第7話 香合わせと追憶と①

 桜の中で彼女は笑っていた。乳兄弟や他の姫たちとひいな遊びに興じている。外で彼女を見かけるのは久々で、自然と表情が和らいだ。

 

 悲しみも、

 苦痛も、

 怒りさえ、何もなく、無垢な笑顔でそこにいた。


 それでいい、それでいいんだと心に何度も言い聞かせた。たとえ自分がそこにいなくても、彼女が笑ってくれるならそれでいい。


 ——— それでいい、それでいいんだ。


 彼女は幸せになるべきで、自分はそれを守る義務がある。あの日の約束は、今も自分の中で息づいているから。


 でも何だろう。この背に這いよる形容しがたい感情は。


 悲嘆とも、

 うめきとも、

 嫉妬とともれるごちゃまぜの感情だ。

 ふと、足元に伸びるおのれの影に問いかける。影のように生きていても、影は変わらずにそこにある。


「これでいい、これでいいんだよな?」


 その問いに答えてほしいのか、それすらいまだに分からないままだ。

 ——— あぁ、まだあの桜は咲いている。


***

「この沈香に合わせるなら、この香木がいいわね」

 親が持たせてくれた香を広げ、いとは香合わせをしてみることにした。香合わせ、つまり香の調合のことで、貴人はそれぞれ自分らしい匂いを作りそれを振りまいている。

 和歌にも「想い人の匂いが抜け殻のような布団からまだしている」と詠まれることはある。後朝きぬぎぬの歌呼ばれる分野で、かなりの数が存在している。

 

「馬鹿言ってんじゃないわよ。そんなピリピリする匂いなんて、女御様らしくないわ。こっちの穏やかな香がぴったりだわ」

 別の香炉を綾衣が差し出してきた。薄桃色の香炉には、その色合いに合うような儚げでうっとりするような甘い香がたかれていた。

(何この香、甘すぎる……)

「それ、私には合わないんだけど」


 顔をしかめていとは抗議するも、綾衣ははっと鼻で笑った。

「影武者の希望なんて聞いていないわ」

「柳って名前で呼びなさいよ。綾衣」

「さんをつけなさい、年下のくせに」

「たかがひと月の違いじゃない。誤差よ誤差」


「誤差だろうが私の方が年上には変わりないわよ。年上は敬いなさいよ、礼儀でしょ。宴まで時間がないんだからちゃんとしなさいよね、柳」

 綾衣は相変わらずだ。けれど、竹を割ったような性格がこの場所ではかなりありがたい。腹芸などできそうにない素直さを持った娘だなぁ、といとは思った。


 様々な憶測や流言飛語が飛び交う宮中において、綾衣のような性格の少女は尊重されるだろう。

 今日の友が明日敵になる、昨日の敵が友になる、そんなくるくる変わる世界において、変わらず接してくれる存在は貴重だ。


(だから、白でいいと思う。仮定でしかないけれど)

 怪しいと思えばいくらでも怪しいと思えるから、可能性だけに止めないと管理しきれない。

「でも、この香だと甘すぎて武芸の観覧には合わないような気がする」

「……それも、そうかも。じゃあ、こっちの配分を下げて、と」

「ずいぶん手馴れているのね、綾衣……さん」

 その言葉に綾衣は目を丸くして、ぷっとふきだした。そのまま、くすくすと袖で口元を覆ってうつぶせになりながら笑っている。おかしくてたまらない、そういった雰囲気だ。


「ちょっと、笑うのはひどいんじゃない!?」

「そうね、そうねっ! ふふっ、あははっ! ごめん、ごめんって。ちょっと、意外で!」

「意外?」

 息を吸い込んで数回、綾衣はほっと肩を落とす。

「柳があまりにも素直に人をほめるものだから拍子抜けちゃって。あなた、ずっと気難しい顔をしていたじゃない」

「それは、そうだけれど。だって私自身と私の家族の命にかかわることだもの」


 その言葉を聞いて、綾衣は香炉を自分の膝に置いてゆっくりと撫でた。

「家族の命がかかっているのだものね。……悪かったわ」

 その言葉に、今度はいとが面食らう番だ。この娘から謝罪らしき謝罪を聞いた事がない。女御の乳兄弟だからその威光を笠にきているのだと思っていたが。


 それから、綾衣はただ黙って香炉を撫でるだけだった。いとはその様子を不思議に思いながら、別の香の調合を始めた。

「あなた、きょうだいがいるのだったわね」

「ええ」

 いとは手を止めてうなずいた。

「きょうだいは可愛いでしょうね」

「……はい。生意気盛りだけれど、とってもかわいいわ」


「私にとって、女御様が私の姉さまなの。幼いころから可愛がってくださったわ、手習いもほめてくださったの。琵琶が上手になったのね、古今をそらんじることができるようになったのね、って」

「…………」

 香炉をなぞりながら、綾衣は静かに言った。いつもの様子とは打って変わった、寂しさが混ざった声にいとは何かを感じ取った。


「だから、入内の話はとてもうれしかった。私の姉さまが帝のおそばに上がれるほど素晴らしい姫君だって証拠だもの」

 素晴らしい姫君だから入内できた、という構図は少し疑問符が付くけれど、少なくともいとの様な田舎育ちのじゃじゃ馬姫にはめぐってこない話だ。

 綾衣はゆっくりと香炉のふたを開け、そこに入っていた香木を慎重に取り出すと、別の香と混ぜ始めた。


「なのに、どうして女御様が呪われなければならないの。誰よりも優しい、ただの一介の女房にも気をかけてくださる人なのよ」

「わかるよ。いきなり影武者の話が出てきて驚いたけれど、女御様は快くご自分の物を譲ってくださったわ。それに、この間黙って外に出たことも許してくださったわ」


 あの時の命令はそばに乳母がいたから、威厳があるように見せかけたのだろう。いとが部屋に下がると、女御は文をくださった。そこには、関係がないはずのいとを巻き込んで申し訳ないこと、自分のことは気にせず犯人探しに注力してほしいということが書かれていた。


 文から感じ取れた心に、いとは協力しようと思った。


「……絶対に、見つけなさいよ」

 誰を、と言わなくても分かっている。けれど、そのまなざしを前にあらためていとは強くうなずいた。

「わかってる」

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