱せる!)

 鼓動がいとを鼓舞するようになっていく。それに、袿を捨てたからか身体がとても軽い。


「———は、はっ!」

 息を止めて跳んだから、頭がくらくらしてきた。でも、ここで終わるわけにはいかない。ここからだ、ここから勝負だ。

 いとは髪をそばにあった組みひもで無造作に束ねた。紀伊の館ではいつもやっていた髪型なので、懐かしさもあった。この時代、髪を束ねるとしても髪先でゆるくまとめることが多いので、いとのように髪の根元を束ねることは珍しい。


(結局、こうなっちゃうんだな)

 いいや、詫びは後でしよう。まずは、この悪意の元を絶たねば。

 

 とぉん、とん。 とぉん、とんとん。


 足をそろえて、跳ねる。片足で着地し、また跳ねる。弟や雑色の子どもたちとかけ鬼をして遊んでいくうちに身につけた所作だ。動きを止めるな。

 幸い、ここには盾にできそうな家具があちこちにある。いとは足を進めると、本体を守るかのように錐は伸びていく。


「っ!」

 右によけようとした途端、その場に置いてあった汗衫らしき布を踏んでしまった。ずるりと、視界が反転する。背中を強く打つ感覚に目を閉じた。


 ——— そして、次に目を開いた時。


「———!??」

 霧だ。錐がこちらを向いていた。眼の先にそれがあった。ぞわりと背後をなぞる冷気に一瞬で体が凍った。動け、と思うのにその先を想像してしまって体が進まない。

(——— 嫌だ……嫌だ、いやだ!)

 目が見開いて、髪が床に散らばっていくのに、体はぴくりとも動かない。心で何度も叫ぶ。

(私は、まだ……)

 しにたく、ない。


 その時、どこかで何かが割れる音がした。それはいとの胸元に入っていた香り袋からだった。香り袋が入っている所から、光が漏れだすといとの体を包み込んでいく。それは真昼の太陽のように輝き、夕暮れ時の薄暗闇を照らしていく。

「何が……起こって、いるの?」

 じりじり、と霧が光に焼かれるように散っていく。その光は一瞬だった。その一瞬で霧を焼き尽くし、ぴたりとやんだ。


 のろのろと体を起こし、髪を解くと、止まっていた音が鳴りだした。そう、例えば誰かの足音。金属交じりの低く、重たい足音だ。


「柳というが、うさぎのようだったな」

 声の主はにやりと笑った。夕暮れだというのに、白い歯が光って見えた。

「これで分かっただろう。呪いは本当だ」

 へたりこんでいるいとの前まで来ると、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。深い森の匂いをまとった侍はいとの知る限り一人しかいない。


「お前も”眼”を持っているんだな」

 一拍置くと、侍はいとの目を覗き込んで言った。

「俺と手を組め、互いの利益のために」

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